在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

何故?

何故という問いかけが必要ではあるが、その問いへの答えは重要ではないのだろう。

まだ知識や、環境に侵される前までは、全てのことに対して『なんで?』と問いかけていた。
周りの人たちは、特に大人たちは、それに答えるのを面倒だから『なんでも』と答えたり、あしらったりする。

そのはじまりを問うことにより、はじまる前のモヤっとしたところへ行き着く。
そのモヤっとしたことが重要だ。

例えば、胸が熱くなる感覚であったり、息が苦しくなる感覚であったりする。

そういったことが情動ではないか。
この情動に衝き動かされているのか、そうではなく何となく楽だからと惰性に従っているのかでは、随分と見える世界が違ってくる。

惰性な人との話しは、大概つまらないものだ。
情動に衝き動かされている人の話しは、その情動があたかも自分自身のことではないかと、伝えてくることがある。

それは言葉にならない行間という独特の間。

この間が分かるようになると、人とのやり取りに苦労しなくなる。
だが、わかりすぎるからこそ、辛い部分もある。

自分に、相手に、何故と問いかけてみると、その本質が見えるような気がしなくもない。