在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

WINな関係

『自分と関わる人、自分が出力していることに関わる人たち、みんながWINになるといいと思っている』と言う言葉を人に掛けられる人と出会い、そこから何かが始まろうとしている。

 

生活の中で仕事が大半の時間を占めている。

仕事場の空気が悪い。

今日も、そのことに対して話しをしていた。

 

そんな大半の時間の環境で何かが変わるようなことは、まず難しい。

それは所詮、雇われた人たちの集まりだから。

 

だが、仕事以外で創り出している(出そうとしている)人たちとの付き合いは、自分の本気度、持っている空気感、生命力、精神力でつながり合う。

 

もちろん出力することの良し悪しなどはあるが、それを本気でやっている(やっていく)ならば、それを出力している人間(自分自身)を見られる。

 

裸の自分だ。

 

そんな裸の人たちが集まると、相乗的に高め合おうとする。

それは自分の出力することが、他者の出力することと絡み合い、加ではなく積となり、とてつもないことが起きることを感じているから。

 

可能性の話しを、この前したが可能性が可能性を呼び、予想していること以上のことが起こる。

 

ゼロではない可能性、可能性があるということ。

その『ある』を見えるようにするのも、見えないようにするのも、とてつもないものにするのも、自分次第だ。

 

すでに『ある』のだから。

 

出力している人は、それがわかっているから楽しくて、楽しいならみんなで楽しもうよ!となる。

 

これを言えるのは、本当に楽しんでいる人だから。

仕事では言わない。

『我さえ良ければ…』

特にノルマがあるところでは顕著に出る。

自分さえ良ければいいのだ。

 

楽しんで仕事をやっている人は居ないとは言わないが少ない。

なぜ、出力するのか?

なぜ、仕事をするのか?

この二つには大きな違いがある。

 

仕事は生活をするため。

出力は楽しいから、好きだから、やりたいからなど…

創ることに楽しさがあり、その楽しさに賛同したり、楽しみを感じたりする人たちがいる。

結局、自分の楽しさに対して、色んな人が関わっていく。

どんな形であれ。

 

出力に対して、反応してくれる人たちがいることを知っているからこそ、『みんなで』となる。

 

自分のことなのに、人が関わっているからこそ、成り立つことに気づくか、気付かないか。

 

仕事もそうなんだけど。

そこに気が付きにくい。

需要と供給、発信と受信、人との関わり合いの中で生きているのだが。

 

これからその体験していく、そしてその濃度が濃くなっていくかも知れないと、仄かに香る空気が緊張させる。

何かが始まろうとしている。

何が始まろうとも、やりつづけること、覚悟して臨まないと、その世界は楽しい世界から厳しい世界に変わる。

それがわかるから。

 

でも、もう後戻りはしない。