在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

構造を理解する

至極、当然のことながら、この社会は資本主義社会なので、ビジネスや商売が至る所にある。

 

そのことを再認識したのは、友人とサッカーの話しになったとき。

ワールドカップ目前の監督解任は、日本のスポンサー及び協会がタレント選手を起用しないと儲けにならない、もしくはワールドカップで儲ける目標額に到達しないからだろう。

 

だが、最近の顧客のニーズは違っていたのだろう。

 

ファンから協会に対する批判の声が多くなっているそうだ。

 

ビジネスの形態が変わってきている。

以前のような作れば売れるというビジネスから、顧客のニーズに合わせたものを提供しないと売れないというビジネス。

※ちなみに、厳密に言うとビジネスと商売は違う。

 

協会やスポンサーは、それを見誤った。

 

サッカーというスポーツが複雑化しているため、楽しみ方がわからないファンだったが、やはり勝負の世界で勝っているところを見たいと思う気持ちの方が正しかった。

ファンはタレント選手が出ることも期待していたが、それは勝つことが前提にあってのこと。

負けるのでは意味がないのだ。

前監督はお金抜きで、ワールドカップで勝ちに行こうとしていた。

またどの辺りまで勝てるのかまで明確に見えた上での、最善かつ最大限の采配をしようとしていた。

全てを監督に任せ、金を出すほうは口を慎めばいいものを、金を出しているのだから、口も出していいだろうと出した結果だった。

 

餅は餅屋に任せればいい。

日本の悪いところだと思う。

 

そのような考えでは通じなくなっている社会になったということを、認識していない。

やはり現場にいない人たちは、自分たちが時代を作っていけると思っているのだろう。

 

この話しから社会の見方や世界の見方が変わってきている自分に気が付いた。

何か、面白くないのだ。

与えられることが面白くなく、予測できない出来事や与えるほうが面白いと感じてきている。

 

ようやく人生を愉しみ出したのだ。

様々なことの分別や理解が出来るようになった、今だからこそ愉しめる。

 

構造を理解することで、次の構造を見ることができる。

構造を理解する上で何点か重要なことがある。

・素直である

・既成概念を捨てる

この二点を根底、根本に持つことで、構造の理解が進んでいく。

 

そして、その受け取ったことを『否定』してみること。

肯定と否定をしていくうちに、物事の本質なるものが少しばかり見えてくる。

 

資本主義社会にあることは、ヒエラルヒーと言われる階層。

どこまで階層を上がっていけるのだろうか?

ある程度までしか上がれず、その上に行こうとすると層が違うので今までと同じであると上がれないのである。

 

だいたいはその地点で、落ち着いてしまう。

それ以上にいけないこと、それまでの方法とは違うから。

その時に、今まで歩んできた道を見直してみることが大切である。

構造を理解した上で、再度登りなおすことになる。

もちろん、途中で気が付き、登りなおすこともできる。

 

その時に重要なことが

・新しい環境

である。

 

その新しい環境を手にいれるにはどうするのか。

そうやって色んなことを再構築していくために、構造を理解する必要がある。

 

今、時代は大きく変わろうとしている。

構造を理解する機会を持ってみると良い。

 

『狂え』という先生

ひょんなことから、吉田松陰先生の書籍を読むことになった。

 

吉田松陰先生のことは、各人で調べて頂くとして。

今まで、何故読んでいなかったのか?

名前は知っているものの、どんな人物でどんなことをした人なのかなど、ほとんど知らなかった。

 

だが、今の私に必要なので、出会ったのだろう。

その吉田松陰先生の名言である

 

『諸君、狂いたまえ』

 

の言葉が一番好きである。

この一言の意は中々、解りづらいものだ。

『諸君』というのは、吉田松陰先生の書籍やその文を目にした者に対して言っているのは解る。

 

問題は『狂いたまえ』だ。

もう少し噛み砕くと、『狂いなさい』と言っている。

『狂え』と。

 

どう『狂う』のか? 何に『狂う』のか?

そして、『狂ってる』状態とはどういう状態なのか?

ということが大切なのだ。

 

今までそんなことを考えたことはない。

と言うのが私の答え。

そして、今は何に、どう『狂い』、その状態であるのか?ということの答えを導き出した。

 

その答えを導き出すには、吉田松陰先生の書籍を読み、吉田松陰先生が生きた時代背景を想像してみるとわかってくる。

 

答えを導き出したからこそ、『狂った』者勝ちというのもわかる。

他人からしてみれば、『え?』って思うこともやってのける。

その言動が『狂っている』ように感じるのだ。

 

思えば、私がOSHOタロットを使っていた時にあった『愚者』のカードと同じだ。

自分自身だけを信じていて、他人がどうこう言おうが、その言動がその人に取っていい状態なのだ。

ただ人を傷つけることや、人を蔑むことなどはしない。

信念を貫いているからこそ、愚かな人と見られがちである。

 

本当はそのような状態が一番いい。

他人の顔色を伺い、他人の言葉を気にして、利己的な言動をし、見返りを得られないことはしないなんて、、つまらない人生であり、それで幸せというのなら、もうどうしようもない。

 

自分の人生、そう生きることに対して、覚悟をした人は『狂って』いくのだろう。

そうやって人生を歩んでいくことができるのか?

磨き続けることができるのか?

 

大抵は環境に影響されて、志を忘れてしまう。

環境>…だから。

狂える環境を持ち、そこに身を置けることが重要になってくる。

 

世の中の成功者と言われる人、偉業を成し遂げた人達は、皆『狂っている』。

周りから『そんなことはできない、無理だ』と言われたことでも、自分だけはできると信じて、無理だと諦めずやり続けた結果、成功であったり、偉業であったりを成し遂げることができる。

その心持ちが常人と違うから『狂っている』のだ。

 

誰しも自分は、そんな偉業を成し遂げることなんてできない、成功するなんて、、、と思っている人が多いのではないだろうか?

そんな時に『狂いたまえ』と言われても、訳がわからない。

 

そりゃそうだ。

環境もなければ、そういうことを学ぶ機会があることすら気がつかない。

機会はどこにでもあるのだが、受信するアンテナが低いか、向きが違うか、拾える周波数帯が狭いか、拾える周波数帯が違うからだ。

環境に関しては探すしかない。

 

環境を探すにはアンテナを高くする、向きを変える、拾える周波数帯を拡げるなどをして、掴みにいく。

そのための方法を過去に記している。

 

変えるのは一瞬で変えられる。

それを継続するのが難しいのだ。

せっかく、変えたのだから継続して『狂って』しまえばいい。

『狂い』続ければいい。

 

実はそれが正しかったりするから。

どうぞ、お構いなく

勇気がないから、自信がないから、周りからどう見られるのか気にしているから…

 

勇気って何だろう?

恐れない心だろう。

何に恐れている?

それは本当に恐ることなのか?

 

恐れは何も知らないこと、知らないから予想も予測もできない=無知と言える。

だが自分が知らないということを認識していないことが多い。

 

そして『知らないから教えて』と言えない。

もちろん、自分が知らないことを、知らないことや認識していないからということもあるが、知らないことを聞くことは悪いことでも、恥ずかしいことでもないのに、知らないことに対する負の認識がそれを阻む。

また誰でも彼でも、教えてくれるわけではない。

 

自分で経験して初めて気が付くこともある。

そうでないと分からないこともある。

新しい体験をするとき、新しい知識を得るときに恐がることはない。

 

今、この瞬間それを知ったことを喜ぼう。

知らなかった結果から、知ることが出来る。

だから人は成長する。

 

成長は変化。

変化は自分が思い描くように変化できる(不可能なこともあるだろうが)。

そのことについて、どれだけ意識しているのだろうか。

(恒例の『意識』しているかという台詞)。

勇気という言葉一つをここまで咀嚼すれば、少しは感じるだろうか。

勇気≒知ることに喜びを覚えること。

 

自信って何だろう?

自分を信じること。

自ら、人に言うことなのかも。

 

信じるって何だろう?

そう思っていること。

思い続けていること。

認識し(続け)ていること。

自分という存在をどう認識しているのか?

人には、四つの窓があるそうだ。

『自分が知っている自分』、『他人が知っている自分』、『自分も他人も知っている自分』、『誰も知らない自分』がある。

どの自分も自分なのだから、全て自分ということを認識してしまう。

自分は自分である。

その自分と一生涯一緒にいるのだから、まず好きになる。

嫌いな自分がいることに気が付いて、その自分を認めてあげること。

そこから、好きな自分になっていくだけ。

好き嫌いの両方を認識すると、それは愛なのだ。

認めるということは愛の一つ。

愛という言葉は、本当に様々なことを総称していっている。

愛については割愛する。

自信とは、自分に対する愛。

 

言葉の一つに、多くの意味が含まれている。

この言葉はこのことだけを指していると言うこともあるが、それ以外も指すことがあるので、一言で伝わることは稀である。

互いに認識し合うことにズレが生じるので、さまざまな言葉を使う。

 

【愛】という言葉は、その一つであろう。

 

さて、勇気と自信について書いてきた。

最後の『周りにどう見られるのか気にしている』ことについてだが。

 

そのことについては、一言で終わらせられる。

むしろ、次の一言以外のことはない。

 

『どうぞ、お構いなく』である。

他人なんてどうでもいい。

どう見られるのかは、どう言う自分で在りたいのかだけをしっかりやっていくだけ。

それに対して他人が何を言おうとも、『どうぞ、お構いなく』なのである。

自分の人生なんだから、自分が決めて、自分が行動して、自分が責任を持つ。

それだけでなく、決して他人を蔑むこともなく、貶めることもなく、愛を持って接していく。

そういう生き方なのだ。

 

実は、この『どうぞ、お構いなく』という言葉には、自信も勇気も入っている。

いい言葉を持つということは、人生を豊かにしていく一歩になろう。

 

試みること

多角的な思考は、自分が考えてきた思考よりたくさんある。

それらを知ることで、より豊かになっていくだろう。

 

どういう予定を立て、起こる出来事を捉えて、どう動くか。

そして、動いた結果、何が起きたのか。

 

予定とは違う結果が出たのであれば、予定に到達していないだけ。

何かが違っただけ。

 

それに対して、再度試みる。

 

予定は変えない。

その予定までの最短距離、最適な方法がある。

既になっている自分と認識する。

 

認識すれば、意識に入り、意識し続けることで、無意識になる。

ただそれを最短かつ確実にできるようになるまで、試行錯誤する。

 

常に今ある自分を否定し続け、変わろうと試みている自分を、その自分だけを認め続ける。

人生はただただ過ぎていく時間ではない。

様々なことを味わえるのに、味わないなんて。

 

味わうからこそ、人生に深みという味のある人になり、自分が理想とする自分で在り続けようとするから、理想の自分になっていく。

その理想の自分にまだなっていないから、実感しないだけで。

 

どうすればいいのかは、思い付いたことをひたすらやっていくだけ。

 

心眼

人は何かを見るときに、自分の中にある様々なことを含めて、それらを見ている。

またその相手を見て、判断することがある。

事実は、その時点で事実ではなくなる。

 

事実だけを見る力があるのか。

本物を見極める力があるのか。

 

目の前にあることは、ただあるだけ。

そこに自分のフィルタを通して見てしまうと、本当のところは見えない。

 

フィルタを外すことは、事実のみを受け入れることになる。

認めたくないこともあるだろう。

知らないでいたほうが良いこともあるだろう。

 

だが、知ることは自分の糧になり、時には道となる。

知ることで変わってしまうことに恐れを抱くからこそ、人は真実を知ろうとしない。

 

それがどういう状態なのかと言うと、騙している状態なのだ。

感情を抜きに、変わってしまうかも知れないことを恐れず、事実を見た時に、大きく飛躍して行く。

 

小さな殻に閉じこもるのも構わないが、何のために生きているのだろうか?

知らない世界に目を向けてみるといい。

新しい冒険が始まる。

 

世界は広いと知っているというが、それを肌で感じたことはないだろう。

地球という世界ではなく、地球上にいる人たちが作り出している世界が本当に広く、見上げても見えないところに住んでいる人たちや自分の周りにどのような人が居るのか、本当に友だちなのかなど、知らないことばかりである。

知らないことは恥ではない。

知らないことを知らないといい、教えて欲しいと頼んでみる。

もちろん、自分で調べることも大切ではあるが、知らないということを自覚することが大切である。

 

その背にある翼を使って、世界を羽ばたいて見ればいい。

未だに

自分に対して本気で向き合ったことがあるだろうか?

自分の人生に対して、本気で向き合ったことがあるだろうか?

 

ただ何となく周りが、一般の大多数がそうだからという理由で、そうだと思ったことはないだろうか?

 

疑うことを止めてしまった人は、もう人ではない。

夢や希望を諦めてしまった人は、もう人ではない。

 

信じるのは、自分自身のことを信じるだけ。

周りの声や環境なんて疑ってかかって丁度いいぐらい。

 

無理だと思う前に、それらを叶える手段がないかと必死で探すこと。

もちろん可能なことと不可能なことはあるけれど、不可能が可能になる手段を探しただろうか?

 

自分の人生に対して本気で向き合ったときに、見えることがある。

知ることがある。

 

向き合うと、今の自分自身に対して嫌悪感が生まれ、その嫌悪感を消すために向き合うことを止めてしまう。

それでは今までと何も変わらない。

 

今までやってきたことのないことをやろうとするから、大変であって。

大変だからこそ、大きく変わるのだ。

変わることに恐れを抱かず、やってきたことのないことをやることから逃げない。

 

諦めず、小さくてもいいから一歩、二歩と前に足を出す。

その為に必要なことは、信じることであったり、有り難いと思うことであったり、夢や希望を持ち、それらを叶えるという気持ちである。

 

周りはそれを見ている。

周りは必ず馬鹿にしたり、笑ったりする。

 

【だから何なんだ?】

 

『俺の人生に裏切らず最後の最後までついてきてくれるのは自分』

そんなような歌を歌った人を知っている。

周りがどれだけ言おうが、周りが自分の人生を生きるわけではない。

自分の人生を生きるのは、自分以外誰もいない。

 

馬鹿にされても、笑われても、続けていけば変わってくる。

その変わってきたときに周りはようやく気が付く。

 

『あいつ最近、スゲーらしいぞ』などと抽象的に言う。

人はいつだって、自分を見ている。

人に接することで、自分自身を見ることができるのは、自分自身が人にしてきたことが全て返ってくるから。

 

そういうルールなんだ。

 

魂と言う非物質的な存在があるとすれば、魂は自分を選んで生まれてきている。

もしかしたら、全ての出来事を決めているのかも知れないし、ゴールだけを決めてきているかも知れない。

それらの情報は生まれてきたときに忘れるように設定してある。

いくつかのルールが設けられているゲームなのだ。

 

そのルールさえ、忘れてしまっているのだ。

それらを教えることすら、なくしてしまった。

 

ルールを知らない人たちは、別に作られたルールに基づいて生きていく。

そのルールを作ったのが誰なのか、何故作られているのかも気が付かずに。

 

大多数は間違ったルールで生活している。

正しいルールに則り生きていこうとすると、周りから誹謗中傷を浴びることになる。

それは間違ったルールでの違反だから。

 

正しいルールに則っていくと間違ったルールに従わなくとも問題ないことに気が付く。

気が付くのは自分自身だけなので、周りから誹謗中傷の声を聞くことになる。

だが、正しいルールに則っていれば、そんな周りの声は聞こえなくなる。

 

ただその気付きを継続するのは容易ではない。

容易にするために、環境設定が必要になってくる。

 

意志より環境の方が影響が大きいのだ。

その環境を探すことも大切になってくる。

 

求めよ、さらば与えらん。

 

人に求めるのではなく、自分自身に求めるのだ。

必要なことしかおきていないようになっていく。

 

向き合う価値は大いにある。

全てのことに対して

かれこれ三週間前の日曜日の夜、その異変に気が付いた。

『あ、これヤバいかも…』

その夜は、予定がありいつもより遅かった。

倒れるように寝たものの、マシになるどころか酷くなっていった。

 

私の身体を蝕むそれが何かは病院に行かなかったことで不明のまま。

何となく察しは付いているが、いちいち病院に行ってそれを確認して、薬を処方されても、結局自分の中にある免疫力がそれと闘うだけだと思い、十分な栄養と十分な睡眠を与えてあげることにした。

 

栄養は与えることができたものの、睡眠を十分に与えてやることをしなかったためか、闘いは今なお続いている。

 

身体が不調だと、本当にパフォーマンス(能力)が落ちることを実感する。

どのような条件かわからぬが、頭痛を催すときがくる。

 

流石に、どうしてもという場合に鎮痛剤を飲むが、結局ごまかしているに過ぎない。

 

 

頭痛があるときは、脳が成長しようとしているときによくあるのだが、こればっかりはそうでもないことがわかる。

 

自分の身体のことは自分の身体に聞けば、よく分かる。

誰かが『病院は病気の名前を付けるところ』と言っていたが、ほんとそれ。

 

頭痛のせいで頭の働きが悪くなっているが、頭を使うことがたくさんある。

意識をしたいことがたくさんある。

現状で、それらを何とかこなせるなら、万全になったらと思うと俄然やる気が出てくる。

ただ痛みがそれを阻害してくる。

 

人間は脳の3%ぐらいしか使っていないというが、それが1%でも0.1%でも増えるのなら、今の状況を快く受け入れる。

と、思って受け入れている。

 

自分に起こること全てが偶然ではなく、必然だと受け入れる。

意味のないことかも知れないが、そこに意味を見出すことで道となる。

起こることにどう選択して反応するのか。

 

この選択に自分のせい(責任)ということを加えるだけで、人生が自分のものになる。

思い通りになっていく。

思い通りの人生を生きてはいけない、送ってはいけないと決めたのは誰か?

 

親か?社会か?

否、自分自身だ。

 

思い通りに生きていこうと決めた時から、思い通りになっていく。

ただ、すぐにとは行かない場合が多い。

少しずつ思いが通っていくのだ。

硬い岩盤に水を流すと少しずつ浸み込み、岩盤を通り抜けて水は流れて行く。

水を流し続けると、岩盤に穴が空き、水が通りやすくなっていく。

 

思い通りというのはそういうことだ。

水を流す行為が自分のせいということ。

自分が水を流していることを認識してこそ、水は流れていく。

天から降ってくる雨でもいいが、それは自分の意志で水を流していない。

自分の意志で水を流してこそ、道ができ、通っていくのだろう。

 

頭痛一つをそう捉えて見ると、強ち悪いものでもない。

全てのことに対して有り難いと思えた今日一日。

 

これからも『全てのことに対して有り難い』と感じる日々を過ごすように意識して行く。

さて、思い通りの人生を歩みだしたぞ。