在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

ふかぁ〜く…

不倫についての話しから、慈愛の話しになり、どんどん深く、深くなっていった話。

(見る人によっては厨二病拗らせていると感じる方もいるかと思います。)

 

 

まず、【不倫】について。

結論、『不倫はダメ』だ。

では、何故ダメなのか?

(こういう何故?をすると深くなっていく)

 

誰かが傷つくとか、周りに迷惑をかけるからとか、そんなことではない。

それ以上なのだ。

 

結婚は儀式でも、紙を出すことでも、契約でもない。

存在に対して誓うこと。

それは結婚という形だが、結婚だけでなく、付き合おうが、何だろうが。

不倫をするということは、その誓いを破ること。

その誓いを裏切ること。

捨てること。

 

与えられたことに対する投げ捨て。

誰から与えられるのか?

それは色んな表現がある。

例えば、神であったり、仏であったり、宇宙であったりする。

その与えてくれることに対して、裏切り、冒涜している。

 

与えたことに対して、反応し、選択したことで、また与えられる。

それがどのような形であれ、与えられる。

 

与えられることを当たり前と思っているのか、有り難いと思っているのかの違いで、与えられることは変わってくる。

 

そういうことがわかるように与えてくれているのは、慈愛ということを体験するため。

 

という話から、【慈愛】について。

 

慈愛とは何か?

慈悲とも、愛とも表現できる。

この言葉は、名詞ではなく動詞である。

 

そのような存在があるではなく、動きや心の状態などを表現している。

 

慈愛を持っていれば、不倫はしない。

ダメだとわかる。

『食べるとダメ(例えば、病気になる)→食べる→病気になる』とわかっていても、欲に任せて食べる。

ちゃんと教えてくれているのに、食べてしまう。

結果は必ず…訪れる。

そういうことを昔の人たちは(体験を持って)わかってて教えてくれていたのだが、良くも悪くもそういう教育が薄れている。

 

そういう昔の言い伝えは、ゲームでいうコツであったり、攻略法の一つであったりする。

 

という話しから、【人生はゲーム】という話しに。

人生は没入型仮想世界の可能性が広がりつつある。

自分はゲームの中のキャラでしかなく、操作(傍観)している存在がいる。

では、主体は何なのだろうか?

そもそも、存在とは?

意識とは?

などから自由意志などの話しになり、もう今までの認識の範疇を越えていく。

はっきりとした答えがあるわけではない、ふわふわとした感覚に陥り、思考がついていけなくなっていた。

それでも、何とか思考をしていると思考ではない部分で考え、理解しようとしていることに気がつく。

 

結局のところ、すべては運命であり、自由であるという答えにたどり着く。

選んだことの結果は既に決まっていたこと。

どれを選んでも、何を選んでも、決まっていたことになる。

が、選ぶことができる。

この話しは、『今、この瞬間にしか存在していない』などの精神世界に繋がる話しになってくるが、それを現実でどうする(思い→行動する)のかが大切である。

などの話しになった。

 

人によれば、わけのわからない話しに聞こえる。

どうでもいい話しだと思う。

そんなことを考えずとも、思わずとも、生きていける。

何も困らない。

何も知らなくてもいい。

 

だが、占いを信じるより、確実な方法である。

 

 

 

何故なら、どう選択しても結果は既に決まっているから。