地方争乱時代
この前、たまたまやっていた『花燃ゆ』を見ていて、「長州って今の山口県ぐらいでしょ?それが国に喧嘩吹っかけるって考えられん」というようなことを言われて、確かに狂気の沙汰であろうなと少ない歴史の知識で思ってみた。
その時代がどうだったのかは、実際に生きていたわけではないので、想像でしかないけれど、そういう動乱の時代には(良く言えば)志高い(悪く言えば、常軌を逸した)人たちが小さな流れを作りながら、大きな流れへと合流していったように思う。
これも推測でしかないが、史実がすべて正しいとは言わないが、そこから学ぶことはたくさんあるのだろう。
「愚者は経験に学び、賢人は歴史に学ぶ」という言葉もあるように(あまり偉人の言葉が100%正しいとは言い難いが)歴史には何かしらのヒントがたくさん隠されているように思う。(この偉人の言葉の意とはズレるが)
その視野をどこまで広げてみるのか、広げてみたことをどのように参考にし、応用していくのかということが大切であると思う。
さて、地方争乱と書いたのは、今そのような時代になろうとしているわけで、その最前線にいるのが、私たちである。
わざわざ都会から地方の田舎に移ってきて、何かを成そうとしているのだ。
その成そうとしていることによっては、この戦渦に突撃する形になる可能性もある。
色んな意味で自由度が高い施策なため、扱う自治体、担う当人、受け入れる地域などに影響を受けるので、突撃する形になる。
私はどちらかというと、その突撃してしまった人かと。
長州藩ではないが、村(既に統合はされている)単位で、喧嘩をしにいかないと、いつまで経っても何も起こらない。
喧嘩と言うと、攻撃的なイメージを持ってしまうが、主張をしていくことと捉えてもらいたい。
今の時代だから殺生はない(だろう。むしろもっと陰湿か)が、政治的に動くことはかなり必要になってくる。
そういうことをするにあたって、重要であったり、必要であることがたくさんあるが、ないと戦えない。
武器を持たずして戦う、いや戦うことに目をそむけていることもある。
例えば、スポーツの団体競技において考えるとわかりやすい。
プレイヤー、監督、それらをサポートするスタッフ、そして応援をするサポーターなど。
それを一人で担うことはできない。
兼務できることもあれば、できなこともある。
そして、何よりもその競技に出る、優勝するなどの理由がないとまずありえない。
否が応でも、地方争乱の時代はもうすでに始まっている。
知らぬ間に住んでいる地域が、立ち上がる前に住んでいる自治体が、どうあがいても脱出できない状況になりえることがあるということを想像すると、危機的状況を回避したくはならないのだろうか。
期限は決まっている。
その中で私の役割を最大限に果たすだけ。
いつまでも夢見ている場合ではないのだよ。