在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

余裕は自分で作る。

下世話な話〜その3〜

 

下世話な話シリーズを作ろうかと思ったが、『下世話な話』という題名もしっくり来ないので、シリーズ化するのであれば『時事から見えること』とかしようと思ったが、
あまり自分自身にとって重要や必要でないことに対して時間やアタマ使うのは無駄なので保留。

 

少し前、タクシーの中で暴れていた人の動画がネットで流れニュースになった。

 

全面的に暴れていた人が悪いとなっているが、本当のところはどうなのだろうか?
乗客が暴れたことは問題ではあるが、それは然るべきところが処罰を与えるだろう。

 

疑問に思ったのは、最初に『運転手が行き先を聞き違えていたこと』と『何故、訳のわからない道を通ったこと』が、引き金になっているのではないかということ。

 

結果、タクシー内で暴れ器物破損、無賃乗車と降りてからも腹の虫が収まらなかったのかケータイを投げつけるなどをした。
タクシー会社は報復とも受け取れる動画の公開をし、問題が浮き彫りになった。

 

『もしも』や『たられば』の話は好きではないが、タクシー運転手(会社)にも落ち度はあるが乗客に対して、行き先を確認したのだろうか?
走り出す前に、この道で行くことを伝えたのだろうか?

 

お客様が酔っていようがいまいが、そう言った杜撰なことをしたことに対する謝罪はないのだろうか?

 

ここで少し考えてもらいたい。

昔のように高度成長期ではなく、またバブルが弾けた後でもない。
作れば売れる時代は過ぎ、物質過多の時代に我々は何に対価を払うのだろうか?

 

インターネットの普及により、情報も大きな変化を遂げた。
またIT化で人件費が削減されていく。
経済の詳しい話しは、またにするとして、顧客が求めるのはサービスと言われる目に見えにくい部分に対して。

 

IT化で受けられるサービスもあるだろうが、人と人の間にあるサービスとは一体なんだろうか?


コミュニケーションではないだろうか。

 

乗り物の中でタクシーは大勢の人を乗せるわけではないことから、顧客との距離が近くなる。
大勢を乗せる乗り物に比べると金額は高いが、時間も行き先も自由である。

 

そこで運転手は乗せてやっている気持ちではいけないだろう。
今まではそれで良かったのかも知れないが、対する人が少人数であれば、距離が近くなるので十分なサービスを提供することが望まれる。

 

それはタクシーの運転手だけではない、大勢の人を乗せる乗り物に対しても、それ以外の仕事に対しても、言えることである。

サービスの中にコミュニケーションが含まれている。

 

【相手の立ち場に立って】物事を考えれば、少しは違っていただろう。
全員にそれが当てはまる訳ではないが、少なくともしないよりはいいだろう。

人はだいたい『気持ちのいい』と感じることに対して、対価を払うだろう。
気持ちよくなりたい人たちが沢山いる。

 

それを無闇やたらと無料でやるから、それすらも対価なくしてもらえると感じるのだ。
諸外国のチップ制は、そういうサービスに対して払うものでちゃんと相場は決まっている。

 

こういった事件の裏側にあるのは、適正な価格や労働時間、それに教育であったり、そもそも余裕がないことが要因であろう。
タクシーの運転手に余裕があれば、乗客に余裕があれば、このようなしょうもないことは発生しないであろう。

 

また今後は増えていくだろう。
格差社会が生み出したことなのかも知れない。
だが、社会や世界のせいにしても何も変わらない。
金銭や時間、心に余裕がなくなる状態であっても、自分自身の態度や考え方などまでも余裕をなくすことはない。

そのために色々と知ることが重要になってくる。


その話はまたいずれ書きたいと思う。

 

書き始めた時期から投稿した時期まで期間が空いていたため、上手くまとめられず、やつっけになってしまった。

本人の問題だけではない

下世話な話 〜その2〜

多くの人が他人に対して、見(興味を持ち)過ぎているように感じるが、そういう(他人から見られる)立場の人も居る。
特にメディアに出ている人たちがそうだろう。

 

『他人の何に興味を持っているのか』ということもあるが、またの機会にする。

 

メディアに出ている時点で人から見られている人となる。
芸能人などは話題になることが重要なので、自ら注目されるようなことをやっていることもあるだろうが、【公人】と呼ばれる立場は、注目されていることを芸能人以上に認識する必要があるのではないだろうか。

 

以前であれば公費の私的流用などがあったが、最近は『不倫』や『セクハラ』、『パワハラ』などのその人の人格を疑いたくなるようなことが目立っている。
どれも人格を疑いたくなるという内容ではあるが、公務上の話ではないだろう。

 

単純にいうと【公人】は選挙に立候補した人を我々が選び、その候補者が当選すれば職務に就く。
『選挙で選ぶ人が居ない』という声もあるが、それはまた別の話。

 

【公人】として自覚しているのであれば、法に触れることや人としてどうかと思うようなことも含めて誠実であろう。
それが【公人】になるということではないだろうか?
【公人】は、我々の血汗である税金をもらって公務に当たっていることを胸に刻んでおいてほしい。

 

それ以外に、選挙に出るために約束していることがあるが、そういったことを全うすること(結果的にできないこともある)や選んでもらった人だけでなく、落選した立候補者やその人を選んだ人たちの分も、働いているという意識が必要であろう。

 

【公人】でない一般人は会社に勤めている。
会社は人々に何かを提供し、対価を得ている。
信用や信頼だけでなく、顧客満足などが提供する側へ向けられている。
顧客は厳しく容赦ない。
提供されるものに対して、満足いかないのであれば顧客にはならない。
(某鉄鋼業者などの不始末はとんでもないことである。)

 

それを【公人】に置き換えるとよく分かる。
一般人で『不倫』や『セクハラ』、『パワハラ』などをしていると会社から社会的制裁を受ける。
また会社がその人のせいで損失を被ることもあるので、かなり厳しい報いが待っている場合もある。

 

【公人】の場とはそういった環境以上のことである。

 

そのようなことをした人は、即公務から外れ二度と【公人】になってはいけないという決まりがあってもよいぐらいではないか。


公務員が緩いと言われるのは、そういったことを隠そうとしたり、仕事を適当にしてももらえる対価が変わらないからではないだろうか。

 

また公務員が偉いなど思わせる(思う)環境も意味がわからない。
役場や役所、地域に関わることをしているところは、住民に対するサービスを提供しているところになる。
民間で言わば住民がお客様だという認識を持つことではないだろうか。

 

もっと責任を持って、職務に当たるべきである。
人としてどうかと疑いたくなるようなことをしている時点で、職務を全うしていないと見なしていい。

 

様々な責任を負うことの認識が欠けている【公人】本人の問題と、それらを許している環境、その環境を作り出している我々にも問題がある。

 

国や地域(都道府県市町)は、そこに住む民が居るからである。
そして、そこに住む民がしっかりすることが重要なのではないか。

本質はどこにある

下世話な話

 

基本的にテレビ、新聞などメディアから情報を手に入れないようにしている。
それはほとんど無駄な情報でしかないから。

 

最近メディアの情報に触れる機会が多くなった。
改めて『知らなくていいな』と思うことばかりなのだが。

 

猟奇的な事件や人としてどうなのかと思うような言動が、取り上げられている。

 

猟奇的な事件に関して、何故【断つ】という選択を若者がしようとするのか。に興味がある。
まだ始まって間もない人生を【自分の意志で終わらせよう】と思う環境があることに注目しているメディアはない。

 

加害者がどんな人物で、何故このような猟奇的な事件を起こすようになったのかや、被害者たちはどんな人物で何故巻き込まれたのかなどの詳細に目を向け過ぎである。

 

もちろん、そのような目の前にあることの方が面白いのだろうが、【何故若者たちがその選択をしようとするのか】の環境を見ないと、SNSで禁止ワードを作ったとしても減りはしないだろう。禁止ワードは、あくまで場当たり的な対処でしかない。

 

根源は生きる楽しさなどを感じる場を提供できていないことではないだろうか。

 

『一緒に…』この記号(キーワード)に含まれるのは、【その選択をしたくない】けど、そうでも言わないと『わかってもらえない、人に受け入れてもらえない、存在として認識されない…』などを心底思っていて、その裏返しでしかない。

 

その気持ちを利用したのが今回の事件である。

 

SNSの禁止ワード、投稿の削除などで何が解決するのだろうか?

 

人は常に孤独を感じている。
感じていない人もいるが、それは孤独ではないという状況を作り出しているから。

 

だが実際は孤独でしかない。

 

孤独ということがよいのか、悪いのかではない。
孤独が悲しい、寂しいという話ではない。
現実的に人は一人(孤独)であるからこそ、群れをなし社会を形成し、その中で生きている。

 

だがその社会の中で孤独感が強くなればなるほど、存在していることを認識できずに、自ら…【選択】したくもなるのだろう。

 

だからその最期ぐらい誰かと分かち合いたいという思いが生じるのだろう。

 

本当に【その選択】を選ぶしかない者は人に言わず、知れずに密やかに閉じる。
まるで、猫が自分の最期を知って姿を隠すように。

 

メディアはそういうことに意識を向けさせず、非現実的なことを面白おかしく演出する。
そういう行動が模倣犯を生み出したり、それ以上の猟奇的な事件を起こしかねない場を作っていることを認識しているのだろうか?

 

今回の事件で、世間が、社会が、国が、取り組まなければならないのは、こうして若者が【選択してはいけない選択】をしている、しようとしている環境を変えることである。

 

これ以上、犠牲を出してはならない。

 

少子化の問題があるが、それに拍車を掛けてしまうと、雪だるま式に【してはいけない選択】をする者が増えていく。

ただそこに在るだけ

おそらく自分が人(世界、社会)に対する思想、言動などが自分の世界を作って行くのだろう。

 

どんな人たちが居て、どんな場所に住み、生活し、どんな空間にしたいかということは、自分の世界に対して己が働きかけていくしかない。

もちろん他の影響もあるのだが、基礎を作っているのは自分自身の思想、言動など。

 

【すべてのモノゴトは、ただそこに在るだけ】

 

自分自身を含めたそれらに意味はなく、それらにどう反応して、何を選択して、どんな意味づけをしているのかだけがある。
もちろん『感じる』という機能が備わっていることから感情がある。
それもどう感じようが、自分次第であるが、どう感じるのかを変えるのは容易ではない。

 

そういうことから感情というものは、厄介な機能だと思う。
そして、この機能(感情)が人ならではの遊びの部分であろう。

 

感情によって選択肢を変えることがあり、感情によって変えたことも多いだろう。

 

感情とは一体…という話しは機会があるときにする。

 

要は、【ただ、そこに存在しているモノ、現れるコト】に対することから、自分の反応、選択次第で【どう見えるか(物理的だけでなく)、どう感じるのか】が、自分の世界である。
そして様々な存在の中で、そういった世界が広がり絡み合っている世界が、認識している世界である。

ただその認識が事実存在しているのかどうかは誰も分からない(この話しは別の機会に)。

 

人に選択するということが、備わっていることがどういうことなのかをしっかりと認識した方がよい。

 

その認識があってこそ、より自分の想い描く世界を作っていけるのだ。

その時…

先約がある時に、目の前に現れた急な機会が現れる。
重要度や長期的に見れば、その現れた機会は大きな分岐点、節目なのかも知れない。

 

だが、先約を断る理由としては弱かった。
それが例え今後に大きく響くとしても。

 

【基本的に約束は守ることである】

 

急ではあるものの機会を与えてくれたことに対して、素直に喜び、嬉しいことを相手に伝え、その気持ちは受け取るが、やはりこちらへ事前に伺いを立てることが大切であろう。

 

また、どの立場の人が言っているのか。
与えてくれた機会であるものの、それを取りまとめる人が何も動かず、何も言わなければ、、、言ったとしても『是非』、『何がなんでも』と聞こえない場合。

それは自分を軽く見ているとしか受け取れない。

 

先約がどういう約束なのか、その関係性を断る理由はほとんどない。
絆は、時間と行動で深まっていく。

 

私としては、約束したなら守れと思っている。
やむ得ない場合を除き。
約束は信頼に大きな影響を与える。
その信頼を失う可能性と、目の前に現れた機会がどうなのかなどを考えた。

 

基本的に先約があれば断るが、先約を断り急な機会を取るのかどうかとなると難しい。

 

人生は選択し続けるゲームであろう。
小さなことから、大きなこと、選択していないと思っていても無意識に選択していること、常々選択している。

 

何のために選択をするのか。
その選択した先に進むため。
では、どのような先なのか。
そこを明確にすれば、このような事態にも対処できると思っている。

 

超えていくために

殻を突き破る
自分を超える
自分に克つ

 

言葉にするのは簡単なこと。
だが、それを実際にするとなると、何故か気乗りしなかったり、(ブレーキを掛けてしまう)、怖じ気付いてしまったりする。

 

それは何でなんだろう?
例えば、この世界中全員の人から『いい(賛同される、賛成される)』と思われることはなく、その逆も然り。
ならば全員から『いい』と思われることも、全員からそうでないと思われことも考えなくていいのではないか。

 

それでも目の前の一人の『いい』かそうでないかの判断を怖がってしまう。

 

その目の前の人にそうでないと言われるのが怖くて。

 

その結果を聞かないことには、何も判断しようがないのに、そうでないと言われると全てを否定されているような気分になる、嫌われていると勘違いしてしまい、聞くのが怖くなることもある。

 

『自信がない』
その言葉に込められた気持ちは何なのだろう。
他から認められない恐ろしさ。
出てもいない結果(やらなければ結果はない)を良くないように想像して臆す。

 

他人に認められなければ、生きていけないのだろうか?
他が望む結果を出せなかった過去があるからだろうか?

 

どのような状態であれ、誰かに認められるために、生きているわけではない。幼少期に何かがあったとしても今とは違う。

 

認められることが目的なのか?
違うと思う。
人からの評価や評判欲しさにしていることなのか?

違う。

 

やりたい、そうあることに対して、他人のどうこうは必要ない。
もちろん、全く不要とは言わないが、その地点に行くまでは気にすることではない。

 

認められていないことは、やっていない状態なら同じ。

 

ならば、いざ始め出した時に気にしなくていい。

 

気が付いた時に、認めてくれる人たち居て、その認めてくれる人たちと同じくらいに認めていない人もいる。
どちらに焦点を合わせるのか。
そういった問題だろう。

 

『先ずはやる』
殻は自分でしか突き破れない。
突き破りやすいようにお膳立てがあるかも知れないが、そうなっても殻を破るのは自分で、その殻から出て歩き出すのも自分自身でしかない。

 

歩き出せば、怪我することも、疲れることもある。
そういう自分を超えていくのも、自分でしかない。

 

そうやって、弱々しい自分からチカラをつけて、今までの自分に克っていく。

大きくても、小さくてもいい。
今の自分を超えていく日々を過ごすことしかないのだ。

 

【継続はチカラなり】

今はまだ…

住んでいる世界が違うと言うか、次元が違うんだろう。
そんな人たちとの繋がりが出来たということは、そこに住めるし、その次元に行くのだろう。

雇われている人と自分の何かで生計を立てている人との違いがある。
その違いは記述しないが、今の自分に足りないことをまざまざと感じた。また自分自身が気がついていない事を指摘してくれた。

人に指摘されて、自分がどんな感情を抱くのは構わないが、感情で受け取るのではなく『事実』にしっかりと目を向ければ、決して言い訳はない。
言い訳があったとしても、そこで言ったらどうなるかを考えると言えなくなり、その言い訳は意味のないことだと気がつく。

事実という結果は変わらない。
結果を変えるには、それ以前の過程を変えるしかない。
次回、同じような機会があれば、同じ結果にならない選択をするだけだ。

その他にも色んなことを感じたが、今回から誰かにさらけ出すことをやめることにした。


何故ならば、まだ過渡期だから。
ちゃんと蓄積して結果が出たときに、知りたい人へ伝えることにした。
中途半端なことは伝えられないのだ。
また、さらけ出すことで完了してしまったと勘違いすることもあるから。