在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

心眼

人は何かを見るときに、自分の中にある様々なことを含めて、それらを見ている。

またその相手を見て、判断することがある。

事実は、その時点で事実ではなくなる。

 

事実だけを見る力があるのか。

本物を見極める力があるのか。

 

目の前にあることは、ただあるだけ。

そこに自分のフィルタを通して見てしまうと、本当のところは見えない。

 

フィルタを外すことは、事実のみを受け入れることになる。

認めたくないこともあるだろう。

知らないでいたほうが良いこともあるだろう。

 

だが、知ることは自分の糧になり、時には道となる。

知ることで変わってしまうことに恐れを抱くからこそ、人は真実を知ろうとしない。

 

それがどういう状態なのかと言うと、騙している状態なのだ。

感情を抜きに、変わってしまうかも知れないことを恐れず、事実を見た時に、大きく飛躍して行く。

 

小さな殻に閉じこもるのも構わないが、何のために生きているのだろうか?

知らない世界に目を向けてみるといい。

新しい冒険が始まる。

 

世界は広いと知っているというが、それを肌で感じたことはないだろう。

地球という世界ではなく、地球上にいる人たちが作り出している世界が本当に広く、見上げても見えないところに住んでいる人たちや自分の周りにどのような人が居るのか、本当に友だちなのかなど、知らないことばかりである。

知らないことは恥ではない。

知らないことを知らないといい、教えて欲しいと頼んでみる。

もちろん、自分で調べることも大切ではあるが、知らないということを自覚することが大切である。

 

その背にある翼を使って、世界を羽ばたいて見ればいい。

未だに

自分に対して本気で向き合ったことがあるだろうか?

自分の人生に対して、本気で向き合ったことがあるだろうか?

 

ただ何となく周りが、一般の大多数がそうだからという理由で、そうだと思ったことはないだろうか?

 

疑うことを止めてしまった人は、もう人ではない。

夢や希望を諦めてしまった人は、もう人ではない。

 

信じるのは、自分自身のことを信じるだけ。

周りの声や環境なんて疑ってかかって丁度いいぐらい。

 

無理だと思う前に、それらを叶える手段がないかと必死で探すこと。

もちろん可能なことと不可能なことはあるけれど、不可能が可能になる手段を探しただろうか?

 

自分の人生に対して本気で向き合ったときに、見えることがある。

知ることがある。

 

向き合うと、今の自分自身に対して嫌悪感が生まれ、その嫌悪感を消すために向き合うことを止めてしまう。

それでは今までと何も変わらない。

 

今までやってきたことのないことをやろうとするから、大変であって。

大変だからこそ、大きく変わるのだ。

変わることに恐れを抱かず、やってきたことのないことをやることから逃げない。

 

諦めず、小さくてもいいから一歩、二歩と前に足を出す。

その為に必要なことは、信じることであったり、有り難いと思うことであったり、夢や希望を持ち、それらを叶えるという気持ちである。

 

周りはそれを見ている。

周りは必ず馬鹿にしたり、笑ったりする。

 

【だから何なんだ?】

 

『俺の人生に裏切らず最後の最後までついてきてくれるのは自分』

そんなような歌を歌った人を知っている。

周りがどれだけ言おうが、周りが自分の人生を生きるわけではない。

自分の人生を生きるのは、自分以外誰もいない。

 

馬鹿にされても、笑われても、続けていけば変わってくる。

その変わってきたときに周りはようやく気が付く。

 

『あいつ最近、スゲーらしいぞ』などと抽象的に言う。

人はいつだって、自分を見ている。

人に接することで、自分自身を見ることができるのは、自分自身が人にしてきたことが全て返ってくるから。

 

そういうルールなんだ。

 

魂と言う非物質的な存在があるとすれば、魂は自分を選んで生まれてきている。

もしかしたら、全ての出来事を決めているのかも知れないし、ゴールだけを決めてきているかも知れない。

それらの情報は生まれてきたときに忘れるように設定してある。

いくつかのルールが設けられているゲームなのだ。

 

そのルールさえ、忘れてしまっているのだ。

それらを教えることすら、なくしてしまった。

 

ルールを知らない人たちは、別に作られたルールに基づいて生きていく。

そのルールを作ったのが誰なのか、何故作られているのかも気が付かずに。

 

大多数は間違ったルールで生活している。

正しいルールに則り生きていこうとすると、周りから誹謗中傷を浴びることになる。

それは間違ったルールでの違反だから。

 

正しいルールに則っていくと間違ったルールに従わなくとも問題ないことに気が付く。

気が付くのは自分自身だけなので、周りから誹謗中傷の声を聞くことになる。

だが、正しいルールに則っていれば、そんな周りの声は聞こえなくなる。

 

ただその気付きを継続するのは容易ではない。

容易にするために、環境設定が必要になってくる。

 

意志より環境の方が影響が大きいのだ。

その環境を探すことも大切になってくる。

 

求めよ、さらば与えらん。

 

人に求めるのではなく、自分自身に求めるのだ。

必要なことしかおきていないようになっていく。

 

向き合う価値は大いにある。

全てのことに対して

かれこれ三週間前の日曜日の夜、その異変に気が付いた。

『あ、これヤバいかも…』

その夜は、予定がありいつもより遅かった。

倒れるように寝たものの、マシになるどころか酷くなっていった。

 

私の身体を蝕むそれが何かは病院に行かなかったことで不明のまま。

何となく察しは付いているが、いちいち病院に行ってそれを確認して、薬を処方されても、結局自分の中にある免疫力がそれと闘うだけだと思い、十分な栄養と十分な睡眠を与えてあげることにした。

 

栄養は与えることができたものの、睡眠を十分に与えてやることをしなかったためか、闘いは今なお続いている。

 

身体が不調だと、本当にパフォーマンス(能力)が落ちることを実感する。

どのような条件かわからぬが、頭痛を催すときがくる。

 

流石に、どうしてもという場合に鎮痛剤を飲むが、結局ごまかしているに過ぎない。

 

 

頭痛があるときは、脳が成長しようとしているときによくあるのだが、こればっかりはそうでもないことがわかる。

 

自分の身体のことは自分の身体に聞けば、よく分かる。

誰かが『病院は病気の名前を付けるところ』と言っていたが、ほんとそれ。

 

頭痛のせいで頭の働きが悪くなっているが、頭を使うことがたくさんある。

意識をしたいことがたくさんある。

現状で、それらを何とかこなせるなら、万全になったらと思うと俄然やる気が出てくる。

ただ痛みがそれを阻害してくる。

 

人間は脳の3%ぐらいしか使っていないというが、それが1%でも0.1%でも増えるのなら、今の状況を快く受け入れる。

と、思って受け入れている。

 

自分に起こること全てが偶然ではなく、必然だと受け入れる。

意味のないことかも知れないが、そこに意味を見出すことで道となる。

起こることにどう選択して反応するのか。

 

この選択に自分のせい(責任)ということを加えるだけで、人生が自分のものになる。

思い通りになっていく。

思い通りの人生を生きてはいけない、送ってはいけないと決めたのは誰か?

 

親か?社会か?

否、自分自身だ。

 

思い通りに生きていこうと決めた時から、思い通りになっていく。

ただ、すぐにとは行かない場合が多い。

少しずつ思いが通っていくのだ。

硬い岩盤に水を流すと少しずつ浸み込み、岩盤を通り抜けて水は流れて行く。

水を流し続けると、岩盤に穴が空き、水が通りやすくなっていく。

 

思い通りというのはそういうことだ。

水を流す行為が自分のせいということ。

自分が水を流していることを認識してこそ、水は流れていく。

天から降ってくる雨でもいいが、それは自分の意志で水を流していない。

自分の意志で水を流してこそ、道ができ、通っていくのだろう。

 

頭痛一つをそう捉えて見ると、強ち悪いものでもない。

全てのことに対して有り難いと思えた今日一日。

 

これからも『全てのことに対して有り難い』と感じる日々を過ごすように意識して行く。

さて、思い通りの人生を歩みだしたぞ。

見えていなかった景色を見る

センス、いわゆる【感覚】や【感性】がいいかとか『意識高い』などの言葉があるが、いったいどういう人を指すのだろうか?

 

センスにしろ、意識にしろ、人よりも抜きん出ている、秀逸であるということ。

だが、言い換えれば人と違っている。

そして、この『人』といわれるのは一般(大勢大多数)人のことである。

 

人は、人と同じ(ような)であれば安心する。

特に日本人はその気が強い。

それは日本人のDNAであったり、今までの文化であったり、島国、農耕民族などで人との調和を重んじてきたからだろう。

 

さて、そのような人と同じようなことであれば、人生もさして変わらないのだろう。

 

私は昔から人と同じというのが、どちらかというと好きではなかった。

むしろ、少し目立つぐらいがちょうど良かった。

だが、少し目立つぐらいでは一般と変わらない世界なのだ。

例えば、地上から1mの高さから見る景色と1m1cmの見える景色は差ほど変わらない。

だが、1m50cmや2m、3mとなってくると全く違う景色が見えている。

 

そして、その2mや3mの景色を見ている人たちが少なからず居る。

その景色を見るためには、まずセンスや意識がどうなのかということになる。

 

センスがいい。意識が高い。

そうなるにはどうすればいいのだろうか?

 

答えは簡単、【素直】になること。

人に言われたこと、自分が思っていることなどに【素直】であるのか。

【素直】というのと【馬鹿正直】とは違うのだが、それは割愛する。

 

人に言われたことに対して、一旦【素直】に受け取ってみるといい。

そして、それを言った人は『何故、そう言ったのか?』を考えてみるのといい。

あながち間違ったことは言っていないことに気が付かないだろうか?

この『あながち間違ったことを言っていない』と気がつかない時点でセンスはない。

 

『あながち間違ったことを言っていない』のではないだろうかと自分の中に探すことをした人はセンスがあると思う。

もちろん、違うこともあるが受け取ってみて、初めて『違う』ということもわかるのである。

人は何かしらを感じて、言っている。

これの応用が『鏡の法則』と言われる。

 

そうやって自分が見えている部分ではなく、見えていない部分に対して意識をしていくから、センスや意識は磨かれていく。

 

また、人が言うことを信用すると騙されるなどの理由から【素直】に受け取らない人は、センスがないとなる。

まず、人が騙してくるなどと思っている人は、自分が人を騙していることが多いと認識するべきである。

自分が人を騙すことがないのであれば、人は自分を騙してこないだろう。

また人は信用できないという人もいる。

別に信用しなくていい。

こういう時の信用とは、相手に責任があるという所謂『相手のせい』にしている状態が多い。

全て自分の責任とすれば、何でも思うようになっていく。

この話しはいつかしよう。

 

センスはある、なしだけでなく、センスが良いのか、悪いのかもある。

意識を高く持っているのか、低く持っているのか。

大多数の人はそういう(自分や大多数の)人と違う人を妬む傾向が強い。

何故なら、自分と違うとわけがわからなくて、理解できないため怖くなるからだろう。

 

だが正直な話し、みんなと同じでいいのだろうか?

周りと同じような環境で、不満や不安はないのだろうか?

自分を信じることが出来ないのに、大勢多数のやっていることを信じるのか?

あなたはあなたとして生きているのか?

そういうことにどれだけ敏感になれるのか?

敏感になっていくと社会からつまはじきにされたり、社会に属することが息苦しくなることが多々ある。

社会からかけ離れて行くと、天才や変人、奇人と言われるようになる。

この天才と変人、奇人は紙一重であり、この紙一重の違いは、他者に何を与えられるのか、他者を幸せにできるのかということに尽きる。

 

 

自分にセンスがないとか、意識高くないなどの『ない』を言う。

他者を見て(比べて)どうこう言う。

それらの何に生産性があるのだろうか?

『ない』が生み出すことは不幸なことしかない。

何故なら、幸せではないからだ。

 

根本が違っている。

根本が違うので、その根から生えてきた木の姿も違うのだ。

 

ばっさり切ってしまう勇気を持つといい。

今に不満なら、ばっさり切って新しい芽を出したほうが早い。

『それは、、、』と躊躇しているのは何故か?

変化を嫌う生き物だから。

だが、変化することを望めば、見える景色が違い、変化した後の世界に行くことが可能である。

その可能性を見出せるかもセンスなのかも知れない。

 

言うのは簡単だが、めちゃくちゃ深い言葉(ばかりなのだが)がある。

『人生は一度きり』

その一度きりの人生をどう生きるのかは、自分次第だ。

 

気が付くことに気が付いて、見えていなかったことを見る力を今からでも養えるのだ。

見えていない世界には行くことができないが、見えている世界なら行くことができる。

 

是非、センスや意識を磨いていこう。

とりとめもなく

色んなことが目まぐるしく起こっている日々を過ごしている。

 

果たして自分はどこに行くのだろうか?

と、ふと思ったものの、行く先を決めているからそこに向かっている。

だが、道中のこと全てを予想していて、予定しているわけではないので、『マジか』となる。

 

自分のことより、人のことを考えるようになった今日この頃。

人って面白いのだ。

常に人を喜ばせることをしていく。

だが、媚びることなく、毅然として。

 

私と関わるとみんなHAPPY(あえて幸せという表現ではない)になってしまえばいい。

そうHAPPYに『なる』のではなく、『なってしまう』。

 

なりたいからなるのではない。なりたくなくてもなってしまう。

それは自然なこと。

 

それが『伝わる雰囲気』ということなのかも知れない。

先日、会った友だちがこの『伝わること(雰囲気)』について話していた。

意識していないことが相手に伝わってしまう。

醸し出していることなのだろう。

伝わって欲しいことを意識せずというのは、常に意識し続けること。

意識し続けたことは、無意識におちていく。

 

無意識におちると、意識せずともそうなっていくので、そうなるまで意識する。

 

意識の話しは非常に面白くて、この話しを進めていくとメンタルマネージメントになる。

メンタルマネージメントは資格がいるそうなので、割愛する。

 

人って不思議な存在だと改めて感じた。

おそらく、何でもできるんだろう。

物理的に無理なこともあるだろうが、それすらも出来てしまうようになるのではないかと思い馳せる。

 

それは人の機械化が成しえるのだろう。

既にマイクロチップを体内に埋めている人がいるそうだ。

それはその人を管理するために埋めているそうだが、そうではなく『攻殻機動隊』のような形になっていくのだろう。

 

iPS細胞やAIなど、今までSFの世界でしかなかったことが現実になっていく。

VRやARもそうだ。

VRは行く末、コンタクトレンズサイズになるだろう。

もう見るものが現実なのか、仮想現実なのか判断がつかない時代がやってくる。

 

そして、生きているのか生きていないのかすらもわからなくなってくる。

まさに『マトリックス』の世界がやってくる。

 

それに恐怖を覚える必要はない。

もし、機械化できるのであれば、率先して機械化を希望する。

何故なら、改造のない人として生きて行くには厳しい世界が待っている。

 

原因のわからない病気が今も蔓延している。

特に血管系疾患、癌、アトピー、糖尿病など一昔言っていた生活習慣病

その名の通り生活習慣が招いているからそういう総称が名づけられたのだが、それはもう生活習慣だけでなく、環境が招くようになっている。

 

私たちには、選択ということができる。

何を選択するのかは、目的地を決めると、自ずと見えてくることだ。

生き方の違い

ちょうど、久しぶりにブログを書こうとしていた時に、はてなブログ運営さんからブログの振り返りをしてみないかと連絡(メールのお知らせ)があった。

 

1年前、2年前の記事を振り返ってみたら『取り留めのないこと』と『決めること』とあった。

今回、書こうとしていた内容につながっており、そのことから気付いたことは自分自身にとって2月は節目(流れが変わる時期)なのだろうということ。


過去を振り返るのは参照するためではなく、傾向を見出し、これからの傾向を変えるためにした。

 

さて、前置きが長くなってしまったが、本題に移るとする。

 

この世界が仮想現実世界だとしたら(このことが事実という証明が出来ないため、仮説的になる)、世界を自分自身が創っているのか、誰か(何か)に創られた世界を生きているのかで大きな違いが生まれる。
この大きな違いは知る由もなく、あたかも同じ世界で生きているように感じる。
それは違う世界があることに気付けない(気付かせない)仕組みがあるからだ。
という話しをすれば、陰謀論や作り話などの話しとして処理をする人は、ここから先は読まなくていい。むしろ読まないでほしい。

 

 

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創られた世界ではなく、自分が創っている世界で生きていくには、それなりの手段や手法などが必要で、その選択が非常に重要なこと。

 

乗り物で例えると、創られた世界と創っている世界では【行き先】と【乗っている車種】が違うのだ。
乗り換えるためには、【行き先を決めること】と、【別の車種に移るための券】が必要。

 

【行き先を決める】ということは、自分がどんな人生を送りたいのか?
その送る人生を今の視点や今までの発想で考えるのではなく、全くもって自由な発想で想像すること。

 

想像したら、あとは【券】を手に入れるだけ。
巷でいう“引き寄せの法則”というものだろうか。

 

だが、引き寄せることができる場合と、出来ない場合があるのだ。
そこの違いが生き方の違いに直結している。

 

話しは逸れるが過去記事の『決めること』には『自己責任』ということに対して、実体験を基に強く訴えられていた。
つい、忘れがちになってしまう『自己責任』という言葉。
ブログで『自分で決めること』をしてきていないのではないかと訴えている。
この『自分で決める』ことは、超重要だ。

 

話しを元に戻すと【行き先を決める】ことが『自分で決める』ということなのだ。

 

先述した【全くもって自由な発想】で【行き先を決める】と【乗り換え券】は自ずと手に入る仕組みになっている。
ただ【乗り換え券】は、いつ、どのような形で手に入るのか明示されていないので、『既に』手にしている場合もあれば、『まだ』手にしていない場合もあり、手にしたいと思わない形で『渡される』こともある。


また『偽物(間違った)』の【乗り換え券】もあるので、気を付けておいた方がいいと言っても、手にしてみないと間違っているのかはわからない。

 

今回は人生を乗り物と道に喩えてみたが、何に喩えようと同じことなのだ。

 

 

【決める】、【受け取る(もしくは手に入れる)】という二つのことだけ。

至極、単純明快なこと。


そして、あとは【進む(やる)】だけ。

そのどれもに通ずるのは、自分自身の【想像力】であり、【選択】や【判断】、何より大切なことは【信じる】ことである。

 

ここまで読んで『嘘だろ』って思っている人は、どうぞ嘘と思ってやればいい。
その『嘘』と思っているように、『嘘』になるのだ。

 

最後に好きな言葉を載せておく
『百聞百見は一験に如かず』

私は今の時点で半分、自由になっている。

さて、あなたが自由になれるように、選択するのも自由。

突き付けられるシンカ

水は高いところから低いところへ流れる。

低いところへ流れ、溜まり、澱んでくる。
水以外の大抵のことも同じことが言えよう。

 

流行は『流れ行く』ことで、【流れて来る】ことではない。
(このように当たり前のことを再認識し、概念し直すことは大切なこと)。


『流れて行く』ことのどの段階で自分が出会っているのかが重要になる。

 

情報も同じで、一般(大衆)に情報が出回ったところで出会った場合、もう既に溜まっている状態、もしくは澱んでいる状態。

 

『一般(大衆)に出回っている=メディアが取り上げている』ということで判断できる。

 

たまたま【人手不足を見越した、もしくは現在の人手不足解消の『ロボット化』】という情報をメディアにて見て思った。

 

本当に人手不足なのかが気になるところではあるものの、今回は『ロボット化』が気になった。

 

この『ロボット化』や『AI導入』により、大きな変化が訪れることになる。
映画であるような世界が、もう目の前に来ているのだ。

映画のほとんどは、既にロボットが存在していて、生活の中に溶け込んでいるので、溶け込んでいくことによる出来事は描かれていない。
また、ロボット化後による弊害に対する警告を取り上げているが、それ以前はない。

 

何が起きるのか…
その一つは経済の流れが大きく変わるということ。
その経済の流れが変わることによっての影響。

 

細かいところまでは予想できないが、現在、人が働いていることをロボットが取って替わることになるので、その人たちの労働がなくなる。

 

労働がなくなって良いかと言わば、現在のような経済(資本主義)ではその労働していた人たちは生活ができなくなる。


どうやって収入を得るのか?


ロボットやAIに取って替わられないような職業に就くことや雇用ではない形での収入を得る方法か、経済の仕組みが変わるのを期待するか。

どちらにしろ、難しい問題である。

 

そうならない可能性もあるが、そうなる可能性もある。
予感として、間違いなくそうなる。

 

そうなる前に動いておくこと。
今でも遅いのかも知れないが、気がついた時から何とかできるようにしていくこと。
人、人間として進化していくこと。
その真価が問われている時期に我々は生きていて、まだ人生を味わいきっていない。

 

今、働いている環境の中で感じていることは、おそらくこの人たちはどうしようもないのだろうなと感じる。
変化を付けられるのは、その本人でしかないから。
挨拶もろくにできず、今のやり方は以前と変わらないやり方で、ストレスばかり溜まり、回復する間もない。

 

よく、そんな劣悪な環境で生きていけるなと感じる。

 

他人のことはどうでもいいのだが、そう言う環境から脱出する道、方法、手段などを知らないのだろう。

恐ろしいことだ。

 

生物は淘汰され、今生きている種がある。
それは環境に適応できなかった種が、滅んでいった。
人の場合はどうなるのだろうか?
人類という大きな括りではなく、生活環境などで括られる形で淘汰があるような気がする。

 

よく陰謀論でAIのことや滅亡の話などをするが、どの立場でその情報が流されているのか?
その情報を危機と思わない立場もある。
ロボット、AIという次世代の技術により、今までのような生活ができない層がある。

 

さて、あなたは何をする?