在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

難易度の高いこと

人間関係というのは、非常に難しいものだなと感じる今日この頃。

 

人の悩みは人間関係の中にしか存在しないと言っても過言ではないぐらい人間関係というのは容易なことではないのだ。

 

自分の思いと相手の思い、自分が伝えたいことと相手に伝わること、自分を育んだ土壌(背景)と相手が育まれた土壌(背景)など、相手と全てにおいて一致することはない。

 

だから、相手のことを考えることが必要になってくるが相手のことばかり考えていると自分を見失ってしまうことになりかねない。

 

前にも書いたかもしれないが、人が人に何かを伝える手段として、話すことや書くこと、表情や声、身振り手振りなどを取っているが、どれも100%損失なしで伝わることはない。

【ほとんど伝わっていない】と思うぐらいでちょうどいい。


そのために、相手にどう伝わっているのか確認してみるのもいい方法。
ただ毎回確認してもいられないので、自分の中で【およそ相手はこういう事を言いたいのだろう】という形で物事が進むため、ボタンのかけ違いが発生していても発見が遅くなる。

発見が遅いということは、それだけ欠落した情報が相手に伝わっていて、それによる被害は早い時より大きい。
災害などと同じだ。

 

やり取りをしていて、何か伝わらないなーと思うことや、何か違う形で返ってくるんだけど、どうすればいいのかわからない場合がある。
特に相手から正論と言われる形で返されると、正論に対する返しは容易ではない。

正論は正論でしかない。


やり取りの中でそれが必要なのか疑問に残る。
またそれに執着されると、もう話す気も失せる。

言わば、刃物で切りつけられた感じ。
また正論は武装でもあるので、とりつくしまがない。

 

そしてコミュニケーションの遮断に繋がっていく。

 

コミュニケーションにおいて、大切なのは正論ではなくお互いのことを理解しようとすること。


他人を理解することはないのだが、わかりやすく例えると、怪我した人が居て、『痛い』と言っているとしよう。
その【痛み】を想像したり、経験から思い起こすことが出来たとしても、その人と同じ【痛み】を経験することはない。

 

関わるとなると、まずどう痛いのかを知り、その人が痛みを取り除くことを望むのであれば、その方法を探し、処置することになる。
相手が何を求めているのかを知ることは大切だ。

求めているのであれば、与えることになるが、必ずとはならない。
与えられない場合もある。
だが、求めていることに対して応えることはできる。

お互いに応え合うことで、相互理解に繋がっていく。


コミュニケーションとは、そういうことだ。

 

はっきり言いにくいこともあるので、言わないでおくとか行動で示そうとするが、一番いいのは、しっかりと面と向かって話すことが大切なのだ。

 

それは相手の思っていること、感じていることなどが瞬時にわかるようなテレパシーなどがあればいいが、あいにくそのような機能は使われていない。
話すこと、表情、声、身振り手振りなどを使うしかない。

文章はその全てがない。
相手のことがよく分かりにくい。

 

だが、その手段が便利で楽であるから、使われることが多い。
ブログにしてもそうだ。

 

あなたがこのブログを見て【どう思うか】【何を感じるか】などを私は決められない。
私の意図とすることと違う捉え方をすることもあるだろう。
それは仕方ないことである。

都合のいいように人は解釈する。


そうならないように、その人と関わって、知って見てから判断しても遅くないと思う。

 

人と人が理解し合うにしては、難易度の高い(理解しにくい)手段しか知らない。

 

それを面白いと思うのか、面倒と思うのか。

人は人と関わることで生きている。
さあ、どう取る?