在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

役割演技

物語は静かに始まっていく。

そして大勢の注目を浴びるような出来事、それに関わる人などの様々なこと。

その一部始終を他者は様々な形で知ることができる。

 

決まった道筋から、逸れないようにできることや与えられる情報が決まっている。

ある情報以外のことは決められておらず、それを知ることは誰もできない。

 

人が生きることも、そのようなことだと思う。

但し、道筋が決まっているのか、決まっていないのかはわからない。

自分が選択することによって、次の展開が広がり、過ぎたことは決まっていたことになる。

選択した先、次の展開をある程度予測出来たとしても、必ずそうなるとは限らない。

 

だからこそ、先の展開に対して、不安を感じることなく楽しみにしていれば良い。

 

『ワクワクする』ことがある、ないかも知れないが『ある』と思い続けて、今を繰り返して生きていく。

おきた出来事に対して、楽しむか楽しまないのかは自分次第。

それは生きとし生けるものに、与えられた権利であり、生きるとはそういうことなのかも知れない。

ただ自分一人だけでなく大勢の思い・与えられた権利が様々なところで絡み合うため、自分が望んだこと、思っていることが、その通りにならないかも知れない。

これも公平に与えられていることで、『目の前に差し出されることに対して、どう反応するのかは決められていない』。

 

それを決めるのは、自分自身だから。

 

生きるとはロールプレイングゲームみたいなもんだなと思う今日この頃。

まず主人公という自分のことを知ることによって操作しやすくなる。

ゲームの主人公であれば得意不得意、強みや弱みを知ることでカバーできる。

 

また関わる人たちのことを知れば、攻略するために必要なことを引き出せたり、仲間として歩んだりすることができる。

 

この世に対峙するモンスターは居ないが、モンスターに置き換わる人間関係、障害などが用意されている。

深く説明しないが、このモンスターに置き換わることは、自分自身が用意している。

その経験をこなすことによって、何かを得たり、何かを失ったりする。

その経験があるから、望む展開に近づいていくことができる。

 

ゲームであれば、魔王を倒すなどの目的は明確だが、どんな目的を持っているのかは最後までわからないのだろう。

もし、わかったとして『果たしてそれが本当に目的なのか?』というと目的だと自分が決めていることが多い。

 

この目的について知ることができるのは、言葉にできない思いが湧き上がる時。

情熱があふれ、感情ではなく情動的になる時。

ただ、方向性を決めることはできる。

何となく流されているのではなく、行きたいと感じる方へ意識を向けると少しずつ見えてくる。

 

どんな結末が待っているのかは、わからないが、自分自身が望むような結末にすることができる。

それは難しくなく、容易でもない。

 

それぞれが、それぞれの課題に向かい、それぞれの結末に向かっていく。

いつでも孤独であり、いつでも繋がっている。

どう見て、どう感じて、どう行動していくか。

 

用意された物語は、あなたが最後まで書き記した物語である。