売ること
人は何かしら買い物をしている。
なぜ、自分がそれを買うのか。
なぜ、それが売っているのか。
そんなことを考えて買い物をすることはない。
何かしらの欲求を満たすために、人はお金という対価を払って欲求を満たしている。
では、欲求を満たすモノ以外のモノを手に入れることはないのだろうか?
否。
欲求を満たす以外のモノを手に入れるときは、新たな欲求を満たしてくれる可能性があったり、そのモノを手に入れることで、豊かになったりするからではないだろうか。
例えば、服を買いに行って、予算以上のモノを買ってしまうことがある。
それは予算以上のものに価値を見出しているからではないだろうか。
また服だけではなく小物を買うこともある。
一見必要ないと思っているが勧められることにより、『必要かもー』ぐらいの気持ちが芽生え、いつの間にか『無くても困らない』から『あった方がいい』、『あればより豊か(例えば、購入しようとした服をさらに着飾ることができる)になる』となるからではないだろうか。
それに限ったことではないが一例として、このような心の変化がある。
販売や営業は、そういった心の変化を生じさせることをしている。
そのあたりが心理学に繋がっているのだが、ほれはまた別の機会に。
心の変化を生じさせるには、お客様に寄り添い、信頼をつくることが大切である。
企業として価値のある会社に勤めていれば、その企業として価値を認めているお客様が利用している。
それをお客様に伝えることで、売れる。
なのに、なぜ売れないのか。
そういう背景を知らないのではないだろうか?
自分のチカラでお客様が付いているのではない。
会社というブランドがあるからこそ、お客様がいる。
ブランドがあった上で接客が良いから、モノが売れる。
様々なことに目を向けておけば、何を求めていて、潜在的に求めているものは何か、こういう提案はどうか?など、わかってくる。
もしかすると、求めていなくても購入ということになるかも知れない。
ただ単に言われたことだけをこなすのは、販売ではない。
そんなのは自動販売機と同じである。
人がするということは、自動販売機以上のことをして漸く販売といえよう。
そのために何をするのか、それはまず観察であったり、話しを聞くことであったりする。
売ろうとするのではなく、買いたくさせること。
受動的か、能動的かというところで、人の心を能動的にさせることが売ることに繋がる。
だから、マーケティングやセールスは心理学と通ずるのだ。
心理学とは心の科学や行動の科学とも言われている。
そういう人の心が変わっていくことに携わっていることを自覚すれば、見えてくるものが違ってくる。
月に魅せられて
今日は満月。
月を気にするようになったのは、いつだったろうか。
ふと、見上げた夜空の月を見て、『ああ、まだ満月ではないなー』とか『今日の月は綺麗だなー』などと感慨耽ってしまう。
太陽は神として崇められることが多いけど、月も神として崇められている。
太陽がなければ、、、地球上の生物は存在しなくなってしまうが、少なからず月の影響も受けている。
潮の満ち引きや食物の育ち、人の体などたくさんある。
地球の衛星と言われているが、衛星としては大きい。
また月は裏側を地球に見せることなく、回っている。
不思議な天体だそうだ。
月には謎が多い。
地球は太陽や月、その他のたくさんの恩恵を受けて、宇宙に存在している。
まるで人間関係や、生存している生き物の関係のように天体同士が影響しあいそこにぽつりと浮かんでいる。
地球にとって月の存在はかけがえの無い存在だそうだ。
それを知っている昔の人たちは、月を暦にしたりした。
人工的に区切った24時間や、30日、365日などよりも、この月のリズムや太陽のリズムの方がよっぽど、体に合っていたりする。
どうしても社会は人工的に区切った単位で活動しているので、自分が月の周期で動きたくても難しくなる。
それでも今日が満月だと意識していくだけで何かが変わってくるような気もしなくない。
昼間を作り出す太陽に満ち欠けがあっては困るが、夜の月は満ち欠けにより顔を変え、人を魅せる。
太陽の光を反射させているそうだが、本当に美しすぎて言葉が出てこない。
ただ反射させているだけなのに、月の顔は絶世の美女と思える。
人はまだ知らないことがたくさんある。
この地球のことだって知らないことだらけだ。
それでも、夜空に浮かんでいる月のことを色々と考えてしまうぐらい魅力がある。
今日からまた欠けていくのだ。
次、満ちるまでは欠けて新月となり、生まれ変わりまた満ちていく。
輪廻とは言わないが、同じ月なのに見え方が違うことに、人に通ずる何かを感じて、絶世の美女に魅せられ、今宵は眠るとしよう。
映画を見終わったあとに考えることー【悪の教典】
何の話からか、『悪の教典』が面白いから見てみてという話になり、見終わった。
率直な感想を言うと、これを面白いといえる人が面白いと思う。
どんな部分が面白いのかを、直接本人に伺いたくなった。
映画だけでなく、ドラマ、小説、アニメなどの作品を見ると、どうしてこのような物を作ったのだろうか?
作った人は何を伝えたかったのだろうか、何を考えて作ったのだろうか、それらに触れた感想を持つ人たちは何からそのような感想を持つのだろうかと色々と考えてしまう。
今回の『悪の教典』に関して、面白いといった本人も自分自身はサイコパスなんで、、、と言っていた。
夜な夜な一人で、真っ暗闇で見ていると言う。
うむ、サイコパスな傾向があるんだろうと思える。
そもそもサイコパスとは精神病質、あるいは反社会性人格などと呼ばれる極めて特殊な人格を持つ人たちのことをさす言葉で、特殊な人格と言えど希少な存在ではないということ。。。
詳しくはご自身で。
この話しがどうとか、こうとかの映画の感想より、この映画を見てどう感じて、どんな考察をしているのかを書き記しておく。
その前に、映画を見るにあたって注意していることがある。
まず映画を見る前にほとんど情報を入れないことにしている(予告編とかぐらいは入る)。
そして映画を見終わった後にネタバレや考察を見る。
見終わったあとの感想で好きか、嫌いかでいうと嫌いな映画である。
映画だけで理解しきれないから。
どの部分に着眼すれば面白いのかを見出せなかった。
他人の考察をみると、小説があるのでそれを見ると面白さが分かるそうなのだが、基本的にスプラッター系は好きではないので、小説を進んで読むことはないだろう。
また(小説では違うのかもしれないが)話しが飛躍しすぎているところも納得いかない。
一般的になくはない状況ではあるが、若干わざとな部分がある(映画の尺ではそこまで描けないのかもしれない)。
この映画の評価よりも、本当にこの映画を面白いといった人が気になる。
自分自身も冷酷だなと思うが、残虐性はない。
シリアスキラーの要素もない。
サイコキラーの要素もない。
キラーの要素がほとんどない。
そういう振り返りというか自分との違いを見ていくと、殺すということに快楽を感じる人を理解できない、理解したくない、理解しないということがあるのだろう。
人を殺すことが何故いけないと思うのかとか、何故、罰せられるのかをしっかりと説明できる人は少ないと思う。
法律で定められているからなどの中身のない説明ではなく。
人の背景を見て、目の前に居る人を見直すと本当に面白い。
それは心理学を学び始めてから、特に面白いと思うようになった。
人は様々なものを選択している。
そして選択したことに対してどう反応するかも選択し、また選択を始める。
とにかく選択していないことがないようだ。
今回、この映画を見たことでその人の背景を知ることを楽しみにしておこう。
何かの役に立つかもしれない。
『したたかさ』と『がめつさ』
こりゃ、一本取られたな。
そこまで用意周到なら、仕方あるまいとなり、したたかだなーとなる。
が、がめつさとは違う。
したたかとは『強か』と書くように強いのである。
だから、負けたなーとなってしまう。
美学みたいなものだ。
時々、がめつい人をしたたかと言うが全くもって違う。
どんなに転んでもタダでは起きない、不屈の精神がしたたかさにつながる。
だが、がめついとは貪欲、ケチ、せこいと言われる。
なりふり構わず、我が、我がと自分のことしか考えていない人のことを指す。
したたかな人は周りに認められる。
がめつい人は周りに嫌われる。
何故か、したたかな人もがめつい人も自分のことを考えての言動になるのだが、自分しかか自分が良くなるように周りに手を回すのかの違いだと思う。
例えば、何人かが砂漠で迷って、全員喉が渇いて死にそうな状況だったとしよう。
水筒が一つしかない状態で分け合う話しになった時、がめつい人は人より多く飲んだり、我先に水筒へ手を出す。
したたかな人は、自分が多く飲めるように話しを持って行き、結果多く飲める。
そう、人を上手に使えるのだ。
それは人のことをよく見ていたり、知っているからできることで、がめつい人は他の人のことなどカラッきし考えていない。
この違いが、人から嫌われるかどうかにつながってくると考えられる。
どんな人もしたたかであればいい。
上手に人付き合いをして、自分に不利益が被らないように采配するのが世渡り上手というのだろう。
策士とはそういうような人である。
何重にも張り巡らされた策に、人が心地よくハマり、気がついたら手柄を渡してしまっている。
戦わずして勝つとは、まさにしたたかな人ならではではないだろうか。
戦わないということは、敵が居ないもしくは少ない状態だからこそできる。
敵が居ない、少ないということは、嫌われていないということ。
がめつい人はどんどん敵を作り、孤立し、自滅していく。
さて、いつまで周りが黙っておくのだろうか?
爆弾を仕掛けてみる。
平行世界を体験する
この世の中は、幾多にも世界が分かれていると言われている。
人は主観で世界を捉えるため、その世界を同時に観ることはできない。
しかし、気づくことはできる。
今まである世界とは違う世界にいることがある。
職場、家庭、友だちなどとの関係性から感じることができる。
その場にいる人たちに見えている自分と、それとは場にいる人たちに見えている自分は果たして同じなのだろうか?
自分という存在が同じだと思い込んでいるだけかも知れない。
自分に関わる人同士が繋がりなく、全く印象が違えば、それぞれの場、空間に存在している自分は違ってくる。
どんな自分であっても、自分でしかないのだが、それを知っている(もしくは思っている)のは本人だけだ。
場から場に移動しているからこそ、連続していると思い込んでいるが、場に移動してたのちに別の自分が存在するのかも知れない。
それはホラーでも何でもなく、可能性の一つであり、確証得がたい仮説である。
シュレディンガーの猫とはそういうことを実験している。
観測した時点で、確定(固定)されてしまうから。
観測以前は、測りようがない(あるのかも知れないが)。
それだけではなく、その場や関わる人によって引き出される(引き出る、引き出す)自分が違っている。
それがいつもの自分と違えば、違うほど、平行世界に居るような気がして止まない。
病んでいるのではなく、ただ感じることがある(常に感じているわけではない)だけ。
自己同一性ということがあるが、別の人格になってしまうとそれは精神的に問題があり、社会で生きていく上で支障をきたす恐れがあるが、そうではない。
扉に手をかけ、少し覗いた程度である。
そういった感覚、体験が何の役に立つのかは分からないが、そういうことを強く感じた日だった。
生活を垣間見せる
年を取るごとに気になってくるのが、肉体や健康のこと。
それは実感からきた。
特に身体の変化。
以前は飲みの場が多かったため、自分がアルコール依存症になったのではないかというぐらいお酒を求めていた。
ただ、身体を動かす機会も多かったので、気にしなかった。
飲みの場はなくなったのものの、身体を動かす機会も減った。
だが、アルコールは摂取していた。
次第に腹回りが大きくなったことや、パンツサイズがきつくなったことに気がつく。
これは、、、と危機感迫り、ジムに通いだした。
マシーンを使った筋トレとプールでの有酸素運動のセット。
食事もタンパク質を取るようにした。
筋肉の敵がアルコールと知って、控えていたのもあるが運動していたらお酒を求めなくなった。
だが、勤務地の変更があり、ジムに通う時間がなくなり、室内トレーニングに切り替えた。
そうするとやはり、脂肪が付いてくる。
有酸素運動の偉大さを思い知った。
時間が取れないため、食事制限を設けようと考えた。
脂肪には二種類あって、皮下脂肪と内蔵脂肪。
内臓脂肪は食生活の改善が効果的とある。
皮下脂肪よりも内臓脂肪が気になるので、食生活を変えようと試みた。
できれば、断食などもやってみたいものだが、仕事に支障をきたすとまずいので、一日三食ではなく、二食にしようとした。
無理だった。
食べずに横になっても、眠気より食欲が勝ってしまうのか、食べたくなり寝付けない。
結局、夜遅くに食べることになる。
しかし何故、寝る前に食べるのだろうかと疑問が沸いてきた。
あとは寝るだけ。
体力を使うよりか、回復させるために睡眠があるのではないか?
内蔵も休ませてやらないと。
その代わり朝昼をしっかり食べる。
それが良さそうな気がする。
小腸は第二の脳とも言われるぐらいなのだから、休めるのなら休ませてやりたい。
本当は断食がしたい。
そんなことから、夜はサラダ(野菜)だけ。
朝、昼もサラダは欠かさず、パンやご飯を合わせるだけにした。
よく、仕事帰りや夜にご飯を団欒と合わせて持つ機会が多いが、それを朝や昼にできないだろうか?
家庭を持っていないが、家庭を持ったら朝しっかりと食べ、夜は軽い感じで生活をしたい。
御礼を言いたい!
ありがとうございます!
はてなブログでは、スターを付けるっていうことができる。
某SNSの『いいね』のような感じとは違い、重みがある。
どちらかと言えば、知恵袋の評価みたいな感じだと受け止めている。
SNSとブログの違いは、それぞれ使っている人にとって違うんだろうが、匿名性かと思っている。
SNSは顔見知りと繋がることが多いと思う(それに限らない)。
だが、ブログの良いところは不特定多数の人と匿名で繋がれるところだと思うので、SNSで書けないことや、SNSより深い話しをしている。
そんな中、このブログの記事にたどり着き、読んだ後、スターを付けてくれる人がいる。
いつも抽象的な表現であったり、精神論的なことが多いため、分かりにくいことが多々あると感じている(今のところ、書き方を変えることはない)。
スターを付けてくれた人がいつも読んでくれているのか、たまたまその記事を読んだだけなのかもわからないところがいい。
ご縁あって読んでくれている人、スターを付けてくれた人、ありがとうございます。