在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

経験のない机上の空論

若いということは、それだけ機会も時間もたくさんあるのだ。

 

歳を取れば、取るほど実感していく。
『もう少し(もっと)若ければー』なんて、たらればなどは一切思わないが、自分より年下の人が話してくると、その無限の可能性の高さを感じる。

 

もちろん、自分自身にも若い頃があった。

 

過去を振り返り、悔いたところで何も変わらない。
そんなことをするより今見えている景色の先の景色を見て、その自分に一歩でも早く近付こうと、【いま、この瞬間】を本気で生きていく。

 

そういうことを見ると、他人の人生と自分の人生を比較するのも、無意味でしかないことに気がつく。

 

他人の人生のすべてを見ることも、体験することもできない。
それはドラマや映画など、創作された作品を見ているように、一部分だけ見ているからだ。
作品に登場する人物の事細かな生活まで、限られた時間の中で表現することは物理的に難しいから、良いように切り取られ、場合によっては脚色されていることもある。

そんなことを思い浮かべる時間より自分の望んでいる生活を明確に思い浮かべ、【いま、足りないこと】が何なのかを見てみる。
(ないもの探しをしているのではなく、明確な望みとの差異を見ること)
機会は訪れることもあるが、創り出していくことやその機会に気がつくことが大切だ。

 

そうやって機会や時機などを拾える感覚(アンテナを張る)を養っていくが、たまに不要なこと(ノイズ)が混じる。
このノイズが混じらないようにするには、集中することが大切。

 

世の中には情報が沢山あふれている。
その情報の中に、自分の人生設計に役立つものはあれど、自分が人生において何を望んでいるかの答えはない。

 

何故なら、情熱とは情報の中にある訳ではなく、自分の中(内側、魂など)から生まれてくることだから。

 

若者に可能性がたくさんあるのは、選択肢も時間もあるから。
だが、情熱を感じることがなければ、選択肢も時間も情熱を得るために使っていることが多い。

 

興味はあるが、先を考えてしまい動けないということもある。

 

はっきり言おう。
『いつかと言う日はない』
どういう選択をしようとも、その結果失敗だとしても、失敗でなくとも全て決められたこと。
若ければ、それだけ修正をかけることができる。
選んで、行い、見て、触れて、感じて、起きたこと全ては経験となる。

 

経験のない机上の空論で、二の足を踏むならば、思いっきり挑んで、打ちのめされた方が、よっぽど経験値が得られる。

 

さあ、挑んで行こう!