在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

脳を使う(考えるということ)

思考(脳)の省エネ化という話しを友だちとしていた。
思考(脳)だけでなく、人間(動物も?)は楽することに対して、エネルギーを使ってきたと言っても過言ではない。
便利=楽という形で、様々なモノやコトを生み出してきた。

全てにおいて、面倒なことをしないように、変化してきたが快楽(欲求)はずっと求め続けている。

考えるというこは、脳が膨大なエネルギーを使うことになり、そこにエネルギーを使わないでおこうと考えることをしようとしない人が増えてきたように見受けられる。
また、人(動物も)は変化を嫌う性質がある。
何故なら、今までと勝手が違ってくるからだ。
今まで意識したり、気にしないでよかったことに対して、意識するということにエネルギーを使うから。

だが考えることをやめてしまうと、考えられなくなり、愉しめなくなる。
与えられたことに対して楽しむことはできても、生み出すことに対して愉しんでやることが面倒になる。

生みの苦しみとは、そういうことを言っていないのだろうが、生むことの苦しみとも言えよう。
何にしろ、生み出すというのは、先日の自分と向き合うで書いたことも含まれる。

だから苦しいこともあるがそればかりではない。
自分が生み出したことで、周りに何かしらの影響を自分や周りに与えること、周りから認められること、周りとの関係性などが変わってくるなど様々な変化がある。
生み出すに対して自分の意図とすることを、他者にわかってもらえるというのは、喜びや自信に繋がっている。

喜びや自信は一種の快楽(欲求)だろう。

与えられることに対してエネルギーを消費して快楽を得る(欲求を満たす)のか、エネルギーを使って生み出したことで快楽を得る(欲求を満たす)のかの違いではないだろうか。

アーティストやクリエイターと呼ばれる人たちは、エネルギーを使い生み出し続けている人だろう。

別に与えられることに対してエネルギーを消費することが悪ではない。
そういう人たちが居るからこそ、アーティストやクリエイターは存在している。

ただ自分の人生に対して、惰性(周りの影響)によってエネルギーを消費して快楽を得る(欲求を満たす)のは、何かあった時の対処や対応ができなくなる可能性が高い。
また他者に影響を与えなくとも、自分の人生を創っていくことをせず、不平不満などをいい、他者を尊重しないどころか、蔑み、自己を保とうとするのは違う。

よく『面倒臭い』という人がいるが、面倒臭いことをしていたり、面倒と感じているのは自分で、物事は面倒な存在ではない。
それを言い換えると思考することが面倒臭いと言っているのだ。
だが、その面倒臭いことの中に、機会や時期がたくさんある。
変えていくことを繰り返ししていれば、変わっていくことに面倒臭いなどという抵抗は少なくなってくる。

別の話ではあるが、ちゃんと人の話しは聞いた方がいい。
自分に取って必要かどうかは熟考した方がいい。
面倒臭いの一言が、今までのあなたを創り出し、これからのあなたの人生は惰性なことが続いていく。

思考することにエネルギーを使う練習をすることで、色んなことが見えてきて、面倒なことはそんなに続かないことを知るだろう。

生み出すことに苦しみを感じることがあったとしても、その生み出したことから受ける恩恵は苦しみを超えたかけがえのないこととなる。

そして、苦しみすら愉しめるようになる。
それは負荷が掛かることに対して、快楽(欲求)が満たされるということではなく、それだけ色んな視点が、視野が、思考が発達するということ。
発達することで、可能性が広がる、選択肢が増える。

是非、少しずつでもいいので、色んな視点でモノゴトを見てみると気がつくことがあると思う。