在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

未だに

自分に対して本気で向き合ったことがあるだろうか?

自分の人生に対して、本気で向き合ったことがあるだろうか?

 

ただ何となく周りが、一般の大多数がそうだからという理由で、そうだと思ったことはないだろうか?

 

疑うことを止めてしまった人は、もう人ではない。

夢や希望を諦めてしまった人は、もう人ではない。

 

信じるのは、自分自身のことを信じるだけ。

周りの声や環境なんて疑ってかかって丁度いいぐらい。

 

無理だと思う前に、それらを叶える手段がないかと必死で探すこと。

もちろん可能なことと不可能なことはあるけれど、不可能が可能になる手段を探しただろうか?

 

自分の人生に対して本気で向き合ったときに、見えることがある。

知ることがある。

 

向き合うと、今の自分自身に対して嫌悪感が生まれ、その嫌悪感を消すために向き合うことを止めてしまう。

それでは今までと何も変わらない。

 

今までやってきたことのないことをやろうとするから、大変であって。

大変だからこそ、大きく変わるのだ。

変わることに恐れを抱かず、やってきたことのないことをやることから逃げない。

 

諦めず、小さくてもいいから一歩、二歩と前に足を出す。

その為に必要なことは、信じることであったり、有り難いと思うことであったり、夢や希望を持ち、それらを叶えるという気持ちである。

 

周りはそれを見ている。

周りは必ず馬鹿にしたり、笑ったりする。

 

【だから何なんだ?】

 

『俺の人生に裏切らず最後の最後までついてきてくれるのは自分』

そんなような歌を歌った人を知っている。

周りがどれだけ言おうが、周りが自分の人生を生きるわけではない。

自分の人生を生きるのは、自分以外誰もいない。

 

馬鹿にされても、笑われても、続けていけば変わってくる。

その変わってきたときに周りはようやく気が付く。

 

『あいつ最近、スゲーらしいぞ』などと抽象的に言う。

人はいつだって、自分を見ている。

人に接することで、自分自身を見ることができるのは、自分自身が人にしてきたことが全て返ってくるから。

 

そういうルールなんだ。

 

魂と言う非物質的な存在があるとすれば、魂は自分を選んで生まれてきている。

もしかしたら、全ての出来事を決めているのかも知れないし、ゴールだけを決めてきているかも知れない。

それらの情報は生まれてきたときに忘れるように設定してある。

いくつかのルールが設けられているゲームなのだ。

 

そのルールさえ、忘れてしまっているのだ。

それらを教えることすら、なくしてしまった。

 

ルールを知らない人たちは、別に作られたルールに基づいて生きていく。

そのルールを作ったのが誰なのか、何故作られているのかも気が付かずに。

 

大多数は間違ったルールで生活している。

正しいルールに則り生きていこうとすると、周りから誹謗中傷を浴びることになる。

それは間違ったルールでの違反だから。

 

正しいルールに則っていくと間違ったルールに従わなくとも問題ないことに気が付く。

気が付くのは自分自身だけなので、周りから誹謗中傷の声を聞くことになる。

だが、正しいルールに則っていれば、そんな周りの声は聞こえなくなる。

 

ただその気付きを継続するのは容易ではない。

容易にするために、環境設定が必要になってくる。

 

意志より環境の方が影響が大きいのだ。

その環境を探すことも大切になってくる。

 

求めよ、さらば与えらん。

 

人に求めるのではなく、自分自身に求めるのだ。

必要なことしかおきていないようになっていく。

 

向き合う価値は大いにある。