未だに
自分に対して本気で向き合ったことがあるだろうか?
自分の人生に対して、本気で向き合ったことがあるだろうか?
ただ何となく周りが、一般の大多数がそうだからという理由で、そうだと思ったことはないだろうか?
疑うことを止めてしまった人は、もう人ではない。
夢や希望を諦めてしまった人は、もう人ではない。
信じるのは、自分自身のことを信じるだけ。
周りの声や環境なんて疑ってかかって丁度いいぐらい。
無理だと思う前に、それらを叶える手段がないかと必死で探すこと。
もちろん可能なことと不可能なことはあるけれど、不可能が可能になる手段を探しただろうか?
自分の人生に対して本気で向き合ったときに、見えることがある。
知ることがある。
向き合うと、今の自分自身に対して嫌悪感が生まれ、その嫌悪感を消すために向き合うことを止めてしまう。
それでは今までと何も変わらない。
今までやってきたことのないことをやろうとするから、大変であって。
大変だからこそ、大きく変わるのだ。
変わることに恐れを抱かず、やってきたことのないことをやることから逃げない。
諦めず、小さくてもいいから一歩、二歩と前に足を出す。
その為に必要なことは、信じることであったり、有り難いと思うことであったり、夢や希望を持ち、それらを叶えるという気持ちである。
周りはそれを見ている。
周りは必ず馬鹿にしたり、笑ったりする。
【だから何なんだ?】
『俺の人生に裏切らず最後の最後までついてきてくれるのは自分』
そんなような歌を歌った人を知っている。
周りがどれだけ言おうが、周りが自分の人生を生きるわけではない。
自分の人生を生きるのは、自分以外誰もいない。
馬鹿にされても、笑われても、続けていけば変わってくる。
その変わってきたときに周りはようやく気が付く。
『あいつ最近、スゲーらしいぞ』などと抽象的に言う。
人はいつだって、自分を見ている。
人に接することで、自分自身を見ることができるのは、自分自身が人にしてきたことが全て返ってくるから。
そういうルールなんだ。
魂と言う非物質的な存在があるとすれば、魂は自分を選んで生まれてきている。
もしかしたら、全ての出来事を決めているのかも知れないし、ゴールだけを決めてきているかも知れない。
それらの情報は生まれてきたときに忘れるように設定してある。
いくつかのルールが設けられているゲームなのだ。
そのルールさえ、忘れてしまっているのだ。
それらを教えることすら、なくしてしまった。
ルールを知らない人たちは、別に作られたルールに基づいて生きていく。
そのルールを作ったのが誰なのか、何故作られているのかも気が付かずに。
大多数は間違ったルールで生活している。
正しいルールに則り生きていこうとすると、周りから誹謗中傷を浴びることになる。
それは間違ったルールでの違反だから。
正しいルールに則っていくと間違ったルールに従わなくとも問題ないことに気が付く。
気が付くのは自分自身だけなので、周りから誹謗中傷の声を聞くことになる。
だが、正しいルールに則っていれば、そんな周りの声は聞こえなくなる。
ただその気付きを継続するのは容易ではない。
容易にするために、環境設定が必要になってくる。
意志より環境の方が影響が大きいのだ。
その環境を探すことも大切になってくる。
求めよ、さらば与えらん。
人に求めるのではなく、自分自身に求めるのだ。
必要なことしかおきていないようになっていく。
向き合う価値は大いにある。