在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

新年のご挨拶

ここを見ている人がどれだけ居て、どれ位興味があったり、何かしら思いを持っているのか知らないけど、新年のご挨拶と題打って投稿。

 

 

 

さて、新年に何を思うのか?と言えば、区切りのないことに区切りを見出して、何があるのかなどと捻くれた考えを持っている。

 

特別なことといえば、普段会わない人と会うことや、挨拶が変わるぐらいなのかと。

しかし、そう言ったことができるのも、年末年始と区切りを付けているからだろう。

 

区切りという認識をしているのは人だけ。

 

認識と存在は違うなと感じた。

存在は事実とニアイコール(近しい)だろう。

認識は事実ではなく、それに対する主観があるのだろう。

 

などと考えていた。

 

常々、こうであるという存在を未来に見出した時、現実との差異を見る。

その差異を埋めるには、見出した自分になっていくだけ。

そうなっている自分をしかと見た上で、現実を見る。

 

夢や未来などまだ存在していない状態になるなは、そう在るように振る舞えばいい。

 

となると、未来の自分になるために現実的に考え、想像した自分であればよい。

 

単純明快すぎて難易度が高い。

何故なら、なったことのない自分を、未だなっていない自分がやるのだから。

 

だから時間がかかってしまう。

お金がいくらあろうとも、時間が全くないようではなれないのだ。

 

それとは関係ないかもしれないことなのだが、今自分が思うことや感じることを自分が気持ちのいいと思う現実にしていくことだけにチカラを注ぐことなのだと思った。

 

1秒という区切りを使うと、1秒も無駄にはできないのだ。

石の上にも三年、、、

座り続ければ暖まるのだろうが、熱くなることはない。

 

暖まるような人生を、暖かい人生を送りたければ、座り続ければいい。

では、熱くなるような人生を、熱い人生を送りたければ?

どうすればよいのだろうか?

 

そんな風に人生を捉えて生きている人は少ないのではないだろうか?

 

暖かい方が好きなのか、熱い方が好きなのかの違いだけで、どちらがいいという話ではない。

 

ただ、熱い方が好きなら共感できるのではないかと思う私の意見。

 

例えば『こうだったらいいのにな』と思うことと『こうだったらいいから、そうしてみる』はちがう。

『こうだったらいいのにな』は頭の中で想像している状態。

『こうだったらいいから、そうしてみる』はそれを現実に起こそうと動いた状態。

 

こういう違いがわかり、認識していくと、ただそこにある存在を変えることができる。

 

変わるか、変わらないかの結果は、変わっている状態になるまでやるからこそあるのだ。

 

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

居場所を失う

『居場所を失う』と題して、何を書き留めようかと。

 

居場所を失う瞬間であったり、居場所を失う可能性があったり、失ってしまった後であるかも知れない。

 

居場所って何なのか?

 

それは自分の存在が許されていて、その場で存在していると感じられるときであろう。

 

他の中に自分の存在を見出した時に、外国人は『joyful』と言うらしい。

『joyful』は日本語の中にない。

全体の中で自分という存在を確認した時に感じる感覚である。

 

とことん突き詰めて行くと、全体の一部であり、個という孤独でしかない自分。

それでも他者は自分の存在を認識したり、しなかったりして、他者の中に存在したりする。

 

それを居場所と思うのだろう。

その居場所を失うことがある。

 

否、居場所と思っていた場所が違っている場合もある。

そうやって自分の存在を認めてくれる場所を人は探しているのではないだろうか。

桃拾ってきたー

『むかし、むかし、あるところにお爺さんとお婆さんが…』

こう始まる昔話の代表と言えよう【桃太郎】

 

桃太郎の話しは何を伝えたかったのか?

何てことはあまり深く考えられずに、桃太郎が鬼退治に行くことになり、その道中で三匹(三種類)の動物と一緒に退治したという勧善懲悪物語と受け取めている。

 

先日、友人と話していて、そういうことを伝えているという発想が面白かった。

 

【桃太郎】の中で、一番の偉業、功績を上げているのは、桃太郎ではなく『お婆さん』である。

それはなぜか、、、

 

まず、川で流れてきた桃を拾うという行動。

どんな大きさかなどは明示されていないものの、『桃の中から生まれて』くるので、それなりの大きさがあるのではないかと推測できる。

 

そんな大きな桃を、洗濯物を放り出して取りに行くこと、またそんな大きな桃は異様な存在であろうにもかかわらず、怖がらずに持って帰るという選択をした。

そして、桃から出てきた子どもを育てようと考え、育てたこと。

 

さらっと序文に書かれていることが、どれだけ凄いことなのか?

 

友人は『お婆さんのテンションが高い』と言った。

 

【桃太郎】という物語の中では、桃太郎が主人公になるが、その桃太郎が主人公には『桃を拾う』という行動が今の私たちに出来るだろうか?

 

この【桃太郎】の話し以前に、『情報を集めること』、『その情報の中から自分にあった情報のみを取得すること』などの話しをしていた。

 

【自分にあった情報を取得すること】は、まず自分のところへ情報を集めることが大切になり、その集まった情報から合った(必要、重要)情報を取得することになる。

 

たくさんの情報が川のように流れてきて、その中で自分に合った(必要、重要)情報=桃を拾うことになる。

だが、桃以外の様々なものが流れている中で桃だけを拾うのは容易ではない。

 

お婆さんは、容易ではないことを容易にやってのけたのだろうか?

 

そうは思わなかった。

情報を選別することなく、桃という情報のみを拾える状態、状況であれば良い。

では、どうするのか?

 

桃だけが流れてくるようにすればいい。

むしろ、拾った情報が桃であればいい。

 

桃はお婆さんに取って未知なるものに違いなかっただろう。

異様なまでに大きな桃だけに気がつけばいい。

 

情報を収集することも、選別することも、エネルギー(時間であったり、場所であったり)を使う。

そんなエネルギーを使える程、エネルギーは余っているのだろうか?

 

効率は非効率である。

具体的に言うと情報は基本的に収集しない。

情報を収集しないと取得できないのではないのではない。

必要な情報のみを取得するようにする。

 

自分が行動しておけば、色んな人たちが自分に対して、色んなことを伝えてくれる。

その中で、ワクワクすることに挑めばいい。

 

世間的な情報(話し)はどうでもいい。

もし知らなくても、合わせればいいし、教えてもらえばいい。

知らないことに恥じる必要はない。

自分がワクワクすることに対して、自ら情報を集めに行くことをしておけば、必要な情報だけが引っかかるようになっていく。

 

一度も、そう言ったことをしたことがなければ、直ぐにそうなるとは言わないが、それをやり続けていけば、できるようになる。

 

また自分がワクワクすることや、過去に学ばず新しい情報を手に入れるのは、人と会うこと。

この【人と会うこと】も、自分がいいと思う人だけでなく、様々な人と関わってみれば、今まで自分が選んできた道とは違う道に進む可能性が高くなる。

 

人が持ってくる情報は、自分に合った情報であることが多い。

 

川に洗濯物をしに行くというルーチンワーク(繰り返し作業)から、桃という新しいものに触れたお婆さんは、【桃太郎】という物語の中で、桃太郎を作り出すことになった。

 

仕事と気の知れた友人たちだけの日々から、新しい人たちと触れることで【あなた】という物語の中で、桃太郎を作り出す可能性が生まれるのだ。

良き場での良き出会い

◾︎男と女

異種社交酒場(私が行っているのはinternational bar)において、人の行動を観察するのが非常に面白い。

 

何故、人はこのような社交の場、交流の場に集まるのか…

その答えは人それぞれであろう。

 

そう言ったお店がたくさんあれば、地域的に少ない(ない場合も)がある。

それぞれお店によって客層や求めるものが違ってBARという場は、他者との交流目的が多いだろう。

 

男の交流目的の一つに女性との交流を目的としている人がいる。

その目的がほとんどだと言っても過言ではない。

女性も多いだろうが、男性とは違う交流目的であろう。

 

男性から女性に掛け合うことが多いように見受けられるが、女性も相手の良し悪しに対する態度や男性が女性を誘うように仕向ける態度をしている。

それがわかるときがある。

 

それは同性でも同じようなことなのだろう。

 

その空間にいる人々たちとは全て出会いなのだが、合う・合わないなどもあるが、そう言った出会いの中で繋がっていく人たちがご縁ということなのだろう。

 

そういう時、初めて出会う相手なので何も知らないから、何かの共通点であったり、ノリであったり、様々なことから相手と合うかどうかなどを探していることが多いのではないだろうか。

 

相手のことを認識するために、必要な符号(レッテル)の一つに名前がある。

住んでいるところ、年齢、職業など。

相手を特定させると共に、共通点を探しているのだろう。

それも人によって色んな符号を使っている。

 

符号以前の雰囲気(オーラ)や人柄などがある。

それによって、人はまず判断するのだろう。

よく言う第一印象とは、身なりもさることながら、伝わる雰囲気が優先されるのは、昼間のような明るい場所ではないからだろう。

 

そういう第一印象の雰囲気は作っていける。

もちろん、付け焼き刃であれば直ぐに剥がれてしまうものの、こういう場ではお酒のチカラというものも使える道具の一つである。

 

目的がどこなのか、何を目的としているのか?

で変わってくる。

特に目的を持たずに、接することが多い私からすると周りの人たちの動きなどが面白いように目につく。

 

『いつも異性に声を掛けているな』とか、『ようやくこの同性と繋がったのか』など、よく顔を見る人に対してわかるし、初めて見る顔でも『異性を物色しているな』などと見えてくる。

 

人は人と知り合うことで広がる何かがあるのだろう。

その先がどうなるのかはわからないが、結果が良かったとなるのであれば、【良き出会い】なのであろう。

 

何組かのカップルがこの場で誕生していることがそれを物語っているように感じる。

健全といえば、何が?となるが、いつも、そういった【良縁】に恵まれる場であることを願っている。

余裕は自分で作る。

下世話な話〜その3〜

 

下世話な話シリーズを作ろうかと思ったが、『下世話な話』という題名もしっくり来ないので、シリーズ化するのであれば『時事から見えること』とかしようと思ったが、
あまり自分自身にとって重要や必要でないことに対して時間やアタマ使うのは無駄なので保留。

 

少し前、タクシーの中で暴れていた人の動画がネットで流れニュースになった。

 

全面的に暴れていた人が悪いとなっているが、本当のところはどうなのだろうか?
乗客が暴れたことは問題ではあるが、それは然るべきところが処罰を与えるだろう。

 

疑問に思ったのは、最初に『運転手が行き先を聞き違えていたこと』と『何故、訳のわからない道を通ったこと』が、引き金になっているのではないかということ。

 

結果、タクシー内で暴れ器物破損、無賃乗車と降りてからも腹の虫が収まらなかったのかケータイを投げつけるなどをした。
タクシー会社は報復とも受け取れる動画の公開をし、問題が浮き彫りになった。

 

『もしも』や『たられば』の話は好きではないが、タクシー運転手(会社)にも落ち度はあるが乗客に対して、行き先を確認したのだろうか?
走り出す前に、この道で行くことを伝えたのだろうか?

 

お客様が酔っていようがいまいが、そう言った杜撰なことをしたことに対する謝罪はないのだろうか?

 

ここで少し考えてもらいたい。

昔のように高度成長期ではなく、またバブルが弾けた後でもない。
作れば売れる時代は過ぎ、物質過多の時代に我々は何に対価を払うのだろうか?

 

インターネットの普及により、情報も大きな変化を遂げた。
またIT化で人件費が削減されていく。
経済の詳しい話しは、またにするとして、顧客が求めるのはサービスと言われる目に見えにくい部分に対して。

 

IT化で受けられるサービスもあるだろうが、人と人の間にあるサービスとは一体なんだろうか?


コミュニケーションではないだろうか。

 

乗り物の中でタクシーは大勢の人を乗せるわけではないことから、顧客との距離が近くなる。
大勢を乗せる乗り物に比べると金額は高いが、時間も行き先も自由である。

 

そこで運転手は乗せてやっている気持ちではいけないだろう。
今まではそれで良かったのかも知れないが、対する人が少人数であれば、距離が近くなるので十分なサービスを提供することが望まれる。

 

それはタクシーの運転手だけではない、大勢の人を乗せる乗り物に対しても、それ以外の仕事に対しても、言えることである。

サービスの中にコミュニケーションが含まれている。

 

【相手の立ち場に立って】物事を考えれば、少しは違っていただろう。
全員にそれが当てはまる訳ではないが、少なくともしないよりはいいだろう。

人はだいたい『気持ちのいい』と感じることに対して、対価を払うだろう。
気持ちよくなりたい人たちが沢山いる。

 

それを無闇やたらと無料でやるから、それすらも対価なくしてもらえると感じるのだ。
諸外国のチップ制は、そういうサービスに対して払うものでちゃんと相場は決まっている。

 

こういった事件の裏側にあるのは、適正な価格や労働時間、それに教育であったり、そもそも余裕がないことが要因であろう。
タクシーの運転手に余裕があれば、乗客に余裕があれば、このようなしょうもないことは発生しないであろう。

 

また今後は増えていくだろう。
格差社会が生み出したことなのかも知れない。
だが、社会や世界のせいにしても何も変わらない。
金銭や時間、心に余裕がなくなる状態であっても、自分自身の態度や考え方などまでも余裕をなくすことはない。

そのために色々と知ることが重要になってくる。


その話はまたいずれ書きたいと思う。

 

書き始めた時期から投稿した時期まで期間が空いていたため、上手くまとめられず、やつっけになってしまった。

本人の問題だけではない

下世話な話 〜その2〜

多くの人が他人に対して、見(興味を持ち)過ぎているように感じるが、そういう(他人から見られる)立場の人も居る。
特にメディアに出ている人たちがそうだろう。

 

『他人の何に興味を持っているのか』ということもあるが、またの機会にする。

 

メディアに出ている時点で人から見られている人となる。
芸能人などは話題になることが重要なので、自ら注目されるようなことをやっていることもあるだろうが、【公人】と呼ばれる立場は、注目されていることを芸能人以上に認識する必要があるのではないだろうか。

 

以前であれば公費の私的流用などがあったが、最近は『不倫』や『セクハラ』、『パワハラ』などのその人の人格を疑いたくなるようなことが目立っている。
どれも人格を疑いたくなるという内容ではあるが、公務上の話ではないだろう。

 

単純にいうと【公人】は選挙に立候補した人を我々が選び、その候補者が当選すれば職務に就く。
『選挙で選ぶ人が居ない』という声もあるが、それはまた別の話。

 

【公人】として自覚しているのであれば、法に触れることや人としてどうかと思うようなことも含めて誠実であろう。
それが【公人】になるということではないだろうか?
【公人】は、我々の血汗である税金をもらって公務に当たっていることを胸に刻んでおいてほしい。

 

それ以外に、選挙に出るために約束していることがあるが、そういったことを全うすること(結果的にできないこともある)や選んでもらった人だけでなく、落選した立候補者やその人を選んだ人たちの分も、働いているという意識が必要であろう。

 

【公人】でない一般人は会社に勤めている。
会社は人々に何かを提供し、対価を得ている。
信用や信頼だけでなく、顧客満足などが提供する側へ向けられている。
顧客は厳しく容赦ない。
提供されるものに対して、満足いかないのであれば顧客にはならない。
(某鉄鋼業者などの不始末はとんでもないことである。)

 

それを【公人】に置き換えるとよく分かる。
一般人で『不倫』や『セクハラ』、『パワハラ』などをしていると会社から社会的制裁を受ける。
また会社がその人のせいで損失を被ることもあるので、かなり厳しい報いが待っている場合もある。

 

【公人】の場とはそういった環境以上のことである。

 

そのようなことをした人は、即公務から外れ二度と【公人】になってはいけないという決まりがあってもよいぐらいではないか。


公務員が緩いと言われるのは、そういったことを隠そうとしたり、仕事を適当にしてももらえる対価が変わらないからではないだろうか。

 

また公務員が偉いなど思わせる(思う)環境も意味がわからない。
役場や役所、地域に関わることをしているところは、住民に対するサービスを提供しているところになる。
民間で言わば住民がお客様だという認識を持つことではないだろうか。

 

もっと責任を持って、職務に当たるべきである。
人としてどうかと疑いたくなるようなことをしている時点で、職務を全うしていないと見なしていい。

 

様々な責任を負うことの認識が欠けている【公人】本人の問題と、それらを許している環境、その環境を作り出している我々にも問題がある。

 

国や地域(都道府県市町)は、そこに住む民が居るからである。
そして、そこに住む民がしっかりすることが重要なのではないか。

本質はどこにある

下世話な話

 

基本的にテレビ、新聞などメディアから情報を手に入れないようにしている。
それはほとんど無駄な情報でしかないから。

 

最近メディアの情報に触れる機会が多くなった。
改めて『知らなくていいな』と思うことばかりなのだが。

 

猟奇的な事件や人としてどうなのかと思うような言動が、取り上げられている。

 

猟奇的な事件に関して、何故【断つ】という選択を若者がしようとするのか。に興味がある。
まだ始まって間もない人生を【自分の意志で終わらせよう】と思う環境があることに注目しているメディアはない。

 

加害者がどんな人物で、何故このような猟奇的な事件を起こすようになったのかや、被害者たちはどんな人物で何故巻き込まれたのかなどの詳細に目を向け過ぎである。

 

もちろん、そのような目の前にあることの方が面白いのだろうが、【何故若者たちがその選択をしようとするのか】の環境を見ないと、SNSで禁止ワードを作ったとしても減りはしないだろう。禁止ワードは、あくまで場当たり的な対処でしかない。

 

根源は生きる楽しさなどを感じる場を提供できていないことではないだろうか。

 

『一緒に…』この記号(キーワード)に含まれるのは、【その選択をしたくない】けど、そうでも言わないと『わかってもらえない、人に受け入れてもらえない、存在として認識されない…』などを心底思っていて、その裏返しでしかない。

 

その気持ちを利用したのが今回の事件である。

 

SNSの禁止ワード、投稿の削除などで何が解決するのだろうか?

 

人は常に孤独を感じている。
感じていない人もいるが、それは孤独ではないという状況を作り出しているから。

 

だが実際は孤独でしかない。

 

孤独ということがよいのか、悪いのかではない。
孤独が悲しい、寂しいという話ではない。
現実的に人は一人(孤独)であるからこそ、群れをなし社会を形成し、その中で生きている。

 

だがその社会の中で孤独感が強くなればなるほど、存在していることを認識できずに、自ら…【選択】したくもなるのだろう。

 

だからその最期ぐらい誰かと分かち合いたいという思いが生じるのだろう。

 

本当に【その選択】を選ぶしかない者は人に言わず、知れずに密やかに閉じる。
まるで、猫が自分の最期を知って姿を隠すように。

 

メディアはそういうことに意識を向けさせず、非現実的なことを面白おかしく演出する。
そういう行動が模倣犯を生み出したり、それ以上の猟奇的な事件を起こしかねない場を作っていることを認識しているのだろうか?

 

今回の事件で、世間が、社会が、国が、取り組まなければならないのは、こうして若者が【選択してはいけない選択】をしている、しようとしている環境を変えることである。

 

これ以上、犠牲を出してはならない。

 

少子化の問題があるが、それに拍車を掛けてしまうと、雪だるま式に【してはいけない選択】をする者が増えていく。