在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

夜に書く文章は、、、

夜に手紙を書くのは良くないらしい。

その書いた手紙を、朝読み返してみると恥ずかしいことを書いてしまっているという。

 

この文章もそのひとつなのかもしれない。

吐露されることは、支離滅裂で理解できるのは、今の自分だけなのかも知れない。

 

仕事のことについて、先月の前半からすごい悩みに悩んだものの、結果は成績良しであった。

今月に入り、周りの雰囲気が変わったように感じられる。

 

自分でも嫌になるぐらい空気感を感じてしまい、それが被害妄想に繋がったりすることがある。

先月はそれで悩んだ。

 

悩んでいるからこそ、戦い続けられる。

その精神力にも限界が来たことは、いまだに続いていることなのかも知れない。

 

最近、思うことは、どこからお金が来ているのか、自分がお金をもらうのは誰からなのか?

そんなことを、昔上司の上司から聞かれたことがある。

『お客様』と答えた。

間違いなく、お客様が物品を購入したり、サービスを受けたりすることの対価としてお金をその人や会社などに払っている。

 

会社員は、直接的にお金をお客様からいただいているわけではない。

お客様は、その会社に対して支払っている。

よって、会社からお金をいただいていることになる。

 

お客様に対して、物品やサービスを提供しようとも、それを生み出しているのは生産者であり、会社という組織である。

流通の流れの一部でしかない。

その一部の役割は大切である。

 

駒としての代替は、いくらでもあるが、顧客との関係は見えない形の対価で結ばれる。

それを社蓄と呼ぶのはかまわないが、そこで得られることの最大限を求めるのは、個人の自由である。

お金をもらいながら、勉強できるわけである。

もちろん、それがすべてとは言わないが。

 

会社に属する限り、社蓄として役割を果たせばいい。

その役割を果たした先に、何かが見える。

 

現場から中間管理職、中間管理職から管理職と昇りつめても社長になることはほぼない。

社長というのはそういう立場なのだろう。

その立場になったことがないからわからないが、その立場になるには相当の覚悟と戦略、戦術などがいる。

雇われることがどれだけ楽なのかも良くわかる。

その立場になろうと挑戦してみれば。

 

結局、人は自分の立ち居地すら見えないのかも知れない。

だから、その上であったり、そういう人たちの立場が理解できないのだろう。

 

ひしひしとそういうことを感じる。

実力がなければ、土俵にあがることはできない。

戦うことすら出来なのだ。

戦うことすら出来ないのに、一人前に文句だけはたれる。

もしくは、そういった不満を別のところで、別のもので解消する。

 

土俵に上がる前に、自分自身に負けている。

負けても、生きていける世界だから、負けることに対する抵抗感はない。

 

敵は己の心の中に潜む。

周りの世界を作り出しているのは己である。

 

因果といえないことが渦巻いている世界を変えることが出来るのは、自分を制した人なのかも知れない。