生み(作り)出すということ
アーティスト、クリエイターと呼ばれる人たちは、他と比べてどうなのかということよりも、自分の内面と向き合い、客観的に見つめ、そこから抽出される一滴、一滴の精製された自分の魂を加工しているのだと感じた。
言い換えればアートやクリエイトするということは、自分の中にある『思い』であったり、自分自身の『魂』なるもの、自分自身を見つめ、それを何かで表現することである。
例えば絵描きが居て、目の前に広がる風景をキャンパスに描いたとしよう。
それを正確に描くことが大切なのではない。
絵として、どうこうという決まりはあるかもしれないが、それは他者が決めた決まり。
だから、その決まりに則ることはない。
ただ作品として決めるのは自分ではなく、他者であることを忘れてはいけない。
その作品として描いた絵に、他者は何を見ているのだろうか?
正確に描かれていることだろうか?
他者が何を感じるのだろうか。
言語化しにくいところではあるが、その言語化しにくいことを言語化して、自分を知ることで、その描いた絵から読み取ることができる何かをしっかり見ることができる。
描いた絵から読み取れるのは、美しい風景ではなく、その風景を見て、描いた人が何を思って、その風景を描いたのかということだろう。
ただ単に美しいと思い描いただけの絵であれば、他者はその絵に惹かれることはないだろう。
他者が惹かれるのは、描いた絵を媒介として、描いた人から伝わる何かである。
その何かがしっかりと描く自分自身が知っておくこと。
上手い下手という技術的なことよりも、伝わる何かをその作り出すものに込められているのか、そしてそれが作り出すものから溢れ出ているのか。
自分自身を知らなければ、伝えたい何かをそれに込められない。
だから自分自身を嫌というほど見ることになる。
自分自身と向き合うと、かなり精神力、体力を費やす。
時間も、お金も、全てをつぎ込んで、自分というものを作り出すから。
生みの苦しみとは、そのようなことからの言葉なのかもしれない。
0から1を生み出すともいうが、それは何も『ない』ところから、『ある』を作り出すからではなく、その『ない』と思っていたことや認識から少し『ある』を引きずりだす感覚。
何も『ない』のではなく、『ある』けれど『ない』ように感じていることを、しっかり『ある』状態=表現すること。
表現、どちらも『あらわす』と読む通りに、『目に見え(視覚化)、それを相手(の心)に伝えることができる』状態なのだろう。
その表現することは、自分の魂であり、世界観であったり、何であれ自分そのもの、自分の中にある魂を相手に伝える。
技術的なことはもちろん、それに必要な道具や費用は必要であるが、どんな技術が最高であろうとも、素晴らしい道具を持っていようが、かけられる費用があろうが、その生み出すものに対して、魂を込められるかが重要である。
魂を宿らせることができるのであれば、技術、道具、費用などは、そこまで重要ではないと言える。
『これっ!』って言える確固たる信念を見出すことから。
もちろん、表現するにあたり、対象がどうなのか。その技術や道具で表現できるのかという課題はあるものの、それは魂を込めることができるようになってから。
技術があろうとも、道具が揃おうとも、魂を込めることはできないのだ。
生み出すこととはそういうことなんだということが、よくわかった。
自分の魂を表現するのに、正解も限りもない。
果てしも無い自分という宇宙空間に、表現したい何かを見つけ、それを作り出すことに埋め込むのではなく、練り込んでいく。
そのものが自分ですといえるように、練り込んでいく。
そうやって生み出された(作り出された)ものが、他者から作品と呼ばれるものになるのであろう。