ノルカソルカ
おそらく、このブログに書いてある記事のほとんどは同じようなことなのだろうが、それは同じことを思い続けているからか、その繰り返しを手離せていないのかも知れない。
ただ言えるのは自分自身が体験していないことや見えていないこと、感じられていないことなど憶測でしかないことを言葉にしたくないから実体験に基づいたことが多くなる。
という前置きをしておく内容。
人と話していて、気の持ちようが違うとか波長が合わないとか、相手との間に何か感じるモヤモヤしたこと。
それはお互いの世界(舞台)が違っているから。
言語は同じでも、相手の言っていることが伝わったとしても、その微妙ではあるが感じる違和感は、世界が違うことから起こる。
海の魚が、川で生きられないように、同じ魚だとしても生きられないのだ。
つまり、合わないとなる。
ただ、そういう時こそ、好機であることは間違いないと言えよう。
もちろん、先見の目を持って危険予知をすることは大切ではあるが、目の前に来ることのほとんどが自分の選んだことで、次に選ぶことで、自分の進みたいところへ行けるのか、また同じところに戻ってくるのか。
分岐点である。
『ノルカソルカ』
のっても、のらなくても、全て自己責任である。
だが、日々同じような選択をしているクセがあるので、それを選んだとしても必ず別の道に行くわけでもなく、もう戻れないわけでもない。
もちろん、もう戻れないこともあるし、急な切り替えになることもある。
だが、どちらにしても必要なことしか起きないので、その選択を間違えると繰り返すことになる。
選んだことのない選択肢を選ぶ機会というのは、冒険のようなものなのだ。
知らぬ道を通るので、迷ってしまうかも知れない。
予想以上の何かが襲ってくるかも知れない。
また慣れないことなので、心身共に負荷がかかることは間違いない。
だが『ノルカソルカ』なのだ。
ノれば、思っているところへ行くかはわからぬ。
しかし、その不安以上に思っているところに近づく大きな一歩になる。
ソれば、いつもの通りに何もなく安心できる。
しかし、その安心は幻想なのかも知れない。
『人生は博打』だと思う。
博打と言われるものに、どっぷりハマったこともなければ、全くしたことがないわけではない。
どのような勝負事も、ただ単に賭けているわけではない。
結果は勝ち負けとなるが、負けるためにする勝負はない。
勝つためにどうするのか、色んな情報を仕入れたり、法則を見つけたり、場を読んだり、自分は常に冷静であることであったりする。
とてつもないチカラがその勝負事に寄せられている。
人生も同じようなことである。
ただ、勝負事の相手は他人でもなく、機械でもなく、己自身。
己に賭け、己が動き、己にとりまく環境、流れなどを変えていく。
『ノルカソルカ』はそのようなことなのだ。
ノる人が偉いわけでも、ソる人が偉いわけでもない。
どちらにしろ何かを思った時点で、賽は振られているのだから。