在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

みんなすごーい

違和感しかない。

 

就職、労働と言うことに関して、将来お払い箱行き(捨てられる)とわかっているところに対して、何の情熱(時間と能力)を注ぎ込めるのだろうか?

 

「お払い箱行きが分かっていない」もしくは「夢見ている状態」であれば、情熱を注ぎ込み、邁進していくことが出来るのだろう。

 

もちろん、雇われるということは、雇い主に対して貢献をすることになるのだろう。

貢献したことによる報酬はどうなのか?

 

その報酬を決めるのは、雇い主である。

この時点で自分に決定権がないことが明確にわかる。

 

貢献しようが、しまいが報われることがない可能性がある。逆も然り。

その上、報われるための条件もこちらが提案できることはない。

 

色んなことがまとわり付き、自分らしさはどんどん消えていく。

以前、ロールプレイングの話しで役割を演じるという話しをしたが、その役が自分自身を侵す危険性があり、ほとんどは侵されている。

 

雇われている時間以外も、「何の仕事をしているのか」「どんな役職なのか」など、仮面を付けている状態の自分自身を見られることがある。

 

それでも、今はまだそこに属しておく必要がある。

けど、それは所属しなくていい状態に持っていくためでしかない。

 

本来の自分自身を消し去り、本来の自分ではない自分を作り上げていくことに違和感を覚える。

 

よくいう「自分らしさ」「自分らしく」ある方がいいと言うが、雇われる時点でそれらは捨てるか、奥に仕舞い込むしかない。

 

こういった(細かいところかも知れないが)ことに、気が付くことは重要だ。

 

雇う側は良いようにいうが、将来はお払い箱行きが決まっている。

もちろん退職金というまとまったものは得られるかも知れないが、それが確約されているわけでもない。

選択肢、決定権がないことに、本来の自分自身を変えつつ、本当にしたいこと、なりたいことを諦め、情熱を注ぎ込めるのが凄い。