信じて、疑って、、、
自分のことについて、どれだけ考えたことがあるだろうか?
今の自分から見て
過去何をしてきたのか?
過去何に興味があったのか?
過去どういうものを取り入れてきたのか?
過去どういうことを捨ててきたのか?
それらが今の自分を形成している。
そして、未来は今の自分が創り出していく。
未来、こう在りたい。
未来、こういうことをしていたい。
未来、こういう生活をしていたい。
あるったけの『〜たい(wont)』を上げてみる。
その上げた項目と今とが乖離している分、できないと認識してしまう。
前項で、できるかできないかはどうでもいいと言った。
そうできるか、できないかはどうでもいい。
【やってみる】ということ。
前項では、どう在りたいかを問うた。
どう在りたいかをみて、やらないのであれば、今のままと何も変わらず、変わらずということは退化して行っていることを認識しておく。
生まれた瞬間(もしくは生まれる前)から、死ぬことは決まっている。
与えられた何時間もの間、一体何を得て、何を感じ、何という存在であるのだろうか?
それは決められたことなのだろうか?
全てに疑いを持ってみては如何だろうか?
全てを信じてみてはどうだろうか?
友人から信じるな、疑うな、必要とあらば調べよという言葉をもらった。
否定形なので、肯定形に直してみた。
信じて、疑って、必要なら調べてみる。
調べたことすら信じて、疑ってみる。
疑えば疑うほど、信じることになる
盲信はいけない。
情報に踊らされるから。
■情報を処理することに追われている。
インターネットという世界がもう当たり前のようになっている世界で、人は情報を処理することに追われている。
人の脳をコンピュータ(PC)に置き換えた時、その入力される(否が応でも入ってくる)情報を処理するのにCPUが使われ、人本来が持っている考える、想像(創造)することにCPUが使われなくなっている。
まず、一旦情報を遮断してみてはいかがだろうか?
情報を遮断することによって、処理することがなくなる。
おそらく、情報を求めてしまうことがある。
それは癖であり、依存であり、禁断症状的なものであるので、その状態になることは正しいのだろう。
そして、自ら生み出すことをしてみるといい。
そのために、過去を思い出すことや未来を想像してみるといい。
最初はできないだろう。
だが、やっていけばできるようになる。
そうすることによって、何かが動き出す。
それを感じて欲しい。