在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

超地方都市

田舎に来て2年経つ。
それまで大都市ではないけれど、都市と呼んでもいい所に住んでいた。
住んでいた所を表すには、コンパクトシティという言葉が一番適していると思う。
物凄いことはないが、それなりに名は通っており、印象もいいし、住み良い街。

そんな街に住んでいたからか、大都市圏に興味がなく、その凄さを知らなかった。

首都である都市が、どうすごいのかを感じたのは、田舎に来て東京に行く機会が増えてから。
建物や交通、何にしてもここに無いものはないと言わんばかりに、様々なことが揃っている。
外国には敵わないのかも知れないが、日本の首都の名に恥じぬ。
流行の最先端であり、異様なまでのエネルギーが、東京に集中している。

だが東京は所詮、田舎者の集まりである。
古くから東京に住んでいて、東京で生まれ、東京で育ち、東京で生きている人は、東京に集まる人口よりも遥かに少ない。

東京という街に何故、これほど人が集まるのだろうか?
何故、エネルギーが溢れかえっているのだろうか?

その答えは、様々な人が集まっているからであろう。
東京には決まったことがない。
もちろん法律云々の話しではなく、東京という場所には、縛りがない。

縛りがないことが、新しいことを作り出そうとする。
自由なのだ。

田舎では、元々そこに住む人たちの中に決まりがあり、その決まりから外れるものを異端とし、外に出そうとする。

東京に人が集まったのは、東京には何もないからなのかもしれない。
何もないからこそ、何でもある。
何でもあっていい。
それが自由なのだ。

何でもあるからこそ、人が集まり何かを始める。
何かを始めても咎める人はいない。
大げさに言えば、賛同するのか、それに関わらないのか。。。
『いいね』か反応しないかの二つしかない。

田舎は『ダメね』か合わせるしかない。
そうやってムラを、自分たちの繋がりを守ってきた。
その結果、そういう場所には人が住まなくなっている。

産業がないからではない。
縛りが人も、金も、モノも、遠ざけていく。
変化しないことは、衰退するしかない。
変わるからこそ、代謝が起き循環していく。

それを作っているのは、誰でもない。
そこにいる人たちなのだ。

意図して東京に集中するようにしていることもあるだろうが、それに抗うことを怠っている。
守ることも大切なことだが、守り続けた先にどうなるのかをしっかり見据えてから、守ればいい。

変わっていくことで守ることができることもある。変わることは使い捨てるわけではない。
それらを養分として、変化し続けること。
その根本に守るべきことがあるのではないか。

人が集まることで起きる新たなことを受け入れることができた都市だからこそ、首都であると言えよう。

それが全てではないが、地方が衰退していくのは、そのような要因が大きいのだろうと、眠らない東京の街に見た。