在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

『したたかさ』と『がめつさ』

こりゃ、一本取られたな。

そこまで用意周到なら、仕方あるまいとなり、したたかだなーとなる。

 

が、がめつさとは違う。

 

したたかとは『強か』と書くように強いのである。

だから、負けたなーとなってしまう。

美学みたいなものだ。

 

時々、がめつい人をしたたかと言うが全くもって違う。

どんなに転んでもタダでは起きない、不屈の精神がしたたかさにつながる。

 

だが、がめついとは貪欲、ケチ、せこいと言われる。

なりふり構わず、我が、我がと自分のことしか考えていない人のことを指す。

 

したたかな人は周りに認められる。

がめつい人は周りに嫌われる。

 

何故か、したたかな人もがめつい人も自分のことを考えての言動になるのだが、自分しかか自分が良くなるように周りに手を回すのかの違いだと思う。

 

例えば、何人かが砂漠で迷って、全員喉が渇いて死にそうな状況だったとしよう。

水筒が一つしかない状態で分け合う話しになった時、がめつい人は人より多く飲んだり、我先に水筒へ手を出す。

したたかな人は、自分が多く飲めるように話しを持って行き、結果多く飲める。

 

そう、人を上手に使えるのだ。

それは人のことをよく見ていたり、知っているからできることで、がめつい人は他の人のことなどカラッきし考えていない。

 

この違いが、人から嫌われるかどうかにつながってくると考えられる。

 

どんな人もしたたかであればいい。

上手に人付き合いをして、自分に不利益が被らないように采配するのが世渡り上手というのだろう。

策士とはそういうような人である。

 

何重にも張り巡らされた策に、人が心地よくハマり、気がついたら手柄を渡してしまっている。

戦わずして勝つとは、まさにしたたかな人ならではではないだろうか。

戦わないということは、敵が居ないもしくは少ない状態だからこそできる。

敵が居ない、少ないということは、嫌われていないということ。

 

がめつい人はどんどん敵を作り、孤立し、自滅していく。

さて、いつまで周りが黙っておくのだろうか?

 

爆弾を仕掛けてみる。