使い方を知る
先日、占いについて書いた。
占いの使い方を間違えている人が多い。
宗教もそう。
何で、そうなのか本当のところはわからないが、おそらく『自分の人生は自分次第』、『自分で創り出していくことができる』ということを知らないからだろう。
この『自分次第』、『創り出せる』ことが基盤にあってこそ、占いの成果は発揮される。
某映画で主人公が預言者に会い、「自分は救世主か」と尋ねるが、預言者は答えを出さない。
そして、主人公が言った言葉から残念だけど…と言う。
この預言者と主人公のやり取りは、映画の世界の話しだけではない。
預言だろうが、占いだろうが、啓示だろうが、自分自身が決めていることである。
起きたことに対して、自分が反応し、選択する。
選択したことから、最適なことが起きる。
その起きることに関しては、自分にとって重要であり、必要であることが起きる。
それをずっと繰り返しているだけ。
創り出すとは、その反応と選択から導き出されることを操作することだと言える。
目標、目的地を決めることで、そこにたどり着く道筋ができる。
ただ、その道筋は薄く気付きにくい。
その道を歩いて行くには、想像して意識化から無意識に伝え、無意識に認識させること。
無意識は目的地や目標に向かって進むためのありとあらゆるモノゴトを【全て】(宇宙であったり、神であったり、様々な表現がある)に要求し、【全て】は判断せずに贈ってくれる。
それを与えられたことへ有り難く受け取る。
それに反応して、選択して、想い描くことに進んでいくことができる。
どんなことだろうが、贈られてくるモノゴトは自分が望んだことなのだ。
また望んだこと以上のモノゴトを贈ってくれる。
贈られてきたモノゴトに対して、不平不満を言うというのは、天に向かって唾を吐くことと同じなのだ。
有り難く受け取り、選択すればいいだけ。
占いはその進むべき道に灯りを灯してくれるものだ。
訪れる多くの選択肢の中の一本の道筋を照らしてくれる。
だから、その一本の道から逸れれば、占いは当たらなくなる。
そもそも、当たるのか、当たらないのかの話しではない。
宗教に関しても、道筋や心の持ちようや選択肢の選び方など、生きていく上でのヒントでしかない。
だが人は自分が自由であることに対して、不安になるのだろう。
何故なら、そのような生き方を学校でも家でも教えてくれないからだ。
心弱いからこそ自分ではない、何かに頼り、何かにすがり、何かを信じて、生きることを選んでしまう。
それが悪いとは言わないし、思いもしない。
それでいいのであれば、それでいいのだ。
ただ何かのご縁で、今ココに存在している。
細かな決まりはない。
『望んだことを【全て】が与えてくれる』
『起きたことに対して、反応と選択ができる』
『自分の未来、世界は自分が創り出すことができる』
おそらく、このような単純な決まりしかない。
あとは自由なのだ。
過ぎ去ったことは、全てはじめから決まっていたことなのだ。
変えられるのは、未来ではなく『今、ココ』だけなのだ。