在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

愚者でありたく、愚直でありたい。

明け方に褒められ下手という話しをしていた。

何故、褒められ下手なのか~なんて話もしていたら、その後から褒め殺しかと思うぐらい褒めてきて、正直戸惑った。

 

よくよく考えると褒められたのではなく、認めてもらったのだと今さらながら思う。

 

ずーっと認めてもらいたいという気持ちがあったが、その明け方の話しがお世辞だとしても、素直に受け取っておこうと思った。

 

いつの間にか認められていて、またどういうところを認めているのかをしっかりと伝えてくれているので、お世辞ではないが、褒められていることと勘違いして、疑っていた。

 

すごいですよね、、、と相手が言えば、何が?と言いたくなる。

具体的に伝えてもらわなければ、勘違いしてしまうからよく聞く。

 

今回は、あれだけ盛り上がったことに対して、誰も何も言わなかったのに、あなただけが動いて、それを形にした。

そういうことって誰もができることではないと。

 

また反骨である、パンクでアナーキーだとも言われた。

反骨な発言とネガティブな発言の違いも聞いた。

もしかしたら書いたかもしれないが、もし批判や反対をするのであれば、その代替案を提案してこと、意見になり、そこから建設的な話しがなされる。

誰もが批判や反対はできる。

だが、それでは何も変わらない。

変えるためには、批判や反対することに対しての、案を出してこそ土俵に上がる。

そのために、対する案を知り尽くす必要がある。

 

と、まあそんなことを思いながら、自分は話していると言うと、それが反骨でパンクでアナーキーなんだとか。

 

ただ、10回中9回は反骨なのに、1回反骨ではないことがあるという話しもしていた。

その一回が致命的になることもある。

致命的な一回があるのであれば、初めから反骨な発言をしないほうがいいこともあると教えてもらった。

 

そんな話をしながら、認められているから先頭に立つようになってくると、自分に制限を賭けてしまいそうで、今の愚直で、愚者でありたいということに反するのではないかなんて、想像してしまった。

 

いつまでも、愚者でありかつ反骨していきたい。

顔ではなく、表に立つのではなく、常に心臓や裏方でありたい。

 

あ、そういえば昔にも言われたことがあったなと、今ふと思い出した。

自分で自分に制限を掛けているように見える。

もっと飛躍できるはず。

そんなところでとどまっている人ではないと。

 

周りのみんなは自分に何を見ているのだろうか?

自分は愚者で在りつづけるだけ。