在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

特大な贈り物

このブログに書いていることは基本的に実体験を元にしている。

書いたように自分自身も実行している。

 

早速、【全て】から贈り物があった。

その贈り物は自分の一番苦手とすることを克服するための贈り物である。

 

その贈り物を受け取ったのち、『やらない』ことを選択できるが、『やらない』という選択は、逃げることになり目標、目的地から大きく外れることが予想できる。

 

『今、自分の眼の前に起こること全てが必要であり、重要である』から。

 

ただ自分自身に、大きな贈り物が届くとは思ってもいなかったため、拒みたくもなったが、拒否権すらなかった。

そういうこともある。

 

『口は●●のもと』というぐらい、言葉に出して言うことだけでなく、アタマで思い描くことも実現しやすくなっていると感じる。

 

何かと色々なことに気をつけることが大切な時期なのかも知れない。

 

使い方を知る

先日、占いについて書いた。

 

占いの使い方を間違えている人が多い。

宗教もそう。

 

何で、そうなのか本当のところはわからないが、おそらく『自分の人生は自分次第』、『自分で創り出していくことができる』ということを知らないからだろう。

 

この『自分次第』、『創り出せる』ことが基盤にあってこそ、占いの成果は発揮される。

 

某映画で主人公が預言者に会い、「自分は救世主か」と尋ねるが、預言者は答えを出さない。

そして、主人公が言った言葉から残念だけど…と言う。

この預言者と主人公のやり取りは、映画の世界の話しだけではない。

 

預言だろうが、占いだろうが、啓示だろうが、自分自身が決めていることである。

起きたことに対して、自分が反応し、選択する。

選択したことから、最適なことが起きる。

その起きることに関しては、自分にとって重要であり、必要であることが起きる。

 

それをずっと繰り返しているだけ。

創り出すとは、その反応と選択から導き出されることを操作することだと言える。

 

目標、目的地を決めることで、そこにたどり着く道筋ができる。

ただ、その道筋は薄く気付きにくい。

その道を歩いて行くには、想像して意識化から無意識に伝え、無意識に認識させること。

 

無意識は目的地や目標に向かって進むためのありとあらゆるモノゴトを【全て】(宇宙であったり、神であったり、様々な表現がある)に要求し、【全て】は判断せずに贈ってくれる。

 

それを与えられたことへ有り難く受け取る。

それに反応して、選択して、想い描くことに進んでいくことができる。

 

どんなことだろうが、贈られてくるモノゴトは自分が望んだことなのだ。

また望んだこと以上のモノゴトを贈ってくれる。

贈られてきたモノゴトに対して、不平不満を言うというのは、天に向かって唾を吐くことと同じなのだ。

有り難く受け取り、選択すればいいだけ。

 

占いはその進むべき道に灯りを灯してくれるものだ。

訪れる多くの選択肢の中の一本の道筋を照らしてくれる。

だから、その一本の道から逸れれば、占いは当たらなくなる。

 

そもそも、当たるのか、当たらないのかの話しではない。

宗教に関しても、道筋や心の持ちようや選択肢の選び方など、生きていく上でのヒントでしかない。

だが人は自分が自由であることに対して、不安になるのだろう。

何故なら、そのような生き方を学校でも家でも教えてくれないからだ。

 

心弱いからこそ自分ではない、何かに頼り、何かにすがり、何かを信じて、生きることを選んでしまう。

 

それが悪いとは言わないし、思いもしない。

それでいいのであれば、それでいいのだ。

 

ただ何かのご縁で、今ココに存在している。

細かな決まりはない。

『望んだことを【全て】が与えてくれる』

『起きたことに対して、反応と選択ができる』

『自分の未来、世界は自分が創り出すことができる』

 

おそらく、このような単純な決まりしかない。

あとは自由なのだ。

過ぎ去ったことは、全てはじめから決まっていたことなのだ。

 

変えられるのは、未来ではなく『今、ココ』だけなのだ。

問題×問題=XXX

何においても『問題(改善点など)』は付き物である。

 

その中でも、深刻な問題がある。

例えば、少子高齢化、温暖化、格差社会、貧困社会などなど、数え切れないほどたくさんの問題がある。

 

問題を解決するには色んな方法がある。

その中で問題に対して、別の問題を掛け合わせることで解決に導くことがある。

 

問題×問題=大問題とはならないことが多い。

それぞれの枠の中で問題を解決するには、どうしても解決しようがないこともあるが、そこに別の問題を合わせることで、お互いの問題点とお互いの良いところを掛け合わせる垣根を超えたやり方だ。

 

そういう垣根を超えた融合(クロスオーバー)は、二つの問題を解決するだけでなく、新たな試みができることもある。

 

問題は解決できるから発生する

もちろん問題として認識するのかなどの根本的なこともあるが、基本的に問題と感じていることは解決する。

解決しないのであれば、それは問題ではなく結果だろう。

 

そんな問題なのだが、個人(だけに限らず)において言うと問題は成長する機会である。

個人の人間関係の問題に関しては、問題と認識して感じるかどうかはあるが、問題と感じているのであれば、実は自分一人の問題だけであるとは限らない。

この相手だから問題となる場合は、お互いに問題なのだ。

それを業(カルマ)という。

 

だからと言って、相手が何もしてくれないから解決しないとはならない。

自分で問題を解決するようにすることが成長に繋がる。

 

では、どうすれば良いのか。

どうすれば問題は解決するのだろうか。

もしくは問題として残ったとしても、変化があり、問題の規模が小さくなるのか。

 

それは『自分はどう在りたいのか』、『在りたい自分になって向き合う』ことで解決になっていく。

 

在りたい自分がわからないなどがあるかも知れないので、在りたい自分を見つける方法がある。

それは、その相手(以外も)とどういう風に付き合いたいのかを想像する。

想像したら、どうすればそうなるのかを考える。

考えるときは、相手の立場に立って考えるのだ。

こう言われたら、こう反応するかな?

こういうことすると、こうなるのかな?

 

そう考えて、実行してもそうならない場合が多いが、その考え出す答えを沢山作る。

どうすればいいのか。

相手としてはどうするのだろうかと考えて動く。

 

他者も、自分も人である。

例え、育ってきた環境が違えど、例え、性別、文化などが違っていたとしても、人であることは変わらない。

通じないこともあるだろうが、通じることの方が多い。

 

相手を何とかするのではない。

相手が気持ちいい、嬉しい、楽しいなど、相手に何を与えられるのかを考えて行動すれば、自ずといい結果になり、自分自身が変わっていく。

 

自分の生きている世界は自分が創り出している。

自分の生きている世界は自分が変わることで変わっていく。

 

そういうものなのだ。

 

問題が起きた時、それは何かの機会である。

成長できる機会であったり、飛躍する機会であったり、変化するためのきっかけでしかない。

変化したいとココロ(魂)が訴えているからこそ、その問題は起きる。

 

喜んで、その問題に取り組もう。

仕切り直し

何気なく聞いただけ

 

真剣に応えてくれるとは思っても居なかった

 

比較されるのは仕方のないことで、その比較と同じにはなれないし、ならないが、学ぶところはたくさんある

 

自分に足りないこと

人に聞いて、人から言われて、気付くこともある

 

『丁寧さ』

 

そして『コミニュケーション』

 

そのコミニュケーションに必要なのは、母国語だけではなく、世界共通語となりつつある英語

 

その英語が少し話せるだけで、大きく変わってくるのだろう

 

やるしかないのだ

 

あれも、これも、どれも分散してできないではない

それぞれが独立していることではないから

 

あれも、これも、どれも少しずつやっていく

 

それを感じた日

 

技術面が大きいけれど、その土台にあるのは挫けないココロ

 

打たれ強く、しなやかに

 

明確に見えたこと

 

その先をどう想像しているのか、そのことを考える時間も必要

 

自分の中で反芻できるように

目的地は合っているのか?

そこに向かっているのか?

今、何が必要なのか?

今、何ができるのか?

 

自分の中にあること

自分の周りのこと、環境

現在地を知り、目的地との距離を測りなおす

 

飛躍、思ってもいないところに飛んでいく

思ってもいないところは皆目検討付かずのところではなく、たどり着いた目的地が想像以上であるということ

 

一区切りしたから、また新たな旅路をゆく

人生の天気図

生きることについて、様々な表現をしている。

 

役割演技(ロールプレイングゲーム)や泡爆弾(バブルボムゲーム)だけではないが、どれも完全没入型(フルダイブゲーム)となっている。

要は気づきにくい(もしくは気付かない、気付けない)ことがほとんどである。

 

生きるというゲームの一番難しいところは、目的が明示されていないということ。

もし目的がわかったとして実際、その目的が正しいのかという判断を何を基準にするのかなどで変わってくるなど。

 

だからこそ、存分に愉しめるゲームである。

 

目的は自分で決める(それが正しいのか、間違いなのかは、自分自身がよく知っている)。

目的に向かうにあたり、様々な催しが用意される。

 

そして、目的に向かって進むにあたり、手段も色々と用意されていて、どの手段を使い、どのように進むのかも自分で決める。

 

全て自分次第なのだ。

ただ助言であったり、啓示、預言などはたくさんある。

それも気付くかどうかである。

 

生きることが航海ならば、船に関わること全てが自分自身である。

船には船長を始め、船員たちがいる。

船長一人で航海をするには、船員たちの役割を一人で担う必要がある。

 

目的地にたどり着くためには、地図を見なければいけない。

自分がどこに居て、目的地までどの道がいいのかなどを考える必要がある。

ただ闇雲に進めばいいというものではない。

 

また、航海(以外にもあるが)には天気が大きく関わってくる。

その天候で波の状態が違っていたり、風向きが違っていたり、チカラを入れるところ、チカラを抜くところ(楽をするのではなく、蓄えるためとか休むためとか)が必要になってくる。

 

その天候は色んな啓示から読み取れる。

一番、身近なのは占いだろう。

特に星占いと言われる星読みの占いに関しては、当たるとかどうとかではなく、今の星の位置からどのようなことがあるのかを予測している。

天気予報のようなものだ。

天気予報と言っているが、天気情報に過ぎない。

明日は雲が通過するから、雨が降りますよ(降ることが予測できます)ということなどを数値化しているのが天気予報。

星読みは、星の位置からこのようなことが起きやすいですよと言っている。

ただ数値化はしていない。

 

それ以外にも、たくさん使える啓示はある。

タロットカードやおみくじなど、ある程度、自分が指針を立てるのに使いやすい啓示を使えばいい。

自然で言えば、月の満ち欠けも使える啓示である。

 

自分自身の予感も啓示の一つと見受けられることができる。

 

これらの啓示は、自分が目的地に向かうために張っている(気にしている)情報で、それ以外の情報は基本的に入ってこない。

ただ、油断していると不要な情報を入れてしまう。

情報社会と言われるほど、インターネットが普及して情報が溢れかえっているからである。

 

取捨選択だけでなく、不要な情報を入れないようにすることも大切である。

多くの情報を手に入れることで、多角的に判断できるのだが、その情報を見極めるチカラが必要になってくる。

 

情報を読むチカラ、見極めるチカラ、そこから導く航路、様々なチカラが必要になる。

 

これらのチカラは、即身につくものではない。

情報を読み、見極め、航路を決め、進み、違っていることも多々ある。

そういった間違いが、『これだ!』という答えにたどり着く勘が働くようになってくる。

 

目的地にたどり着くために、船を漕ぐことをしながら、天気を読み、航路を立て、海図を読み、少しずつ進んでいく。

 

大航海時代の船長のように、あの大陸にたどり着くことを夢見て

ノルカソルカ

おそらく、このブログに書いてある記事のほとんどは同じようなことなのだろうが、それは同じことを思い続けているからか、その繰り返しを手離せていないのかも知れない。

 

ただ言えるのは自分自身が体験していないことや見えていないこと、感じられていないことなど憶測でしかないことを言葉にしたくないから実体験に基づいたことが多くなる。

 

という前置きをしておく内容。

 

人と話していて、気の持ちようが違うとか波長が合わないとか、相手との間に何か感じるモヤモヤしたこと。

 

それはお互いの世界(舞台)が違っているから。

 

言語は同じでも、相手の言っていることが伝わったとしても、その微妙ではあるが感じる違和感は、世界が違うことから起こる。

 

海の魚が、川で生きられないように、同じ魚だとしても生きられないのだ。

 

つまり、合わないとなる。

 

ただ、そういう時こそ、好機であることは間違いないと言えよう。

もちろん、先見の目を持って危険予知をすることは大切ではあるが、目の前に来ることのほとんどが自分の選んだことで、次に選ぶことで、自分の進みたいところへ行けるのか、また同じところに戻ってくるのか。

分岐点である。

 

『ノルカソルカ』

 

のっても、のらなくても、全て自己責任である。

だが、日々同じような選択をしているクセがあるので、それを選んだとしても必ず別の道に行くわけでもなく、もう戻れないわけでもない。

 

もちろん、もう戻れないこともあるし、急な切り替えになることもある。

 

だが、どちらにしても必要なことしか起きないので、その選択を間違えると繰り返すことになる。

 

 選んだことのない選択肢を選ぶ機会というのは、冒険のようなものなのだ。

知らぬ道を通るので、迷ってしまうかも知れない。

予想以上の何かが襲ってくるかも知れない。

また慣れないことなので、心身共に負荷がかかることは間違いない。

 

だが『ノルカソルカ』なのだ。

 

ノれば、思っているところへ行くかはわからぬ。

しかし、その不安以上に思っているところに近づく大きな一歩になる。

ソれば、いつもの通りに何もなく安心できる。

しかし、その安心は幻想なのかも知れない。

 

『人生は博打』だと思う。

博打と言われるものに、どっぷりハマったこともなければ、全くしたことがないわけではない。

どのような勝負事も、ただ単に賭けているわけではない。

結果は勝ち負けとなるが、負けるためにする勝負はない。

勝つためにどうするのか、色んな情報を仕入れたり、法則を見つけたり、場を読んだり、自分は常に冷静であることであったりする。

とてつもないチカラがその勝負事に寄せられている。

 

人生も同じようなことである。

ただ、勝負事の相手は他人でもなく、機械でもなく、己自身。

 

己に賭け、己が動き、己にとりまく環境、流れなどを変えていく。

 

『ノルカソルカ』はそのようなことなのだ。

 

ノる人が偉いわけでも、ソる人が偉いわけでもない。

どちらにしろ何かを思った時点で、賽は振られているのだから。

過去記事を振り返って

はてな運営さんから1年前に書いた記事を振り返りませんか?

とあったので『情報とは』という記事を読み返してみた。

 

ここ最近、書いたバブルボムゲームに繋がっている記事であった。

 

情報を流すことに関して、人から得た情報は流すなということと、その『情報源(ソース)』は開示するものではないということを書いた。

 

某掲示板で、『情報源(ソース)は?』ということを聞いているのを見たりするが、その情報が信用するに値するのかを見定めるために情報源の開示は必要になる。

だが、そのようなことではなく、その情報を得たことによって不利益を被ることがあったり、得をすることがあったりしたりする場合、情報源を明かすことで、情報源に被害が発生することもあるため、情報源は不明にしておくべきだと思っている。

 

情報源の立場であれば『そこは言うなよ』となり情報を振りまく人には『あなたには情報を提供しない』となる。

 

バブルボムゲームの時は、情報源であったため自分のところで爆発してしまったという話しであるが、その話しの件も情報源を明かしていなければ、爆弾は膨らみまくり、いい形で爆発していたと推測する。

 

情報源を明かされたお陰で、爆発して被害を被ったけど、自分にとってどうでもいいことに関して火を付けないことがいいと体験した。

 

情報とは何かの答えを書いてなかったが、情報とはエネルギーだと思う。

武器だとも思う。

情報が人という形を作っているのかもとも思う。

 

情報社会と言われる世界、ところ狭しと情報が溢れているからこそ、情報の取捨選択、情報の見極めなどの能力は重要で、不必要な情報は持たないことが大切である。