かけ離れても、離さない現実
もう感覚が変わってしまうと、元の、いや馴れ親しんだ感覚には戻れない
戻れないのもあるが、戻るという選択肢を選ばないようにしている。
「選ばないようにしている」
意識して選んでいない。
完全に馴れ親しんだ感覚から離れているわけではないから。
まだ片足は、馴れ親しんだ感覚に足を突っ込んでいるのは間違いない。
だからこそ、馴れ親しんだ感覚(俗世の感覚)の人たちに『別れの準備をしている』。と自分の行動を見ている。
ただ別れられない、別れにくい繋がりに対して、新たな付き合いをしていこうともしている。
特に血縁関係。
その血縁関係の繋がりは、唯一馴れ親しんだ感覚と新しい感覚を持ち合わせることのできる繋がりにしている。
そこは繋がっておこうと決めている。
父、母が居て、その両親にも両親が居て、自分がこの世に誕生するまでに様々なご縁があり、『今ここ』に存在している。
また幼少期から共に生活をした兄弟は、他者が知りえない自分を知っている。
年を毎に、その縁が大切に思えるようになった。
大きな愛を与え続けてくれている親の存在は、非常に大きい。
いつまでも親でありながら、確実に老いている。
そして兄弟の環境も変わり、話す内容も変わっている。
年老いた親の面倒をどうするのかということが現実味を帯びてきたこともあるだろう。
祖父母のことを世話する親を見て、いつかそれが自分の番になり、いつか自分が世話される立場になることを思うと居た堪れなくなり、親がまだ元気な状態にできるだけ関係値を再構築すると共に、将来の話しをしている自分がいる。
親のことを考えると兄弟の存在があり難くなる。
一人だと全て一人で抱えなければいけない。
伴侶がいようが、いまいがそれは関係ない。
核家族化が進んでいるため、親を兄弟で看るということが少なくなり、自分が生活をすることでいっぱいになり、親を施設に入れるようになることが多い。
もし自分なら施設に入りたいだろうか?
迷惑を掛けたくないと思うと、施設に入り、お金を払って世話をしてもらうことになる。
子どもには迷惑を掛けたくないが、施設の人ならいいのかなど、横道にそれる思考が走ってしまうが…そこはお金という対価が解決してくれるのだろう。
何とも複雑な枠組み(システム)だと感じる。
合理的ではないと感じる。
家族みんなで看る方がいいのだろう。
昔はそうだったのだ。
家で生まれ、家で死んでいく。
家族、親族、友人、近所の人たちに囲まれ、そういった集団(コミュニティ)の中に存在していた。
その弊害もあるだろう。
それがあるからではないが核家族化が進行した要因の一つだと思う。
そんなことを考えながら、兄弟と話す時間を増やしている。
結束すべきとまでは思わないが、もう俗世と離れていっているので、そういうところは感覚を合わせておこうとしている。
それは自分がこの世に誕生し、『今ここ』に存在していることをあり難く思うからこそである。
可能性という出会い
新しい出会いは、たくさんの可能性を生み出す
ケミストリー(化学反応)。
あんなことも、こんなことも、色んなことができるなーと、一人想像してにやけてしまう。
だが、そういう広がりは楽しいことばかりではない。
可能性があるということは、その出会いが引き起こす何らかが、思っていることとは違う影響や問題を運ぶこともある。
新たな道にワクワクするのは、未知なる世界に希望と期待を持つから。
その新たな道が楽な道ではないかも知れないと予想しておくことも忘れないこと。
それが覚悟や決意ということなのかも知れない。
ただ自分にとって必要なこと以外は起きない。
道は単なる道でしかなく、その道に何を思い、どんな反応をし、何を選択するのかという操作(コントロール)ができること。
予想外も含めて、影響を選定していく。
まるで盆栽の手入れをするように、自分の思い描く形に近付けるために、不必要な枝葉を落としたり、必要あらば接ぎ木したりする。
接ぎ木は新たな可能性といったところだ。
「ん?」と思うことも俯瞰してみれば、必要であったりする。
可能性とは多様に変化するためのきっかけではないだろうか?
歩んできた一本の道から、多方向に分かれ、それぞれに何かしらの変化がある。
どう変化したいのか、どうなりたいのかということを思い描きながら、用意された道を進めばいい。
それぞれの舞台で
人の上に立とうと思ったら、自分のこと以外を考える必要がある。
自己中心的な考え方では誰もついてこない。
私利私欲のために、人を使う人には誰もついてこない。
自分が楽になることが目的ではない。
所属するところに対して、その中枢を担う者として何が大切なのか、何をしなければいけないかを全体を見据えて判断して、決断し、行動する。
などを、職場で話ししていた。
が、もし一人ならどうだろうか?
自分が社長ならどうだろうか?
自分のことを考えなければ生きていけない。
だが、ここで出てくるのが他人にどのような価値を与えられるか。
とはいえ、明確な線引きはなく自分や他人の喜びや得になることは、近似値になるだろう。
他人の喜びと自分の喜びが近いとやりがいも感じられる。
ただ懸念することは、他人の喜びが自分の喜びとならないこと。
自分の喜びと他人の喜びは似ているようで違うということ。
そんなことを人の上に立つことを話ししてて思った。
独立してやるということは人の上に立つことではない。
相手と対等であること。それだけではないがまず対等になることは容易ではない。
会社組織に属することがどれだけ楽なのかは、そういったことからわかる。
その分、独立してやっていく難しさもわかる。
属することと独立することのどちらがどうとかはなく、それぞれの舞台が用意されている。
その舞台で演じる時のコツみたいな話しだ。
それぞれの舞台に、用意されたアトラクション(催し)を全力で楽しめばいい。
それを楽しんでいれば、次の催しが準備される。
まだ、次の催しに乗る(行く)準備が出来ていなくても、もう次の催しの入り口の前にいる。
こなした催しに再度乗る(行く)ことはない。
次の舞台、その次の舞台と、どんどんと舞台は変化していく。
そして、描いた舞台に近づいていくが、描いた以上の舞台が用意されている。
どんな舞台だろうが、そこに登場する人物に対して、自分がどうするのか、どんな物語を描くのかは自分が決めること。
ありがとうと言い合える関係
一般的に生きていたら、創造と無縁だと思っていることが多いと思う。
創造はモノを作り出すこと(特に芸術的なモノなど)だと思っている人が大半ではないだろうか?
だが、創造はモノを作り出すことだけではない。
自分しかできないこと。
他者に対して自分ができること。
それによって他者が喜ぶこと。
これが創造するということ。
自分が行ったことは価値という形になり、その価値はお金というモノに変えられることが多い。
分かりにくいのであれば、何かを得るためにお金を払う機会を想像してみて欲しい。
何に対して、お金を払っているのだろう?
例えば、喫茶店に行って飲み食いしたモノに対してお金を払っているが、その喫茶店にいる間は、空間に対しても払っていることになる。
そうやって目に見えることだけでなく、見えない部分もよく見てみるといい。
色んなモノゴトの価値に対して、お金を払っている。
この『価値に対して、お金を払っている』ことに気がつくかどうかが大切。
他者から与えられることばかりであれば、対価がいくらあっても足りない。
だが『自ら価値を生み出していくことで、変化が訪れるのではないか?』
と気がつけば、もう価値を生み出しているのと同じ。
価値は受け取る相手(他者)によって決められる。
もちろん、こちらが対価の設定をすることもあるが、それは受け取る相手が妥当と思ってこそその価値となる。
創造するということは、自分という存在から価値を生み出すということなのだ。
だが、間違ってはいけないのが、他者に依存しないこと。
この辺りの調整が難しいかも知れない。
他者が喜ぶことを自分の喜びとしないこと。
自分が喜ぶことを、他者に提供し、他者が喜ぶことが大切。
これが世間一般で言われるwin-winの関係。
打ち負かすことはない。
お互いに尊重し合うことで、相乗効果が得られることもある。
創造とはそういう価値を生み出すこと。
ありがとうとお互いに言える関係。
自分の世界に生きる
朝起きてから寝るまでの間は、自分の意識が認識できる時間である。
その認識できる時間で何を意識しているのか、何を想像しているのか、何を思っているのか、何をしているのか。
実際に行動することで、自分の世界に大きく影響する。
それ以外の意識や無意識、想像、会話なども大切になってくる。
ここでいう自分の世界とは、自己中心的な考え(俗にいうワガママ)ではない。
自分の世界は、誰でもなく自分が創り出している。
もちろん社会と関わっている以上、社会の影響はあるものの、その社会が自分の世界そのものになることはない。
社会という枠は、場所や人などの環境によって変わってくる。
自分もその社会の一部である。
前に『場』の話しをした。
自分の周りで起きている『場』のチカラが自分の世界に影響を及ぼす。
だいたいが無意識に認識していることや意識的に認識していることが『場』のチカラが影響する接点となる。
無意識に認識しているとは、例えば街中の大勢の人が居る中で、自分の名前が聞こえてきたときに、反応してしまう(自分の名前を言っているとわかる)など。
そういった接点から、『場』の作用であったり、自分が『場』の中心になったりする。
自分の世界と『場』との関係を知っていれば、自分の世界に必要なことを入れることができる。
自分の世界では、自分がどう生きていくのかという軸があり、社会との関わりも含めた世界である。
自分の世界に何を持ち込むのか、何と、誰とどのように関わりたいのかなどを考え、想像し、行動していくことで、世界は思った以上の世界になる。
ー 電車の中で、隣の人が化粧をしていた。
公共の場でみっともないなと思いながらも、気にしてなかったが、あまりにも丹念にするものだから、色々と想像してしまった。
これからデートなのかも知れないなどと。ー
だが、ふと思った。
自分にとってどうでもいいことを、なぜ想像しているのか。
そんなことを想像する間があるならば、自分がしたいことなどに使った方がいいだろう。
単純なことだ。
自分の世界に、必要のないことを入れる間を持たないこと。
やることがたくさんあるのに、色んなことに気をとられて、やることをやっていない。
集中していない。
本当に自分の世界を、自分の思っている以上の世界にするには、必要でないことをできるだけ少なくしていくこと。
その世界を作っていき、そこで生きていくことに注力していくこと。
何かに命をかけるという言葉があるが、かけるのは命ではなく『存在』をかける。
それが創造すること(クリエイト)であり、そう生きている人が芸術(アート)なんだと感じた。
幾度なく、繰り返して
自分の感覚に『はっ!』と気付かされることがある。
人と話していて、『こんな良いところあるのか』、『可愛いところあるな』、『しっかりしているな』など、対する相手に良いところを見つけて、感心している自分に『はっ!』となった。
対する相手が気分的なことやその時の状態もあり、自分の思っているようなことを
相手にそういうところを見つけた時に、何故いつもそうやって良いところを見るようにせず、悪いところばかり見てしまうのかと考えた。
考えても、わからなかったので調べてみると、『自分自身を許せていない』、『相手に見える部分は自分の投影』などが書いてあった。
自分自身を許せていないか…
許せていないというより、気持ちや時間、生活などに余裕がなかったことや自分自身の価値観や考えを他人や相手に押し付けていた。
自分の物差しで相手を測っていた。
そうして何があるのか?
他人は他人
自分は自分
自分の世界に他人のすることを持ち込み、それについて何か思っても、どうしようもなく、何の進展もなく、何の変化もないことなどがわかった。
自分がどう思おうが、どうしようが、それぞれがそれぞれの人生を歩み、存在しているということは、それが許されているということ。
自分が良し悪しを判断することではない。
それぞれが好きにしたらいい。
自分がしたことの結果が自分の世界に反映される。
自分の世界は自分で創造している(クリエイティビティ)。
何かモノ(例えば作品など)を創ることだけが創造(クリエイト)ではないことに気がついた。
自分の人生こそ、創り出していくことなのだと思った。
人との出会い、人との付き合い、何を選び、どんな反応をして、自分が気持ちのいい世界、なりたい自分で『今』を生きていく。
そうすることで創り出している。
それが意識的であろうが、無意識であろうが。
『他人のいいところばかり見て、付き合いあっていけば、きっと人生はいい人たちが増えていくのだろう』と、昔思っていたことを思い出した。
それを忘れていて、今そうしていけよと誰か(おそらく自分自身)に言われているのだろう。
少し、余裕が出た時に、そんなことをふと思い出した。
同じことを幾度となく、繰り返しているけれど、『創造すること』とはどういうことなのかを改めて考えさせられた日であった。
バブルボムゲーム
唐突だがこの世界には、『場』という見えない作用するチカラがある。
心理学でも、名称や捉えている角度は違えど『場の作用』について言及がある。
『場』というのは人の思念が、渦巻き他の人の思念を巻き込んで膨らんでいく。
その膨らみは、その人の思念(意識していることより無意識で認識していること)が形になるまで膨らみ弾ける。
ただ他の人の思念も集まるため、認識している以上のことが起きる。
人の思念の中に、自分の思念の種を植え付けるだけで、どんどんと『場』は思念を求め膨らみ、動き、吸収していく。
その作用を使いこなすと『引き寄せの法則』になる。
例えば、車を運転していて、右に曲がろうと思うと、右にハンドルを切るように、右に曲がるという想像を持った思念が、体や環境など(ハンドル)を想像に近付ける。
とんだ精神論だが、人は想像したことをしようとする。
自分にとっていい『場』ならばいいが、自分にとって不要な『場』に巻き込まれると逃れられず、被害を被るときがある。そうならないようにするには、思念を持たないこと。
思念、思い、言葉にするなど意識や無意識にそういったことを入れないこと。
また『場』が近付いてきたら、さらっと流すことが大切になる。
生きているということは、そういったゲームに参加しているという認識をした方がいい。
『場』という膨らむバブルボムをどう回避し、どう自分の目的のバブルボムの中心に入り込むかというゲームなのだ。
もちろん、ロールプレイングゲームであったり、アクションゲームであったりと、様々な形のアトラクションが用意されている。
ゲームのように説明書はない。
そして、完全没入形のゲームなので、ゲームに参加していることすら明示されない。
説明書はないがガイドはある。
操作についてや、ルールについての案内は人であったり、体験であったり、書籍、口伝、様々な形で案内される。
意図と違った案内もあるので、全てが自分に合っているとは限らない。
一見、難しいと感じるが、感じてしまうと無意識がそう認識する。
一つ一つ、噛み砕いてわかっていくことで、このゲームを楽しむことができる。
終焉ですら、自分で描くことができる。
できるが、できるまでやり続けることが大切。
色んなアトラクションを十分に楽しんでいこう。