在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

発信すること

このブログをはじめたきっかけは、個人を特定できる公に発信できないことを吐き出すために作ったものであった。

 

簡単に特定はできないと思っている。

 

だからといって、発信することに対して少し配慮をするべきだろうと思ったので、過去の内容を少しずつ変更していった。

 

カテゴリーは途中で変えた。

文章の書き方も変わった。

 

発信することについて、考えてみた。

発信は受け取る対象がいてこそ、発信することに意味がもたらされる。

 

どうでもいい話は、インターネットの世界では目にも留まらないのだろう。

自分なら、興味のない記事や話は読まない。

必要な情報だけを取り上げていく。

そう考えると読まれることのない記事になるのだろうが、それでも誰かが見たときにどう感じるか、それはこのブログを見た第一印象できまるのだろう。

 

そして、興味があれば読み進めていくのではないだろうか。

 

以前の内容は、本当にはけ口としての記事が多いことに気がついた。

それだけ自分に合っていなかったのだろう。

自分でも気がつかない負荷が掛かっていたのだろう。

 

読み返してみて、相手に、周りに求めているのだということがわかった。

今では、ほとんど求めない。

求めても得られないことだから。

 

それは心理学を学びだしてから、よくわかった。

他人は自分自身のために生きているわけではない。

自分も他人のために生きているわけではないだろう。

 

だから、相手に何かを求めたところで、求めたことに対してどう答えるのかは相手次第になる。

自分自身に置き換えてみればわかることなのだ。

そういうことに気がついていくと、イライラすることもなくなってきた。

神や仏、聖人君子ではないので、全くイライラしないとは言わないが、イライラすることが減ったのは事実である。

 

自分自身がこのブログを見る他人であれば、そういうことが見えてくる。

自分自身を客観視するには時間が経たないとできない。

主観的であるから、主観的な観点を客観的な観点に変えるための時間が必要である。

 

発信した後に、客観的に見ることができる。

客観的に見直したことを、次回に活かすことはできるが、それなりに意識しておかないと、ついつい無意識でいつもの自分自身になってしまう。

 

このブログも変わっていくのだろうが、とにかく発信に対して気をつけていく。