在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

見えていなかった景色を見る

センス、いわゆる【感覚】や【感性】がいいかとか『意識高い』などの言葉があるが、いったいどういう人を指すのだろうか?

 

センスにしろ、意識にしろ、人よりも抜きん出ている、秀逸であるということ。

だが、言い換えれば人と違っている。

そして、この『人』といわれるのは一般(大勢大多数)人のことである。

 

人は、人と同じ(ような)であれば安心する。

特に日本人はその気が強い。

それは日本人のDNAであったり、今までの文化であったり、島国、農耕民族などで人との調和を重んじてきたからだろう。

 

さて、そのような人と同じようなことであれば、人生もさして変わらないのだろう。

 

私は昔から人と同じというのが、どちらかというと好きではなかった。

むしろ、少し目立つぐらいがちょうど良かった。

だが、少し目立つぐらいでは一般と変わらない世界なのだ。

例えば、地上から1mの高さから見る景色と1m1cmの見える景色は差ほど変わらない。

だが、1m50cmや2m、3mとなってくると全く違う景色が見えている。

 

そして、その2mや3mの景色を見ている人たちが少なからず居る。

その景色を見るためには、まずセンスや意識がどうなのかということになる。

 

センスがいい。意識が高い。

そうなるにはどうすればいいのだろうか?

 

答えは簡単、【素直】になること。

人に言われたこと、自分が思っていることなどに【素直】であるのか。

【素直】というのと【馬鹿正直】とは違うのだが、それは割愛する。

 

人に言われたことに対して、一旦【素直】に受け取ってみるといい。

そして、それを言った人は『何故、そう言ったのか?』を考えてみるのといい。

あながち間違ったことは言っていないことに気が付かないだろうか?

この『あながち間違ったことを言っていない』と気がつかない時点でセンスはない。

 

『あながち間違ったことを言っていない』のではないだろうかと自分の中に探すことをした人はセンスがあると思う。

もちろん、違うこともあるが受け取ってみて、初めて『違う』ということもわかるのである。

人は何かしらを感じて、言っている。

これの応用が『鏡の法則』と言われる。

 

そうやって自分が見えている部分ではなく、見えていない部分に対して意識をしていくから、センスや意識は磨かれていく。

 

また、人が言うことを信用すると騙されるなどの理由から【素直】に受け取らない人は、センスがないとなる。

まず、人が騙してくるなどと思っている人は、自分が人を騙していることが多いと認識するべきである。

自分が人を騙すことがないのであれば、人は自分を騙してこないだろう。

また人は信用できないという人もいる。

別に信用しなくていい。

こういう時の信用とは、相手に責任があるという所謂『相手のせい』にしている状態が多い。

全て自分の責任とすれば、何でも思うようになっていく。

この話しはいつかしよう。

 

センスはある、なしだけでなく、センスが良いのか、悪いのかもある。

意識を高く持っているのか、低く持っているのか。

大多数の人はそういう(自分や大多数の)人と違う人を妬む傾向が強い。

何故なら、自分と違うとわけがわからなくて、理解できないため怖くなるからだろう。

 

だが正直な話し、みんなと同じでいいのだろうか?

周りと同じような環境で、不満や不安はないのだろうか?

自分を信じることが出来ないのに、大勢多数のやっていることを信じるのか?

あなたはあなたとして生きているのか?

そういうことにどれだけ敏感になれるのか?

敏感になっていくと社会からつまはじきにされたり、社会に属することが息苦しくなることが多々ある。

社会からかけ離れて行くと、天才や変人、奇人と言われるようになる。

この天才と変人、奇人は紙一重であり、この紙一重の違いは、他者に何を与えられるのか、他者を幸せにできるのかということに尽きる。

 

 

自分にセンスがないとか、意識高くないなどの『ない』を言う。

他者を見て(比べて)どうこう言う。

それらの何に生産性があるのだろうか?

『ない』が生み出すことは不幸なことしかない。

何故なら、幸せではないからだ。

 

根本が違っている。

根本が違うので、その根から生えてきた木の姿も違うのだ。

 

ばっさり切ってしまう勇気を持つといい。

今に不満なら、ばっさり切って新しい芽を出したほうが早い。

『それは、、、』と躊躇しているのは何故か?

変化を嫌う生き物だから。

だが、変化することを望めば、見える景色が違い、変化した後の世界に行くことが可能である。

その可能性を見出せるかもセンスなのかも知れない。

 

言うのは簡単だが、めちゃくちゃ深い言葉(ばかりなのだが)がある。

『人生は一度きり』

その一度きりの人生をどう生きるのかは、自分次第だ。

 

気が付くことに気が付いて、見えていなかったことを見る力を今からでも養えるのだ。

見えていない世界には行くことができないが、見えている世界なら行くことができる。

 

是非、センスや意識を磨いていこう。

とりとめもなく

色んなことが目まぐるしく起こっている日々を過ごしている。

 

果たして自分はどこに行くのだろうか?

と、ふと思ったものの、行く先を決めているからそこに向かっている。

だが、道中のこと全てを予想していて、予定しているわけではないので、『マジか』となる。

 

自分のことより、人のことを考えるようになった今日この頃。

人って面白いのだ。

常に人を喜ばせることをしていく。

だが、媚びることなく、毅然として。

 

私と関わるとみんなHAPPY(あえて幸せという表現ではない)になってしまえばいい。

そうHAPPYに『なる』のではなく、『なってしまう』。

 

なりたいからなるのではない。なりたくなくてもなってしまう。

それは自然なこと。

 

それが『伝わる雰囲気』ということなのかも知れない。

先日、会った友だちがこの『伝わること(雰囲気)』について話していた。

意識していないことが相手に伝わってしまう。

醸し出していることなのだろう。

伝わって欲しいことを意識せずというのは、常に意識し続けること。

意識し続けたことは、無意識におちていく。

 

無意識におちると、意識せずともそうなっていくので、そうなるまで意識する。

 

意識の話しは非常に面白くて、この話しを進めていくとメンタルマネージメントになる。

メンタルマネージメントは資格がいるそうなので、割愛する。

 

人って不思議な存在だと改めて感じた。

おそらく、何でもできるんだろう。

物理的に無理なこともあるだろうが、それすらも出来てしまうようになるのではないかと思い馳せる。

 

それは人の機械化が成しえるのだろう。

既にマイクロチップを体内に埋めている人がいるそうだ。

それはその人を管理するために埋めているそうだが、そうではなく『攻殻機動隊』のような形になっていくのだろう。

 

iPS細胞やAIなど、今までSFの世界でしかなかったことが現実になっていく。

VRやARもそうだ。

VRは行く末、コンタクトレンズサイズになるだろう。

もう見るものが現実なのか、仮想現実なのか判断がつかない時代がやってくる。

 

そして、生きているのか生きていないのかすらもわからなくなってくる。

まさに『マトリックス』の世界がやってくる。

 

それに恐怖を覚える必要はない。

もし、機械化できるのであれば、率先して機械化を希望する。

何故なら、改造のない人として生きて行くには厳しい世界が待っている。

 

原因のわからない病気が今も蔓延している。

特に血管系疾患、癌、アトピー、糖尿病など一昔言っていた生活習慣病

その名の通り生活習慣が招いているからそういう総称が名づけられたのだが、それはもう生活習慣だけでなく、環境が招くようになっている。

 

私たちには、選択ということができる。

何を選択するのかは、目的地を決めると、自ずと見えてくることだ。

生き方の違い

ちょうど、久しぶりにブログを書こうとしていた時に、はてなブログ運営さんからブログの振り返りをしてみないかと連絡(メールのお知らせ)があった。

 

1年前、2年前の記事を振り返ってみたら『取り留めのないこと』と『決めること』とあった。

今回、書こうとしていた内容につながっており、そのことから気付いたことは自分自身にとって2月は節目(流れが変わる時期)なのだろうということ。


過去を振り返るのは参照するためではなく、傾向を見出し、これからの傾向を変えるためにした。

 

さて、前置きが長くなってしまったが、本題に移るとする。

 

この世界が仮想現実世界だとしたら(このことが事実という証明が出来ないため、仮説的になる)、世界を自分自身が創っているのか、誰か(何か)に創られた世界を生きているのかで大きな違いが生まれる。
この大きな違いは知る由もなく、あたかも同じ世界で生きているように感じる。
それは違う世界があることに気付けない(気付かせない)仕組みがあるからだ。
という話しをすれば、陰謀論や作り話などの話しとして処理をする人は、ここから先は読まなくていい。むしろ読まないでほしい。

 

 

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創られた世界ではなく、自分が創っている世界で生きていくには、それなりの手段や手法などが必要で、その選択が非常に重要なこと。

 

乗り物で例えると、創られた世界と創っている世界では【行き先】と【乗っている車種】が違うのだ。
乗り換えるためには、【行き先を決めること】と、【別の車種に移るための券】が必要。

 

【行き先を決める】ということは、自分がどんな人生を送りたいのか?
その送る人生を今の視点や今までの発想で考えるのではなく、全くもって自由な発想で想像すること。

 

想像したら、あとは【券】を手に入れるだけ。
巷でいう“引き寄せの法則”というものだろうか。

 

だが、引き寄せることができる場合と、出来ない場合があるのだ。
そこの違いが生き方の違いに直結している。

 

話しは逸れるが過去記事の『決めること』には『自己責任』ということに対して、実体験を基に強く訴えられていた。
つい、忘れがちになってしまう『自己責任』という言葉。
ブログで『自分で決めること』をしてきていないのではないかと訴えている。
この『自分で決める』ことは、超重要だ。

 

話しを元に戻すと【行き先を決める】ことが『自分で決める』ということなのだ。

 

先述した【全くもって自由な発想】で【行き先を決める】と【乗り換え券】は自ずと手に入る仕組みになっている。
ただ【乗り換え券】は、いつ、どのような形で手に入るのか明示されていないので、『既に』手にしている場合もあれば、『まだ』手にしていない場合もあり、手にしたいと思わない形で『渡される』こともある。


また『偽物(間違った)』の【乗り換え券】もあるので、気を付けておいた方がいいと言っても、手にしてみないと間違っているのかはわからない。

 

今回は人生を乗り物と道に喩えてみたが、何に喩えようと同じことなのだ。

 

 

【決める】、【受け取る(もしくは手に入れる)】という二つのことだけ。

至極、単純明快なこと。


そして、あとは【進む(やる)】だけ。

そのどれもに通ずるのは、自分自身の【想像力】であり、【選択】や【判断】、何より大切なことは【信じる】ことである。

 

ここまで読んで『嘘だろ』って思っている人は、どうぞ嘘と思ってやればいい。
その『嘘』と思っているように、『嘘』になるのだ。

 

最後に好きな言葉を載せておく
『百聞百見は一験に如かず』

私は今の時点で半分、自由になっている。

さて、あなたが自由になれるように、選択するのも自由。

突き付けられるシンカ

水は高いところから低いところへ流れる。

低いところへ流れ、溜まり、澱んでくる。
水以外の大抵のことも同じことが言えよう。

 

流行は『流れ行く』ことで、【流れて来る】ことではない。
(このように当たり前のことを再認識し、概念し直すことは大切なこと)。


『流れて行く』ことのどの段階で自分が出会っているのかが重要になる。

 

情報も同じで、一般(大衆)に情報が出回ったところで出会った場合、もう既に溜まっている状態、もしくは澱んでいる状態。

 

『一般(大衆)に出回っている=メディアが取り上げている』ということで判断できる。

 

たまたま【人手不足を見越した、もしくは現在の人手不足解消の『ロボット化』】という情報をメディアにて見て思った。

 

本当に人手不足なのかが気になるところではあるものの、今回は『ロボット化』が気になった。

 

この『ロボット化』や『AI導入』により、大きな変化が訪れることになる。
映画であるような世界が、もう目の前に来ているのだ。

映画のほとんどは、既にロボットが存在していて、生活の中に溶け込んでいるので、溶け込んでいくことによる出来事は描かれていない。
また、ロボット化後による弊害に対する警告を取り上げているが、それ以前はない。

 

何が起きるのか…
その一つは経済の流れが大きく変わるということ。
その経済の流れが変わることによっての影響。

 

細かいところまでは予想できないが、現在、人が働いていることをロボットが取って替わることになるので、その人たちの労働がなくなる。

 

労働がなくなって良いかと言わば、現在のような経済(資本主義)ではその労働していた人たちは生活ができなくなる。


どうやって収入を得るのか?


ロボットやAIに取って替わられないような職業に就くことや雇用ではない形での収入を得る方法か、経済の仕組みが変わるのを期待するか。

どちらにしろ、難しい問題である。

 

そうならない可能性もあるが、そうなる可能性もある。
予感として、間違いなくそうなる。

 

そうなる前に動いておくこと。
今でも遅いのかも知れないが、気がついた時から何とかできるようにしていくこと。
人、人間として進化していくこと。
その真価が問われている時期に我々は生きていて、まだ人生を味わいきっていない。

 

今、働いている環境の中で感じていることは、おそらくこの人たちはどうしようもないのだろうなと感じる。
変化を付けられるのは、その本人でしかないから。
挨拶もろくにできず、今のやり方は以前と変わらないやり方で、ストレスばかり溜まり、回復する間もない。

 

よく、そんな劣悪な環境で生きていけるなと感じる。

 

他人のことはどうでもいいのだが、そう言う環境から脱出する道、方法、手段などを知らないのだろう。

恐ろしいことだ。

 

生物は淘汰され、今生きている種がある。
それは環境に適応できなかった種が、滅んでいった。
人の場合はどうなるのだろうか?
人類という大きな括りではなく、生活環境などで括られる形で淘汰があるような気がする。

 

よく陰謀論でAIのことや滅亡の話などをするが、どの立場でその情報が流されているのか?
その情報を危機と思わない立場もある。
ロボット、AIという次世代の技術により、今までのような生活ができない層がある。

 

さて、あなたは何をする?

呟いたまとめ1

最近ブログでは『人生=生きる』ということについて、色々と考察してみたり、実践してみたりして感じていることを書いてきた。

 

ブログに書くときは時間だけでなく、自分自身がアタマの中を整理したい時にも使っているので、文章として書いていることが多いが、そこまでしない感情やふと思うことはtwitterにつぶやいている。

 

今日は、そのまとめを書いておく。

■題するならば「好き、恋、恋愛」について
twitterから)

ーもし、あの時あなたが、あの曲にのって踊らなければ、おそらく意識しなかっただろう
これは勘違いなのかも知れないけれど、それが勘違いではなくなることもあるー

 

ー人を好きになって、恋して、恋愛するって楽しいんだろうなと思いつつも、暇な人がすることだと思ってしまう

恋愛ではなく、人として仲良くするだけでよい

それが異性だろうが、同性だろうが

深くお付き合いすることー

 

人を好きになることが少なくなってきたと感じているが、それは年を取ったことからなのだろうか?

意識しなければ、人を好きになることがなくなってしまったような気がする。

それは、恋愛という形を取った時点で人との付き合い方が違ってくるから、その違った形がどのように自分に影響を与えるのかを考えると、恋愛という形のほとんどがいい影響にならない気がして、止めてしまっている。

 

「好きになるのに理由はない」や「心奪われる」ようなことがない。

なので、人を見るようにしてみたら、「え?」と勘違いするようなことから始めてみた。

とはいえ、知らないことが多すぎるので、知るということから始まる。

でも、知ったからどうこうなるような思いでは恋、恋愛ではないのだろうなと思うからこそ、知らないけど知っていくことも含めて受け止めてみるのがいい。

言葉にはできないが、恋愛関係になったとしてもお互いに成長できると自分が感じていることにウソは付かないでおこう。

 

それが小さな愉しみになり、生活に少しばかり明るい色が映えた。

 

■女性について

ー男にお金を払ってもらって、楽しくしていることに対して金ヅルにしていうのは間違いないと思う

その表現こそ違えど、お金がなくとも付き合うのかというと…どうなんだろうか?

それでも付き合えるとすれば、金ヅルではない

ーそれより男に対して、お金が多い男がいいと答えた外国人女性の方が気持ちがいい

言葉は大切ではあるが、自分のしている行動がどのように表現できるのかをわかっていない人が言葉で体裁を保とうとする

心と頭が分離していくのだ

 

上記の通りなのだが、お金を払ってもらっていることに対して、相手に対してどうしているのかを考えれば自分の行動がどういう表現なのかということが言えるだろう。

それを「言い方が悪い」というのは、言い方を良くしている=体裁を保っているだけだろうということだ。

本当に金ヅルにしていないのであれば、「言い方が悪い」とは言わない。

「お金がなくても、遊ぶ」とか「自分もお金を払っている」ということを言うのではないか?

そんな言葉で自分の行動を綺麗に見せたとしても、隠せないということ。

それならば、潔くお金持ちがいいという方が気持ちがいい。

もしお金持ちとお付き合いし、お金を払ってもらったとしても金ヅルとは思わない。

またお金持ちではない人とお付き合いしたとしても、お金だけではなかったのだなと思うだろう。

 

お金は道具であり、その道具をどう使っているのか、どれだけ持っているのかなど、人の価値として計られる対象である。

だから、素直に言ったほうがいいのだ。

経済力=種として強いとなるから。

強い男が好きっていうのは素直な気持ち。

 

■まとめ

二つのテーマ以外にもあるのだが、それはまたの機会に。

この二つのテーマから、感じるのは何も包み隠さず生きていく(生きている)ことは、気持ちの良いことなのだなと。

自分の気持ちにウソを付かない。

自分の行動にウソを塗らない。

どう思われようが、自分の人生を生きているのは自分だけなのだから。

 

精神的に、自分の人生をしっかりと味わい尽くすように生きること。

 

付け加える

過去に縛られるのか、未来を手繰り寄せるのか。

 

過去を参照していては、過去の延長線上の未来しか訪れない。

過去の活動がどうということではなく、今まで認識してきたこと、今まで培ってきた考え方、反応、選択する基準など…

 

未だ来ていないことに対して、過去の延長線上ではしたいことも叶わないだろう。

 

何かしらの更新を加えないと、変わることはない。

新しい何かとは何だろうか?

それは描いた未来と自分を紐付けた時に現れる。

人なのか、出来事なのか、それはわからない。

紐付けた未来によるから。

 

それは今までの自分にないことなので、断りたくなることや避けくなること、そういう人なのかも知れないが、それらに対して過去から参照して決めると、何も変わらないのだ。

 

変化を嫌う生物だが、人だけが後天的適応力を持っており、環境に応じることができるので、迷わず勇気を持って飛び込む(飛び立つ、始めるなど)ことだ。

 

その判断ができるのか、できないのかと言うことも問題になる。

 

ここ最近、聞いてびっくりすることがあったので書き留めておこう。

咳をしていた人が居たので、『風邪ですか?』と尋ねたところ、『ずっと体調がよくないんです』と答え、『偏食が酷くて』とも付け加えてきた。

何が問題なのかというと、偏食が要因の一つとして導き出しているのに、偏食を克服しようとは思わない。

また別の人と話していた時に、『自分は臆病だから虚勢を張っているため、異性が寄り付きにくい』ということを聞いた。

異性に対して声をかけるなど自分からできないのに、寄り付きにくい雰囲気を作り出しておき、恋人ができないと嘆いている。

 

どちらの話しにも共通するのは、今の現状を把握しており、要因となることも明確になっているものの、その要因を克服、改善するつもりは全くないということ。

 

話しにならない。

むしろ、話したくない、関わりたくないと思う。

 

こういう人に助言をしたとしても変えることもしなければ、話しを聞くことすらしない。

 

仮に変化に目覚めたとして、その変化が無意識にできる、身に付くまでにかなりの時間が掛かる。

そういう考えをしてきた年月分は最低でもかかると覚悟しておいたほうがよい。

 

今、自分に置かれている状況は、今までの自分が作り上げてきたことだ。

その自分に今すぐに変化を加え、変化し続けるまで意識し続けること。

変化した後の自分を想像すれば、今までの自分の延長線上にある自分ではなく、変化した後の自分軸に引き寄せられる。

 

その具体的な方法は、意識するということ。

 

意識とはいわば、車でいうハンドルの部分。

右に曲がろうと思えば、ハンドルを右に切る。

右に曲がろうと思うということが意識している状態になる。

車は運転手がいるから走れるが、人はどうだろうか?

運転手は人の中でいうと意識の部分。

もちろん、無意識という部分もある。

無意識は意識より強い力を持っているが、意識することで無意識よりも強い力を発揮できる。

そして、意識し続けた結果、意識しなくてもできるようになるのが無意識ということ。

この意識という機能は、優秀であると同時に弱い部分もある。

影響されやすいということだ。

何に影響されやすいかというと、自分が放った言葉や聞く言葉、それと視界に入ってくる情報。

なので、しっかりと意識してやっていくことが重要になる。

 

意識するということはかなりのエネルギーを使うことになる。

効率よくエネルギーを供給してやることも大切になってくる。

効率よくだけでなく、エネルギーの質を高めてやることも大切になる。

 

では、質を高めて、効率よく供給するにはどうしたらいいのか?

 

それは健康であることが大前提になってくる。

意識するということは、脳を使うということ。

脳を使うということは、脳に必要な栄養(エネルギー)を送ってやること。

栄養はどこから得られるのか?

その栄養を運ぶにはどのような手段があるのか?

 

そうやって自分自身のことを考えていくと、一つ一つの行動などが変わってくる。

食生活を改善するだけで、思考が変わることがあるのだが、それは体と脳は密接な関係にあるから。

 

昔の人は生まれて間もない子どもやまだ小さな子どもに『甘いもの』を与えず、辛いものや苦いものを与えると聞いたことがある。

それは、小さい時に甘いものを与えてしまうと、その子が大きくなった時に甘い考えになってしまうからと聞いた。

強ち間違いではない。

特に砂糖というものは、合法の麻薬といわれるぐらい危険なものである。

 

そういったことを調べたり、聞いたりして考えればわかってくる。

それも意識の問題である。

 

判断する。

作業基準量(ノルマ)を課せられた仕事(労働)にて、『耐(堪)えて勝つ』と言われて、以前の自分ならば納得しただろう。

 

しかし、耐えて勝つという精神論的な考えや言葉に疑問を抱く。

 

何故、やり方が違うのではないかと思わないのか?

何故、協力する(させる)という姿勢で向かわないのか?

などと他のやり方がないのかを考えてしまうので、どうもこのような精神論的な意見が耳障りに聞こえる。

 

もう少し色んなところに視野を、思考を広げたほうがよい。

自分が崇高だと人を見下しているのではないが、人は意外と無駄なことに時間を費やしているようにも思える。

そういった自分の行動から発生する事象に対して不満や不安を抱いているのは間違いないだろう。

 

例えば、人に教えてもらうことより、自分で調べるといったことをしない。

今、手元にスマートフォンないし、パソコンなどのインターネット環境があることを知っているのだろうか?

インターネットで調べると、多くの人たちが色んなことを教えてくれている。

確かに、個人差というものや、個人の感覚が情報としてあることが多いが、その個人の感覚などをみて自分自身で判断することが大切なのではないだろうか。

 

人は楽を選び、退化していく。

 

情報を集めるしんどさ、その情報を精査する力、その情報を得るための手段など使うエネルギーを使わないようにしている。

誰かに教えてもらう。

誰かが何とかしてくれる。

誰もがあなたの人生を生きることできないのに。

そうやってエネルギーを使わなくなってくると、どんどん退化していく。

筋肉と同じで、使えば使うほど効率よく使えるように変化していく。

筋肉を使わないと脂肪になっていったり、使わないから使いたい時に使い物にならなかったりする。

そしてその結果に対して不満や不安などを言う。

 

『それ、あなたが全てやってきたことの結果ですから』

 

よくあるのが『教えてくれなかった』。

もちろん、そう思うこともあるが、その『教えてくれなかった』ということに対して、教えてもらう必要があるのか、自分で気が付くことなのかでは違うと感じる。

『教えてくれなかった』ということに対して、何らかしらの形で気が付かせようとか、教えようとしている場合が多いと思う。

そして、その前兆に対して『拒否』もしくは『無視』を選んでいる自分が居ることを忘れてはいけない。

 

自分以外の周りの人であったり、何かの出来事は自分に必要なので現れる。

それをどう見て、どう取り、どう扱うのかは自分次第なのである。

 

と書いておいて、人生がゲームだとすればということがアタマを過ぎった。

このゲームは説明書や何の目的があるなど一切情報を知らされず、始めるようなもので、進めていくうちにわかるからということなのかとなる。

 

映画や小説など創作されたものは、相手に状況がわかるように色んな情報が散りばめられている。

そうでないと、何がなんだかわからないまま進むので面白いと感じるのが難しくなる。

 

色んな情報が散りばめられていることを知るには、主人公の目線だけではわからないのである。

主人公が気付いていないことだが、周りで起きていることは主人公以外の人や状況、環境が示していることが多いのではないだろうか。

 

それを自分の人生におき変えるとどうなるのか、主人公の目線というのは自分の主観でしかない。

主観以外の客観は、他者や自分が客観的に見ることしかできない。

もちろん、渦中に居ることを存分に味わうのであれば、主観のみでいいが、その渦中に対して不満や不安を持つことをしないほうがいい。

まるで遊園地のジェットコースターやお化け屋敷のように、何が起こるのかわからないのを楽しめばいい。

もし、楽しめないというのであれば、客観的に見る必要がある。

そのために、他者がいう情報や状況、環境から自分を見るとわかりやすい。

 

それには時間や判断、選択など様々な能力を使うことになる。

だが、精神論的な意見から導き出される答えはほとんど無意味、無力であると感じる。

もちろん精神論が全く意味のないことや力を持たないとは言わないが、今そこに必要なのか、その精神論が重要なのかといわば、おのずと答えが出てくる。

 

今回の『耐えて勝つ』という意見は、今そこにある場において責任転嫁の言葉であると思った。

ただ、自分自身の心の持ちようという意味では必要であり、その言葉のお陰で臨めたことであった。

 

耐えて勝たない方法が、その時点ではなかったのだろう。

ならば、状況に対して不満な気持ちを露にするのではなく、ぐっと堪えてやってくれという思いを伝えたかったのだろう。

 

このような考察を、常々するようにしておけば、能力は上がっていく。

このようなことを自分の力でわかっていくこと。

相手の意図がどうであったのかはわからずとも、自分なりに自分にとっていい形で取って行けば良いだろう。

 

人に聞くな、人に教えを乞うなとは言わないが、自分で色々と考察した上で確認したほうがよいことを聞いたり、教えてもらったりしたほうがよい。

 

精神論的な意見は状況に対して、自分の心の持ちようを言うことが多いが、その心の持ちようによりどうなるのかなどをしっかりと判断する。

 

退化していった先に何が待つのかを知れば、退化することよりも変化し進化していこうとする道を選んだほうがよいことも判断できるのではないだろうか。