在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

それはエゴと言うんですよ

後述する件について前から違和感があったこと。


【あくまで、私の所感に過ぎず、それに対する意見など一切お断り致します】

 

他人に助言や自分の考え、価値観などを話すときに、何故、その話す相手の言っていることや考え、価値観などを否定した後に話すのだろうか?

 

自分が言われる側であれば、どう話せばいいかというのが見えてくるのではないだろうか。
自分の考えや価値観などを否定された後に、言われても全くもって内容は入ってこないのではないだろうか。

 

まず相手に話すことが、相手にとって本当に自分の考えや価値観などが、良いことかもわからないのではないか。
特に人の考えや価値観というのは、その人が生きてきた年数分だけ作り込まれている。
その作り込まれたことに対して、意見を言うことがどういうことかを認識しているのか。
ただ、良かれと思ってなどと軽はずみな思いであれば、言うのをやめた方がいい。

 

相手にとって、その話し自体がどういう部分なのか把握していない場合、必ずと言っていいほど事故を起こす。
手術や診断に例えると、間違った部分を手術しようとしたり、誤った薬を出したりすることと同じだ。

 

手術であれば、ここを切っていいのか、切る前にしておくことはないかなど、確認しておく必要がある。

 

そう言ったことを考えた上で、相手が求めていないにも関わらず話しをする場合は、相手が受け取りやすいように話すことが大切である。
【受け取りやすいように話す】ということは、甘えているなどと言う人がいるが、その関係性にもよる。


だが、受け取れないもしくは拒否になるのであれば、無駄なことになる。

 

相手にとって受け取りにくい(言われて嫌なことや腹が立つことなど)かも知れないと感じるときは、包んでいったり、遠回りに言うか、受け入れる態勢を作ること。
それが話す側の相手に対する思いやりだろう。

 

また受け取りにくい話しをしたならば、最後まで付き合わないといけない。
ただ、闇雲に言って『はい、終わり』では、そういう話しをする意味がない。

だから、大人になると色々と言わなくなるのだろう。


人に言われて受け取りにくい話しというのは、本来ならば自分で気がつき、変えていくなり、何なりしたりする必要があることが多い。

そういうことをわかった上で、相手に対して『あーだ、こーだ』言えばいい。

それ以外は、自分の欲求を満たすためのエゴでしかない。

 

甘えているかも知れないが、伝わらないことや無意味なことをして、それをした本人は気持ちがいいかも知れないが、その相手とはいい関係は築けないだろう。

 

それが愛というもんだ。