輝かせる
感謝という言葉は、日本語で言う【ありがとう】、【有り難い】と少し違うらしいのだが、概ね【ありがとう】、【有り難い】ということの認識で良いと思う。
人に何かをしてもらうことに対して、対価を払う。
対価を払えば、それなりの何かを得る。
そこに感謝の気持ちは要らないのだろうか?
それが当たり前になっていないだろうか?
もちろん、何かを提供してもらっていることに対して、対価を払っているので問題ない。
だが、それだけでなく、そのことに関して、感謝の意を伝えることで、そのことを伝えられた人は嬉しいと感じる(何とも感じない場合もあり)だろう。
相手に対して感謝を伝えることで、相手の存在を認めることになるのではないだろうか。
私の物語に、あなたという存在が多かれ少なかれ、存在しますということ。
人は人の中で生きるから、人間となる。
ならば、素晴らしき世界を築きたい。
その素晴らしい世界とはどのような世界だろうか?
今の世の中は、人を蔑み、人を蹴落とし、人のせいにして、自分を守ることで精一杯なのだ。
攻撃しなければ、殴られ、ズタボロにされる?
私見だが、『攻撃することで、自責から逃げているだけ』ではないだろうか。
またそのようなことを気付きにくい環境なのだ。
自分の世界に責任を持つのは、重荷だと思っているから。
本当は誰も自分自身を傷つけることはできない。
相手が何を言おうとも、それを食らったと認識して自分が自分を傷つけるのだ。
とは言え…という世界になっている。
堂々巡りで、それをどうこうしようとするのには、あまりにも大変で難しいことである。
ただ、絶対と言えることが一つある。
私たち(地球全て)の存在は【奇跡】だということ。
私たちが存在する確率は天文学的数字だ。
そんな私たちが出会い、そこで起こる全てのことも奇跡である。
この奇跡的なことは在るべくして在るのだが、有ることは難しいことなのだ。
有り難いとしか言いようがないだろう。
どんな出来事も、どんな存在も、全てが贈り物として受け取ってみると、素晴らしいと感じるよう瞬間がやってくる。
・・・贈り物として受け取りたくもないこともある。
それは自分が贈られてきた物事に対して、二元論で受け取ろうとするからだ。
自分がどう取ろうが、誰にも関係ない。
関係ないが、関わりの中で相手から提供されることを受け取るに当たって、受け取り方次第で相手との関わり合いに変化が生じる・・・
その瞬間の連続が日々となり、日々は年月となり、自分自身という人間を形作っていく。
素晴らしいと感じる世界で生きていきたいのか、そうでない世界で生きていくのか、その選択肢は常に自分にある。
感謝できないことも、奇跡なんて知らないと言いたいこともたくさんあるだろう。
だが、贈り物は常に望んでいなくても、周りに溢れている。
我々が奇跡の存在であるように、そこに在るモノ・コト全てが奇跡である。
世界は既にあり、その世界全てを変えるには、大きな力が必要になる。
だが、自分が生きている世界に在る無数の奇跡を有り難く受け取ることで、人生は輝くのではないだろうか。
そう。私たちは奇跡の存在であり、私たちの周り全てのこともまた奇跡である。
そしてそれだけではなく、私たちには選択肢(決定権)が与えられている。