在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

価値を決める

誰にも雇われず、自分で仕事をするとなると、ただ単に『請け負います』だけでは仕事はできない。

相手が仕事を依頼しやすいように、どのような内容や案件などであれば、いくらで請け負うかを提示しておくことが必要になる。
それは自分で決めなければいけない。

【安かろう悪かろう】ということわざがあるように、自信がないから安くするというのは、自分の価値を下げていることになることや値上げが難しい。
とはいえ、高く言って、断られることがあるかも知れない。
では、どこが妥協点なのか。
初めて一歩を踏み出すときは、相場を知らないと判断できない。
実際に自分で自分に価値を付ける、自分自身の価値を決めることになると悩む。

時には、いくらでやってくれないか?
と言われることもあるが、それが割りに合うのかというと、割りに合わないことが多い。

依頼主となる相手が自分を判断する料金設定が必要となる。
そのためには、自分のやること(請け負い、納品するまで、もしくは納品後のメンテナンスなど)を、一つ一つ見ていく。

相手が求めるレベルがどれ位なのか。
高い金額を設定すると、その高い金額に見合うものを提供する必要がある。
また、道具などを揃える必要があると、その道具代も考えて設定しないと、道具のほとんどが消耗品になる場合がほとんど(保守や修理などが必要であることが多い)。

自分を売るということを真剣に考えた時に、雇われるということがどれだけ楽なのか。

そして自分が商品だとすると、その商品管理も自分でする。営業もする。
全てを自分でしていくことになる。
だから、身なりや話し方、全てにおいて気をつけておきたい。

想像してみるとよく分かるのだが、自分が買うとなれば、その売る相手を見ることが大きい。
もちろん、インターネット上のやり取りだけで済むこともあるが、それでも文面や内容などから判断される。

もちろん、それに当てはまらないこともあるが、それでも清潔で、誠実な感じがいいだろう。

これは、仕事を請け負う、請け負わない以前から始まっている。

また少し視点を変えると分かる話しなのだが、例えば化粧品のCMを見てみると、モデルであったり、可愛い、綺麗な人が起用されている。
それは化粧品を使っている人がどんな人なのかで、その化粧品や企業の顔となるから。

であれば、個人でやっていくとすると、土台は変えられなくとも、装いを変えることはできる。
キチンとするということは、キチンとした仕事がやってくるということ。
だらしない、不潔であれば、仕事がやってこないか、やってきたとしても、だいたいそのような仕事になり、場合によっては、支払われないなどもある。

価値を決めることは、その価値に見合った立ち居振る舞いがまず第一。
そして、技術であったり、品物であったり、提供するものの価値を決める。

安請け負いは、自分を苦しめるだけなのだ。
相手が料金を決めるということは、仕事において責任を果たしていない。
自分自身を見て、料金設定をしていくことが重要になる。

安さだけがすべてではない。
薄利多売をすると、自分が苦しむだけ。

自分にしっかりとした価値を持って臨んでいくこと。

夢を実現させる心づもり

自分も、周りから見ても、夢諦められんとか、そういう後ろ向きな感じではなくてさ

もうここまで夢追いかけてきてんから、夢叶うまで走り続けようって
夢追いかけてるんやなくて、夢は現実になっていくもんやから、ちゃんと現実に生きようって

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歳を取れば取るほど、周りの目は冷たくなっていく。
例えば、服装などの身だしなみや言葉遣いなどから、趣味嗜好、考え方など色んなことに対して。
若かれし頃は、他人から言われることもあったが、もう他人から言われることはなくなっていくものの、冷ややかな目線が飛んでくる。

夢を追い続けていると、周りの人が『応援している』と言っても、心の中で馬鹿にしていたり、『いい年して…』と思われていたりする。

それを間に受けることはない。
自分で判断すればいい。
他人がとやかく言おうが、その責任を取るのは自分自身だから。
もちろん、他人に迷惑を掛けてまですることではないので、その判断はしっかりした方がよい。

周りに『いい年して…夢を追い続けて…』などを言われようが、思われようが、
『ここまで、今まで追いかけて来たのだから、必ず実現させる』と覚悟して、実現するように動き続ければいい。

『夢は追いかけるものではなく、創り出す、現実にしていくこと』と自分自身が、わかっているのか。

知っているのではなく、わかっているのか。
わかるということは、知識として持っているわけではなく、経験として体験していること。

ここで、夢なので体験していないと矛盾が生じるが、ここが大切なところ。
未だ、体験していない、経験していないが、夢が叶った自分は体験している。
夢が叶った体験をしている自分と、今の自分はどう違うのだろうか?
今の自分は夢が叶ったとなるのは、いつだろうか?

自分は今ここにしか存在しない。
未来にも、過去にも自分は居らず、今ここにしか居ない。
体験している自分であればを想像することで、創造していくことができる。

何故かが大切なのではなく、そうしてみることが大切なのだ。
そう想像して、今からの出来事や繋がりに対してどう反応したら、どう選択したらいいのかが、自ずと見えてくるからだ。
体験しているので、こなすだけのことになるが、こなした記憶はないのだ。

それが面白いところである。
脱線してしまったが、創り出すことを決めてしまえば、決まっているのであれば、それをやっていくだけになる。
初めての体験なので、知らないことも、迷うことも、悩むこともあるだろうが、こなした自分で考えて行動すればいいだけ。

それが、人生を楽しむコツの一つ。

新しい環境

仕事の往復時間にブログを書くことが多かったが、異動になり職場が家と近くなったことと職場の環境が変わったので、書く間を見つけられずにいる。

 

異動前の職場では人間不信に陥りかけた(一度、陥った)が、そこから離れれば縁の無い人たちだったということがよく分かった。

『飯を食いに行きましょう』と言っていた人たちすら、何の連絡もない。

『まあ、こんなものだろう』と予測していた通りで驚きもしない。

 

さて、新しい職場で目立って感じるのが【お山の大将】的な人たち。

いい年して『ありがとう』の一言も言えず、コミュ症的な感じなのに、えらそうにする。

『俺がここで一番偉いんだ』と言わんばかりの態度。

 

この業界では、どこに行っても同じような感じで、それが酷いか軽いかぐらいで殆どがお山の大将である。

私は媚を売るのが大嫌いなので、媚ずに上手に付きあう技術が必要。

 

ふと『朱に交われば赤となる』の言葉が思い浮かんだ。

コミニュティの中に入るということは、『郷に入れば、郷に従え』ということが暗黙の了解としてある。

郷に従わなければ、疎外感だけではなく仕事をする上でも支障が出てくることもある。

 

だが、そこに染まらないようにしておきたい。

 

コミニュティが形成された後、悪いコミニュティは入り口が狭い。

新しく入ってくる人たちと仲良くせず、そのコミニュティに共通することを話題とし、他を寄せ付けない(わざとではなく、自然とそうなることが多い)ようにしている。

日本が島国だからそういう文化なのだろうか?

 

そのコミニュティに入っていくためには、朱に交われば…とならなければいけないのか…

 

入りたくないコミニュティとどうコミュニケーションを取っていくのか。

しかもお山の大将ばかりのところに…

 

仕事でなければ、まず関わらない世界だと思う。

そこで仮面(ペルソナ)が出てくる。

演じること。

本当の自分に影響が及ばないように、鉄の仮面を付けて、コミュニケーションを取る。

鉄の仮面といえば、硬く冷たい感じがするがそうではなく、今までの仮面より自分を守るための強い壁というか、染まらないようにする。

 

全員がそうでないので、個人の良いところと付き合うというのもやっていくことが大切だ。

 

新しい環境というのは、何かと慣れるまでに時間がかかる。

それは色んなことを変えていくために、意識することが増えるから。

 

ただ新しいところには何かがある。

その何かを楽しみにして、『朱に交わろうとも、我を忘れず』でやっていけばいい。

 

痛い目にあえばいい。

声を大にして言いたいことがある。

 

『共有する』ってことは、人と関わる上で大切なこと。

 

何故、言わない。

何故、伝えない。

 

共有がないと困るのは、お互い様である。

共有されていなかったため、その場の対応で色んな問題を発生してしまう。

共有していなかったため、その人が知らなかったことで恥をかく。

 

共有っていうのは思いやりの一つだと思う。

政治や公的な場では事前に伝えることで、ことがスルスルと進むが、事前に共有がないとその場で言われても、答えられないということがある。

これを根回しという。

 

根回しについて昔、記事にしたことがあるが、大きな木を切るために根っこを切っておく。

根回しというと、いい印象をもっていない人が多いかも知れないが、そうではない。

ビジネスにおいても、何においても根回しは大切なこと。

 

根回しも共有も似たようなこと。

 

会社では『報・連・相』が大事と教えられ、報告する、連絡する、相談することを口すっぱく言うが、これは共有するということを分けて言っているだけだ。 

そうすることで会社に守ってもらうことがある。

上司が助けてくれることもある。

 

だが、それは会社だけのことなのだろうか?

否。

 

社会の上でも大切なことである。

これは相手に伝えておいたほうが、いいと思う『思いやり』なのだ。

 

自分自身、いい加減なところがあり、共有し忘れることもある。

抜けていることや、だらしないところもある。

そうやって自分のダメなところをしっかりと把握しているからこそ、そうならないようにはどうすればいいのかを考え、対策することができる。

 

だが、周りに本当に共有しない人が多すぎる。

できるだけ、合わせるようにしているが、合わせることの負担は少なくない。

 

あまりにも酷い場合は合わせずして、共有していないことを指摘すべきか。

いつか共有しなかったことで、痛い目にあえばいい。

そうでないと人は、人に言われてもわからないのだろうから。

最高の最期のために

9月から新しい場所で勤務することになった。

昨年の12月から8月いっぱいまで、9ヶ月間お世話になった。
思い返せば、昨年9月からお店で勤務して、11月いっぱいで異動してから、ずっとやってきた。
勤務するには遠く、アクセスの悪い場所であったが11月いっぱい居たお店のスタッフが、自分とは合わないからと言うことで色んな難癖付けられ結果、出禁となった。

この仕事、この関連の仕事を昔からしているが、人生初めての出禁であった。

出禁となるまで、普通に話していたのに…
衝撃だった。
人間不信に陥った。

そんな最中、次のお店では前の店で出禁になった理由に対して気をつけてきた。
ただ気をつけていた以上に、そのお店のスタッフと距離が近くなり、自分のやりたいことのために、シフトを調整した結果、次のお店から人を変えてくれとお達しがあった。

それを聞いたのは8月頭。
異動とわかっていたからこそ、今まで以上の成績を残す努力をした。
飛ぶ鳥後を濁さず。
次にこの店で働く人が働きやすいように。
そこの会社と自分の会社の契約に傷を付けないように。

自分が気をつければ、たくさんのことが上手く回る。
無理をしているのではない。
いつからか上手に力を抜き、愉しめるようになっていた。

異動を願ったのは、店長だった。
最後の最後まで異動を知っている気配を一つも見せずに居たため、店長が異動になるのか確認を自分の上司にしていたことを後で聞いて、笑えるなと思った。
店長が最後に『お疲れ様です。またいつか…』なんて言ってたが、自分の内心で『こういう人になってはいけない』と確信した。

新しい勤務地では勝手が違うため、気疲れしたものの出足好調であった。

会社組織や雇われで働いていることに対して『本当にどうでもいい』と感じている自分を見つけた。
それは何を求めても、返ってこないことを知ったから。
だから求められても、自分のやりたいことに響かない範囲でしか返さない。
それがいいのか、悪いのかはわからない。
ただ、この会社組織で骨を埋めることはないと確信している。
骨を埋められるような会社ではない。
上司を見ても、働いている人を見ても、その答えしか出ない。

だからと言って、辞めるという選択肢はない。
何だろう、達観していると言えばそうなのかも知れない。
興味がないと言えば、そうなのかも知れない。

今までとは何かが違う。
完全に違っている。

既に変化してしまっている感覚がある。

瞑想状態に近い。

それでも仕事の目標があり、それを追い求めていく。
住む世界の違う友だちとは違い、仕事は全力でする。
合間は自分の生き方について想像や妄想、いい刺激になるようなことがないか、面白い人が居ないか、面白い人と仲良くなれないか、いい出会いはないか、そうやって自分の生きることに役立つことを考え、探している。

休む間はない(いらない)。
生きるということを精一杯、一生懸命、全力で愉しむ。
そのために時間はあるのだ。

自分という映画の幕が閉じるとき、残せたモノコトは何なのか、悔いなき人生と言って笑顔で幕を閉じたい。閉じる。
そのために全力で生きる。
最高の最期を迎えるために。

違いを認める

『もうこちらから連絡しない』と決めた相手に連絡をするか、しないのかという選択する出来事があった。

【連絡をしなければ】
連絡をしなかったことで、この先、お互いに面倒なことになるのだろう。
また相手から連絡があるのを待つことになる。

【連絡をすれば】
連絡をしないと決めたことに対する清算が待っている(和解になるのか、再び決裂するのか不明)。
清算の先のことまで考えられない。

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待つということは自分の流れではなくなるので、連絡をすることを選んだ。
一度、言いたいことを言う機会と思えば、そういうきっかけにすぎないと思うことにした。

連絡をし会って話した結果、どうでもなかった。
ただ、住む世界、舞台などが違うことがわかった。

彼には守るべき世界があり、それは一人の世界ではない。
その部分は、はっきりと違いを感じた。

もう定期的に会って、遊ぶことも、言葉を交わすことも少なくなるのだろうな。
そんな気がした。
別に彼が悪いわけではない。

彼の世界観が見えないというか、世界観を知りたいとは思わなかった。
魅力がないのだ。
それはお互いの違いからくるものだろう。

大勢の人は安定を求める。
だが、安定とは何なのだろうか?(一般的な解釈は求めていない)

自分自身は不安定な世界で生きていると認識しているので、ありとあらゆる発想や予測、予想をして、今の言動を変えていく。
安定とは、そういう変えていくことではなく、考えずにただ繰り返していくだけなのかも知れない。
その合間、合間に楽しいと思うことがあり、それらに全てを注ぐのだろう。

そういう世界でも生きてきた。
だが自分に合わなかった。
そういう意味で負けた。
一見、安定している方が楽に感じるが、それはそこが合う人だ。

未来は不安定(不安)であり、希望に満ちていると感じる。
今から未来を創り出せるから、希望に満ちている。
未来に保証はないから、不安定(不安)に感じる。
明日、日が昇らないこともある。
未来に確証はないのだ。

それをどう捉えるか、どう見て、どう行動するか。
一生涯、それを続けていく。
老いて、もう今のように身体も頭も動かない日がやってくるがその時が引き際である。

彼らはそう考えていないのかも知れない。
今の仕事から導き出される未来を見て、色々と考えているのだろう。
雇われるということは、その仕事が出来なくなったら終わりなのだ。

彼は言っていた。
テンション(気分)が高まらないと仕事ができない。
適当に(聞いた話ではほとんどの時間)手を抜いて、仕事をしている。

仕事の合間に、自分の生き方ややりたいことなどについて、常にアタマを動かし、仕事はチカラを抜いているが全力で取り組む。

彼らを否定はしない。
その生活を選んだのは彼らであり、それを納得して生きているのだろうから。

もし少しでも不満があるならば、少しでもいいから創り出すことについて、アタマを使ってみて欲しい。
人との関わりや、人と話す話しを変えてみたり、書物を読んだりして、自分の人生に少しずつ色、花を添えていって欲しい。

誰かの歌であったが、自分がやったことが、人に伝わり回り回って自分に返ってくるというような歌が…(これも解釈の違いがあるかも知れない)。

まず簡単なこととしては、見方を変えてみること。

これ、幸いなこと

今まで自己紹介をしていないし、できる限り特定出来ないようにしてきたが、多少なり公開しておかないと、文章が書きにくいので、公開したいと思う。

しかし、どこまで公開しようかと迷うところである。

どうでもいいかも知れないが、見てくれている人の中には気になる人もいるかも知れないので。

私は関西圏に生息する、アラフォーの男性である。

仕事は一般的にいう会社員(サラリーマン)で業種は販売業になる。
仕事や生活の上で役立てたいと心理学の勉強をしている。

ちょうど、東日本大震災の時期からスピリチュアルブームが訪れ、ずっとハマって、陰謀論などにもハマりつつあったが脱出した。

元々、哲学や心理学に興味があったため、生きることについて考えたり、自分自身の体験から見えること、感じることが多い。
それをブログに書き留めている。

男性、女性は性別が違うように、感じることも思うことも違いがある。
ブログではできる限り普遍的な話しを心がけている。

仕事だけでなく人と関わることが多いため、いっぱい悩んできた。
今でも悩むことはあるが、それは自分にとっていい機会だと認識している。

最近では、こうしようと心がけることを仕事で実践することが多く、その反応から自分がどういう言動だったのか、相手にどう与えたのかなども見るようになった。

使えるモノゴトは全て使い、成長の糧にしている。
使うという表現が良くないだけで、生きるということは、常に本番であり、常に実践できる場である。
よく『トライ&エラー』というが、やらなければ(トライしなければ)、失敗など(エラー)はない。

だが、生きるということにおいて、間違いや失敗はない。
望んだ結果にならなかったという事実があるだけで、その事実から別の方法などを試せる。

もちろん、やってはいけない失敗もあるが、死を自ら選ばない限りは、何度も挑戦できる。
もし失敗、間違いというのがあるのであれば、死を自ら選ぶということだろう。

また、死を自ら選びたくなった場合は、死んだと思いやってみることも大切だ。

生きている上での問題や何かしらのほとんどが自分で何とでもできることばかりで、その自分で何とでもできることを他のせいにしていることが多い。
他責にして何かが変わるのであればいいのだが、他責にしたところで、同じことは繰り返される。
その他責にしたいことなどから、逃げたり、それを投げたり、諦めたりすると、気がつくように姿、形を変え、わかりやすくするために厳しくなっていく。
その機会をサンダーボルト(落雷)と呼んでいる。

人生を振り返ることは少ないが、今思い出せば若かれし頃に色んな年長者が、こう言ったことを言っていたことを思い出す。

 

私のブログを読んで何かを感じて、試してみて変化があれば幸いだと思う。