忙しさ
かつてないぐらいの忙しさ。
好機という列車を待っていると、前回書いたのだが、どうやら乗っているらしい。
乗った確証はないのだが、間違いなく乗っている。
しかも各駅停車の列車ではなく、急行か特急。
その流れの速さに自らを合わせていく。
成りたい自分、成るべき自分を明確に想像でき、その成った自分なら今をどう過ごすのかを考えると、全て通過点でしかない。
一度通過したはずの道。
なので、全て対応できる。
成った自分なら、対応した事ばかり。
こういった視点を持つことで、客観的に見ることや俯瞰的に見ることができる。
主観である楽しさだけでなく、客観的や俯瞰的に楽しめる。
客観的に見ても、俯瞰的に見ても、未だ来ていないことは新鮮である。
未来の自分であれば起こる出来事は全て体験済みなので、慌てることはない。
忙しいのにもやがて慣れたり、過ぎ去ったりする。
目の前のことはこなすこと、その先にはこなしている自分がいる。
焦点を現在に合わせるのではなく、成っている自分を想像して、そこに合わせること。
その忙しさも愉しめる。
忙しいことで、大切なことを失ってはいけない。
忙しさを愉しめるが、常に学びの精神を持っておくこと。
ただ単に列車に乗っていれば目的地に着くというわけではない。
列車に乗っている間に、目的地に着いた時にする準備をしておくこと。
そうでないと、目的地にたどり着けないこともある。
列車に乗ったまま、どこに行くのやらわからなくなり、結局振り出しに戻ることもある。
目的地に着いたが降り方がわからないこともある。
降り立った目的地で、やるべきことが、やりたいことが何だったのか、どうやってやればいいのかわからなくなることもある。
一歩でいい、1つでいい、少しでいいから、成った自分に近づくことをしていく。
コツコツとやるしかないのだ。
飛躍するのは、そうやってコツコツしてきたことが積み重なり、化学変化により爆発が起きた時だろう。
そこは他力による。
自力でその境地にはいけないのだ。
他力があるからこそ、自分という存在が生かされる。
他力とは、他人の力ではない。
ご縁のチカラ。
忙しい中であろうが、この他力は常に作用する。
忙しくなって心に余裕がなくなってしまい、列車に乗っていること、学びの精神、他力によるご縁などを忘れてしまわないように気をつけたい。
生み(作り)出すということ
アーティスト、クリエイターと呼ばれる人たちは、他と比べてどうなのかということよりも、自分の内面と向き合い、客観的に見つめ、そこから抽出される一滴、一滴の精製された自分の魂を加工しているのだと感じた。
言い換えればアートやクリエイトするということは、自分の中にある『思い』であったり、自分自身の『魂』なるもの、自分自身を見つめ、それを何かで表現することである。
例えば絵描きが居て、目の前に広がる風景をキャンパスに描いたとしよう。
それを正確に描くことが大切なのではない。
絵として、どうこうという決まりはあるかもしれないが、それは他者が決めた決まり。
だから、その決まりに則ることはない。
ただ作品として決めるのは自分ではなく、他者であることを忘れてはいけない。
その作品として描いた絵に、他者は何を見ているのだろうか?
正確に描かれていることだろうか?
他者が何を感じるのだろうか。
言語化しにくいところではあるが、その言語化しにくいことを言語化して、自分を知ることで、その描いた絵から読み取ることができる何かをしっかり見ることができる。
描いた絵から読み取れるのは、美しい風景ではなく、その風景を見て、描いた人が何を思って、その風景を描いたのかということだろう。
ただ単に美しいと思い描いただけの絵であれば、他者はその絵に惹かれることはないだろう。
他者が惹かれるのは、描いた絵を媒介として、描いた人から伝わる何かである。
その何かがしっかりと描く自分自身が知っておくこと。
上手い下手という技術的なことよりも、伝わる何かをその作り出すものに込められているのか、そしてそれが作り出すものから溢れ出ているのか。
自分自身を知らなければ、伝えたい何かをそれに込められない。
だから自分自身を嫌というほど見ることになる。
自分自身と向き合うと、かなり精神力、体力を費やす。
時間も、お金も、全てをつぎ込んで、自分というものを作り出すから。
生みの苦しみとは、そのようなことからの言葉なのかもしれない。
0から1を生み出すともいうが、それは何も『ない』ところから、『ある』を作り出すからではなく、その『ない』と思っていたことや認識から少し『ある』を引きずりだす感覚。
何も『ない』のではなく、『ある』けれど『ない』ように感じていることを、しっかり『ある』状態=表現すること。
表現、どちらも『あらわす』と読む通りに、『目に見え(視覚化)、それを相手(の心)に伝えることができる』状態なのだろう。
その表現することは、自分の魂であり、世界観であったり、何であれ自分そのもの、自分の中にある魂を相手に伝える。
技術的なことはもちろん、それに必要な道具や費用は必要であるが、どんな技術が最高であろうとも、素晴らしい道具を持っていようが、かけられる費用があろうが、その生み出すものに対して、魂を込められるかが重要である。
魂を宿らせることができるのであれば、技術、道具、費用などは、そこまで重要ではないと言える。
『これっ!』って言える確固たる信念を見出すことから。
もちろん、表現するにあたり、対象がどうなのか。その技術や道具で表現できるのかという課題はあるものの、それは魂を込めることができるようになってから。
技術があろうとも、道具が揃おうとも、魂を込めることはできないのだ。
生み出すこととはそういうことなんだということが、よくわかった。
自分の魂を表現するのに、正解も限りもない。
果てしも無い自分という宇宙空間に、表現したい何かを見つけ、それを作り出すことに埋め込むのではなく、練り込んでいく。
そのものが自分ですといえるように、練り込んでいく。
そうやって生み出された(作り出された)ものが、他者から作品と呼ばれるものになるのであろう。
仕事から生き方、在り方に
職場の研修にて、ロープレについて話しがあった。
この研修の講師と一度ゆっくり話してみたいと思う。
ロープレとは、ロールプレイングの略で、ロールプレイングとは『役割を演じること』である。
そう、仕事とは役割を演じているのだ。
仕事に従事するからには、その役を演じることが必須であると。
役割を演じている自分と、演じていない(仕事ではない時の)自分とは違う存在だと認識することで、いつもの自分に役を演じている時のことを持ってこないようにできる。
と言う話しをしていた。
そうだよなーと同感していた。
また、人に対して何かをする時、意外と気を使っているということを言っていた。
特に目を合わせて話すことは、気を使うそうだ。
特に初対面の人に対して。
それはお互いに情報がなく、過去の経験則からお互いを図ってしまうことが多いから。
それを改善するには、情報開示や相手にどう認識してもらう(させる)か。
相手がどう思うのかは、自分が相手の立場ならどう感じるのか?
相手の立場になって考えることが正しいわけではないが、あながち間違ったことは導かれない。
そういう時に心理学を知っていると人間の特性から、こうすればこう感じるという普遍的な行動を取ることも出来る。
心理学はそう言った小手先の技術のためにあるわけではないが、技術として使えることが多い。
心理学の本質は、人を知ることで、臨床心理学はそう言った心理学で得たことを実践するなどなど…
人は関わり合う中で生きているため、その特性というものが法則としてある。
但し、必ず適応するとは限らない。
自分が相手に対する言葉や態度で、相手が自分をどう見るのか、受け取るのかがわかっていれば、対処のしようがある。
確かにそうだと思う。
だが、本質は違うと思った。
役を演じていることも、認識のことに関しても、相手のことを考えてすれば、自ずと答えが出てくることだと思う。
自分がどう在りたいかを考えること。
自分を傷つけるものは、自分以外いないということを知らないからだ。
と言われても、わからないから演じていることを思ったり、相手との関係性をどう作っていくか手段から入るわけだ。
自分がどう在るのか、在りたいのかを考えることすれば、人生は楽しく生きることができる。
また、楽しいと愉しいの違いを簡単に言っていた。
たかが、漢字の違いだけだろうと言えばそれまで。
だが、何故違う漢字なのだろうか?
こういった疑問を持つことが大切である。
その講師が説明したのは、『楽しい』とは与えられたことを楽しむことで『愉しい』とは自分で何かをして愉しむことと言っていた。
受動的か能動的かの違いである。
たのしむことは、どちらもすればいいと思う。
だが、楽しくないと感じることに対して、愉しむのは能動的なことである。
何とも…
話しの要点を噛み砕いて話してくれていることには感心する。
利己ではなく、利他であることなどの話しも少しあった。
他者のほとんどは、存在を認められたいのだ。
承認欲求というやつにしてもだ。
人は人との関わり合いの中でしか生きていけないと言っても過言ではない。
そういう風に、人は変化してきたのだ。
森の中で弱い存在であった人が、生きていく方法として、社会という枠組みを作り上げてきた。
その社会の中で、人はそれぞれの役を演じ、人は他者のために、社会のために生きている。
その生き方がいいのか悪いのかは別として、この世に存在しているということは、存在していいから存在している。
そのことに対して、他者に存在を否定されることはない。
自分の人生は自分しか生きれないのだ。
代わりなど居ないのだ。
そして、他者と関わり、色んな選択をして、今最善の状態、状況で常に存在している。
いつでも真理というのか、基礎、基本などは、至って単純かつ明快である。
難しくしているのは、社会でも、他者でもなく、自分なのだ。
どう在りたいか、一度きりの人生、愉しんでいこうと改めて感じた。
かけ離れても、離さない現実
もう感覚が変わってしまうと、元の、いや馴れ親しんだ感覚には戻れない
戻れないのもあるが、戻るという選択肢を選ばないようにしている。
「選ばないようにしている」
意識して選んでいない。
完全に馴れ親しんだ感覚から離れているわけではないから。
まだ片足は、馴れ親しんだ感覚に足を突っ込んでいるのは間違いない。
だからこそ、馴れ親しんだ感覚(俗世の感覚)の人たちに『別れの準備をしている』。と自分の行動を見ている。
ただ別れられない、別れにくい繋がりに対して、新たな付き合いをしていこうともしている。
特に血縁関係。
その血縁関係の繋がりは、唯一馴れ親しんだ感覚と新しい感覚を持ち合わせることのできる繋がりにしている。
そこは繋がっておこうと決めている。
父、母が居て、その両親にも両親が居て、自分がこの世に誕生するまでに様々なご縁があり、『今ここ』に存在している。
また幼少期から共に生活をした兄弟は、他者が知りえない自分を知っている。
年を毎に、その縁が大切に思えるようになった。
大きな愛を与え続けてくれている親の存在は、非常に大きい。
いつまでも親でありながら、確実に老いている。
そして兄弟の環境も変わり、話す内容も変わっている。
年老いた親の面倒をどうするのかということが現実味を帯びてきたこともあるだろう。
祖父母のことを世話する親を見て、いつかそれが自分の番になり、いつか自分が世話される立場になることを思うと居た堪れなくなり、親がまだ元気な状態にできるだけ関係値を再構築すると共に、将来の話しをしている自分がいる。
親のことを考えると兄弟の存在があり難くなる。
一人だと全て一人で抱えなければいけない。
伴侶がいようが、いまいがそれは関係ない。
核家族化が進んでいるため、親を兄弟で看るということが少なくなり、自分が生活をすることでいっぱいになり、親を施設に入れるようになることが多い。
もし自分なら施設に入りたいだろうか?
迷惑を掛けたくないと思うと、施設に入り、お金を払って世話をしてもらうことになる。
子どもには迷惑を掛けたくないが、施設の人ならいいのかなど、横道にそれる思考が走ってしまうが…そこはお金という対価が解決してくれるのだろう。
何とも複雑な枠組み(システム)だと感じる。
合理的ではないと感じる。
家族みんなで看る方がいいのだろう。
昔はそうだったのだ。
家で生まれ、家で死んでいく。
家族、親族、友人、近所の人たちに囲まれ、そういった集団(コミュニティ)の中に存在していた。
その弊害もあるだろう。
それがあるからではないが核家族化が進行した要因の一つだと思う。
そんなことを考えながら、兄弟と話す時間を増やしている。
結束すべきとまでは思わないが、もう俗世と離れていっているので、そういうところは感覚を合わせておこうとしている。
それは自分がこの世に誕生し、『今ここ』に存在していることをあり難く思うからこそである。
可能性という出会い
新しい出会いは、たくさんの可能性を生み出す
ケミストリー(化学反応)。
あんなことも、こんなことも、色んなことができるなーと、一人想像してにやけてしまう。
だが、そういう広がりは楽しいことばかりではない。
可能性があるということは、その出会いが引き起こす何らかが、思っていることとは違う影響や問題を運ぶこともある。
新たな道にワクワクするのは、未知なる世界に希望と期待を持つから。
その新たな道が楽な道ではないかも知れないと予想しておくことも忘れないこと。
それが覚悟や決意ということなのかも知れない。
ただ自分にとって必要なこと以外は起きない。
道は単なる道でしかなく、その道に何を思い、どんな反応をし、何を選択するのかという操作(コントロール)ができること。
予想外も含めて、影響を選定していく。
まるで盆栽の手入れをするように、自分の思い描く形に近付けるために、不必要な枝葉を落としたり、必要あらば接ぎ木したりする。
接ぎ木は新たな可能性といったところだ。
「ん?」と思うことも俯瞰してみれば、必要であったりする。
可能性とは多様に変化するためのきっかけではないだろうか?
歩んできた一本の道から、多方向に分かれ、それぞれに何かしらの変化がある。
どう変化したいのか、どうなりたいのかということを思い描きながら、用意された道を進めばいい。
それぞれの舞台で
人の上に立とうと思ったら、自分のこと以外を考える必要がある。
自己中心的な考え方では誰もついてこない。
私利私欲のために、人を使う人には誰もついてこない。
自分が楽になることが目的ではない。
所属するところに対して、その中枢を担う者として何が大切なのか、何をしなければいけないかを全体を見据えて判断して、決断し、行動する。
などを、職場で話ししていた。
が、もし一人ならどうだろうか?
自分が社長ならどうだろうか?
自分のことを考えなければ生きていけない。
だが、ここで出てくるのが他人にどのような価値を与えられるか。
とはいえ、明確な線引きはなく自分や他人の喜びや得になることは、近似値になるだろう。
他人の喜びと自分の喜びが近いとやりがいも感じられる。
ただ懸念することは、他人の喜びが自分の喜びとならないこと。
自分の喜びと他人の喜びは似ているようで違うということ。
そんなことを人の上に立つことを話ししてて思った。
独立してやるということは人の上に立つことではない。
相手と対等であること。それだけではないがまず対等になることは容易ではない。
会社組織に属することがどれだけ楽なのかは、そういったことからわかる。
その分、独立してやっていく難しさもわかる。
属することと独立することのどちらがどうとかはなく、それぞれの舞台が用意されている。
その舞台で演じる時のコツみたいな話しだ。
それぞれの舞台に、用意されたアトラクション(催し)を全力で楽しめばいい。
それを楽しんでいれば、次の催しが準備される。
まだ、次の催しに乗る(行く)準備が出来ていなくても、もう次の催しの入り口の前にいる。
こなした催しに再度乗る(行く)ことはない。
次の舞台、その次の舞台と、どんどんと舞台は変化していく。
そして、描いた舞台に近づいていくが、描いた以上の舞台が用意されている。
どんな舞台だろうが、そこに登場する人物に対して、自分がどうするのか、どんな物語を描くのかは自分が決めること。
ありがとうと言い合える関係
一般的に生きていたら、創造と無縁だと思っていることが多いと思う。
創造はモノを作り出すこと(特に芸術的なモノなど)だと思っている人が大半ではないだろうか?
だが、創造はモノを作り出すことだけではない。
自分しかできないこと。
他者に対して自分ができること。
それによって他者が喜ぶこと。
これが創造するということ。
自分が行ったことは価値という形になり、その価値はお金というモノに変えられることが多い。
分かりにくいのであれば、何かを得るためにお金を払う機会を想像してみて欲しい。
何に対して、お金を払っているのだろう?
例えば、喫茶店に行って飲み食いしたモノに対してお金を払っているが、その喫茶店にいる間は、空間に対しても払っていることになる。
そうやって目に見えることだけでなく、見えない部分もよく見てみるといい。
色んなモノゴトの価値に対して、お金を払っている。
この『価値に対して、お金を払っている』ことに気がつくかどうかが大切。
他者から与えられることばかりであれば、対価がいくらあっても足りない。
だが『自ら価値を生み出していくことで、変化が訪れるのではないか?』
と気がつけば、もう価値を生み出しているのと同じ。
価値は受け取る相手(他者)によって決められる。
もちろん、こちらが対価の設定をすることもあるが、それは受け取る相手が妥当と思ってこそその価値となる。
創造するということは、自分という存在から価値を生み出すということなのだ。
だが、間違ってはいけないのが、他者に依存しないこと。
この辺りの調整が難しいかも知れない。
他者が喜ぶことを自分の喜びとしないこと。
自分が喜ぶことを、他者に提供し、他者が喜ぶことが大切。
これが世間一般で言われるwin-winの関係。
打ち負かすことはない。
お互いに尊重し合うことで、相乗効果が得られることもある。
創造とはそういう価値を生み出すこと。
ありがとうとお互いに言える関係。