何故?
何故という問いかけが必要ではあるが、その問いへの答えは重要ではないのだろう。
まだ知識や、環境に侵される前までは、全てのことに対して『なんで?』と問いかけていた。
周りの人たちは、特に大人たちは、それに答えるのを面倒だから『なんでも』と答えたり、あしらったりする。
そのはじまりを問うことにより、はじまる前のモヤっとしたところへ行き着く。
そのモヤっとしたことが重要だ。
例えば、胸が熱くなる感覚であったり、息が苦しくなる感覚であったりする。
そういったことが情動ではないか。
この情動に衝き動かされているのか、そうではなく何となく楽だからと惰性に従っているのかでは、随分と見える世界が違ってくる。
惰性な人との話しは、大概つまらないものだ。
情動に衝き動かされている人の話しは、その情動があたかも自分自身のことではないかと、伝えてくることがある。
それは言葉にならない行間という独特の間。
この間が分かるようになると、人とのやり取りに苦労しなくなる。
だが、わかりすぎるからこそ、辛い部分もある。
自分に、相手に、何故と問いかけてみると、その本質が見えるような気がしなくもない。