在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

仕事から生き方、在り方に

職場の研修にて、ロープレについて話しがあった。

この研修の講師と一度ゆっくり話してみたいと思う。

 

ロープレとは、ロールプレイングの略で、ロールプレイングとは『役割を演じること』である。

 

そう、仕事とは役割を演じているのだ。

仕事に従事するからには、その役を演じることが必須であると。

役割を演じている自分と、演じていない(仕事ではない時の)自分とは違う存在だと認識することで、いつもの自分に役を演じている時のことを持ってこないようにできる。

と言う話しをしていた。

 

そうだよなーと同感していた。

 

また、人に対して何かをする時、意外と気を使っているということを言っていた。

特に目を合わせて話すことは、気を使うそうだ。

 

特に初対面の人に対して。

それはお互いに情報がなく、過去の経験則からお互いを図ってしまうことが多いから。

 

それを改善するには、情報開示や相手にどう認識してもらう(させる)か。

相手がどう思うのかは、自分が相手の立場ならどう感じるのか?

相手の立場になって考えることが正しいわけではないが、あながち間違ったことは導かれない。

そういう時に心理学を知っていると人間の特性から、こうすればこう感じるという普遍的な行動を取ることも出来る。

 

心理学はそう言った小手先の技術のためにあるわけではないが、技術として使えることが多い。

 

心理学の本質は、人を知ることで、臨床心理学はそう言った心理学で得たことを実践するなどなど…

 

人は関わり合う中で生きているため、その特性というものが法則としてある。

但し、必ず適応するとは限らない。

 

自分が相手に対する言葉や態度で、相手が自分をどう見るのか、受け取るのかがわかっていれば、対処のしようがある。

 

確かにそうだと思う。

 

だが、本質は違うと思った。

役を演じていることも、認識のことに関しても、相手のことを考えてすれば、自ずと答えが出てくることだと思う。

自分がどう在りたいかを考えること。

 

自分を傷つけるものは、自分以外いないということを知らないからだ。

と言われても、わからないから演じていることを思ったり、相手との関係性をどう作っていくか手段から入るわけだ。

 

自分がどう在るのか、在りたいのかを考えることすれば、人生は楽しく生きることができる。

 

また、楽しいと愉しいの違いを簡単に言っていた。

たかが、漢字の違いだけだろうと言えばそれまで。

だが、何故違う漢字なのだろうか?

こういった疑問を持つことが大切である。

 

その講師が説明したのは、『楽しい』とは与えられたことを楽しむことで『愉しい』とは自分で何かをして愉しむことと言っていた。

受動的か能動的かの違いである。

 

たのしむことは、どちらもすればいいと思う。

だが、楽しくないと感じることに対して、愉しむのは能動的なことである。

 

何とも…

話しの要点を噛み砕いて話してくれていることには感心する。

 

利己ではなく、利他であることなどの話しも少しあった。

 

他者のほとんどは、存在を認められたいのだ。

承認欲求というやつにしてもだ。

 

人は人との関わり合いの中でしか生きていけないと言っても過言ではない。

そういう風に、人は変化してきたのだ。

 

森の中で弱い存在であった人が、生きていく方法として、社会という枠組みを作り上げてきた。

その社会の中で、人はそれぞれの役を演じ、人は他者のために、社会のために生きている。

その生き方がいいのか悪いのかは別として、この世に存在しているということは、存在していいから存在している。

 

そのことに対して、他者に存在を否定されることはない。

自分の人生は自分しか生きれないのだ。

代わりなど居ないのだ。

 

そして、他者と関わり、色んな選択をして、今最善の状態、状況で常に存在している。

 

いつでも真理というのか、基礎、基本などは、至って単純かつ明快である。

 

難しくしているのは、社会でも、他者でもなく、自分なのだ。

 

どう在りたいか、一度きりの人生、愉しんでいこうと改めて感じた。