在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

旧態依然の行く末

因果論で片付くことではないが、背景を知ることをせずして、先のことばかりを見ているのは、夢を語っているにすぎない。

 

今があるのは、こういった過去や背景があるからこそ、そうなっているのであって、まずそうなった要因をすべて把握することが大切。

 

それを変えられずして、急に展望が開けるであろうか。

 

よくビジネス系や精神論系の本に書いてあるのが、『描く将来になっているように行動すること』などがあるが、それは理にかなっている。

 

「そんなことできないよ」と初めは思い、口に出すかもしれないが、できないのではなく、やらない。やろうとしないだけ。

 

これもよくある話ではあるが、生まれた子が立って歩く。

それは教えられたことではない。最初は立ち上がることすらできないが、何度も愚直なまでにやり続ける。

転んでも、転んでも、何度も。

どこかを打って泣いても。

 

立ち上がり歩こうとする。

初めて歩こうとする子どもにとっては、できないことで済まさない。

 

誰かにやってもらうこともしない。

自分の足で歩くとしているから。

 

その転ぶことも、泣くことも、しんどいことだと思う。

何度やっても上手くいかない。

楽ではない。

 

楽して何かが成し遂げられるのであれば、みんなそうなっている。

楽をしてきたからこそ、今がある。

この先どうなっていくのかを予想せずして、過去にとらわれていたり、目の前にあることの処理に追われて、楽をしよう、楽をしようとしてきた結果が、現状である。

 

どれだけいい未来を描いても、その努力を、何をしていくべきか、どこが問題なのかをわからないと、描いた未来はやってこない。

旧態依然の行く末は、破滅しかない。

そして、自分のことではなく、自分の行動が影響する範囲のことまでは考えておくことが必要である。

 

ひどい言い方かもしれないが、寿命の短い人間は、自分以外のことを考えることをしないように見受けられる。

 

ネイティブアメリカンの言葉で、7代先のことまで考えて生活しなさい。

という言葉がある。

セブンスジェネレーションと言われている。

 

そんなことまで考えて、今を生きていれば旧態依然なんてとっくにやめている。

自分という枠を自分で決めて、自分さえよければ後はどうなってもいい。

自分が生まれてきたときは、そうだったかもしれないが、それを繰り返すことで、生まれてくる子たちにとって、どうなのかを考えて生きたい。

 

人は楽をするために、色んなものを発明してきた。

だが、考えなくていいようになってしまった。

 

考えて生きていないのであれば、それは血の通わぬ何かと同じではないのか。

と行く末を見て、訴え、行動し続けている。