在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

列車に乗る

駅構内に着き、列車が出発しようとしていた。

躊躇したため乗り遅れた。

 

僕はその列車以外の列車があることや行き先がたくさんあることを知らなかった。

行き先を決めていないと、どの列車に乗っていいのかわからないことに気がついた。

 

とにかく列車に乗ればいいとだけ思っていたから。

 

僕は地図を広げて、目的地の確認をする。

 

その間も列車は絶え間なく構内に入ってきて、人を乗せ走っていく。

 

目的地の確認をしたが、僕がどこに居るのかを知らないことにも気がついた。

どこに居るのかがわからないと、どこから出発するのかわからない。

 

僕は、しっかり地図を見てその位置を確認した。

 

僕は行きたい目的地に居る僕を想像してみた。

その目的地におり立ち、初めて見る景色がどんな風に見えるのか。

そこから僕がどんなことをしていくのか。

 

そんなことを想像するとワクワクする。

 

その地に行ったことのある僕ならば、今どのようなことをするのだろうかも考えてみた。

 

常にその地にいる感覚で、列車に乗るまでの時間を過ごしてみる。

単なるワクワクではなく、少し重みを感じるワクワク。

これから、その目的地に行けることに確信を持つ。

 

構内を行き交う人々の中には、知った顔もいた。

時折、話しはするが、どうやら行き先は違うみたいだ。

 

僕が行きたい目的地と同じ列車に乗る人は、この構内には居ないようだった。

友人はとっくに列車の中。

追いつけるかわからないが後を追ってみようと思った。目的地が一緒だから。

 

旅支度が完璧に整っているわけではないが、目的地にたどり着く列車が来たら乗り込む。

 

もしかするとその列車が目的地に着く最後の列車かも知れない。

何度も間違えて、今の構内にようやくたどり着いた。

もう間違えたくない。

 

焦らず、慌てず、早く。

 

次の列車がやってくるアナウンスが構内に響いた。

感覚を変えていく

アーティストは一般的な感覚と違う。

 

そういや、友だちが特異点の話しをしていたが、特異点になるということは、元は同じでも機能や役割が違っている。

その友だちは、自分が特異点になりつつあると言っていた。

 

例えば、人で言えば臓器。

細胞の材料は同じだが、役割が違う。

人にとって、臓器は重要な役割だ。

もちろん、その他のところも大切であるが。

 

人という個体ではなく、人と人の繋がりの中で、特異点的な存在が出てくる。

それがアーティストであったり、クリエイターであったりする。

その特異点は、感覚が一般的ではない。

 

何にお金を掛け、何に時間を掛け、周りからすれば夢を見てるのか?と言われるような生活をしていたりする。

が、その夢を見ている生活が、現実として成り立つ生活に変わってくる。

 

それが特異点になるということだろう。

まだまだではあると思うが、その機会を与えられた。

 

機会を与えられること自体が、特異点の始まりなのだ。

その機会を使い、変化していき変態になっていく。

 

そんな時は、感覚を変えることに躊躇していけない。

例えば、サーフィンをしていて乗れるか、乗れないかわからない大きな波が来たときに、迷いなく乗る。

もしかしたら、怪我をするかも知れない。

死ぬかも知れない。

だが、その波が来たこと、そこに乗ろうとしたことで、次も波が来る。

 

そういう機会に挑戦していくことで、波に乗れるようになるだろう。

さて、人生のサーフィンを楽しみますか。

WINな関係

『自分と関わる人、自分が出力していることに関わる人たち、みんながWINになるといいと思っている』と言う言葉を人に掛けられる人と出会い、そこから何かが始まろうとしている。

 

生活の中で仕事が大半の時間を占めている。

仕事場の空気が悪い。

今日も、そのことに対して話しをしていた。

 

そんな大半の時間の環境で何かが変わるようなことは、まず難しい。

それは所詮、雇われた人たちの集まりだから。

 

だが、仕事以外で創り出している(出そうとしている)人たちとの付き合いは、自分の本気度、持っている空気感、生命力、精神力でつながり合う。

 

もちろん出力することの良し悪しなどはあるが、それを本気でやっている(やっていく)ならば、それを出力している人間(自分自身)を見られる。

 

裸の自分だ。

 

そんな裸の人たちが集まると、相乗的に高め合おうとする。

それは自分の出力することが、他者の出力することと絡み合い、加ではなく積となり、とてつもないことが起きることを感じているから。

 

可能性の話しを、この前したが可能性が可能性を呼び、予想していること以上のことが起こる。

 

ゼロではない可能性、可能性があるということ。

その『ある』を見えるようにするのも、見えないようにするのも、とてつもないものにするのも、自分次第だ。

 

すでに『ある』のだから。

 

出力している人は、それがわかっているから楽しくて、楽しいならみんなで楽しもうよ!となる。

 

これを言えるのは、本当に楽しんでいる人だから。

仕事では言わない。

『我さえ良ければ…』

特にノルマがあるところでは顕著に出る。

自分さえ良ければいいのだ。

 

楽しんで仕事をやっている人は居ないとは言わないが少ない。

なぜ、出力するのか?

なぜ、仕事をするのか?

この二つには大きな違いがある。

 

仕事は生活をするため。

出力は楽しいから、好きだから、やりたいからなど…

創ることに楽しさがあり、その楽しさに賛同したり、楽しみを感じたりする人たちがいる。

結局、自分の楽しさに対して、色んな人が関わっていく。

どんな形であれ。

 

出力に対して、反応してくれる人たちがいることを知っているからこそ、『みんなで』となる。

 

自分のことなのに、人が関わっているからこそ、成り立つことに気づくか、気付かないか。

 

仕事もそうなんだけど。

そこに気が付きにくい。

需要と供給、発信と受信、人との関わり合いの中で生きているのだが。

 

これからその体験していく、そしてその濃度が濃くなっていくかも知れないと、仄かに香る空気が緊張させる。

何かが始まろうとしている。

何が始まろうとも、やりつづけること、覚悟して臨まないと、その世界は楽しい世界から厳しい世界に変わる。

それがわかるから。

 

でも、もう後戻りはしない。

世間一般からかけ離れていく

世間一般で起きていることに、ほとんど興味がない。

家にTVはなく、新聞も取っていない。

インターネットでニュースを見ることも、調べることもない。

 

唯一、職場でTVがあるのでそれをチラチラ見るだけ。

世間の情報なんてそれぐらいでいいと思っている。

 

世捨て人になりたいわけではないが、世間の情報によって影響を受けるのが嫌なだけ。

影響を受けないと言い切れないから。

 

もし明日、世界が滅びるというニュースがあったとしても、それを知らなければ、滅びないかもしれないなどと、またパラレルな話しにしないでおこう。

 

人生どんな道が待っているのかわからないが、自分が進みたいという方向を見たときに世間の情報が必要なかっただけ。

誰それが~どうだ、こうだと他人のことを気に病んでいる場面を見かけるが、他人のことを病む前に自分のことを病んでみてはどうだろうかとも思う。

 

心配しなくても、その気に病んでいる他人が自分の人生を左右することはほとんどない。

それはそれで夢を見ているのだとは思うが。

 

新しい道に進もうとするとき、大なり小なり障害となることが発生する。

その障害を乗り越えようとしたとき、乗り越えたとき、新たな繋がりが生まれる。

その繋がりがどうなるのかは、わからないが可能性が一つずつ現実に近づいたり、一つずつ増えたりしていく。

そんな人生を歩もうとしていれば、世間一般のことが気にならなくなっていく。

 

というより、そんなことを気にしてられなくなってくる。

新しい道が出来たとわかった瞬間から、次の越えることに向かって準備するようになる。

その道がもしかしたら次越えることに繋がっていないかもしれないことも想定しておく。

想定できること全てを想定して、やることをやっていこうとすると、見えている景色が違ってくる。

見たい景色を見るように、見たい景色以上の景色が見えるように、それまでやる。

ほかの事は見ない。

 

人の脳の処理は思っているより多くないから。

大事な情報をすぐに入れられるように、あけておく必要がある。

強烈な一発

今日は惨敗だった。

いや、もしかすると今までも負けていたのを見なかっただけなのかもしれない。

 

他者の言葉をまとい、他者の存在を借りて、今までずっとやってきたんだろうな。

 

実力なんて、小っぽけですぐに負けてしまっていたのだろう。

負けているのに気付かず、やれば何とかできるなんて思っていながら、何もせず、何かのせいにして逃げ回っていた。

 

負けたと認めることから、逃げていた。

そこに立ち向かうからこそ、次の段階に行ける。

可能性にかけると言うことは、賭けた自分にムチを打つしかない。

そんな自分にムチを打てず、逃げ回って、立ち向かおうと決めた瞬間、後追いのように助けてくれたのは他者である。

 

存在を大きくすることが目的ではない。

存在を認めてもらうことが目的ではない。

 

しっかりとやるべきことをやれば、存在は勝手に大きくなるだろうし、存在を認められることにもなる。

 

上には上がいる。

親友が言っていた。

オーバーキル(相手を致死に至らすぐらいの攻撃)ができるようになるまで…

自分の出力することに対して、そう言っていた。

 

出力することを見る相手、それを受け取る他者その出力することにチカラを込めて、存在を込めてこそ、相手に影響を及ぼす。

 

その為に、それまで、それからも、やり続けること。

 

生半可な気持ちでやり続けるのではなく、覚悟して。

新しい道を選ぶと、その広がる道の分だけ、可能性の分だけ、何かを失うかも知れない。

責任を持つ、自立するということは、そういうこと。

 

それをやり続けたくなる情熱、それをやり続けるチカラ、ただ自分だけではなく、他者が与えてくれる機会。

 

そして居場所は自分で作る。

 

今日のこの空間に、誰一人として欠けてはいけない。

だからこそ、その役割を果たすこと。

すべての人が、すべての役割があるように、その役割を認識して果たすこと。

 

やると決めたのだから、後戻りはしない。

何度も食らいたくない。

強烈な稲妻を。

逃げ回れず、受けるしかできなかった。

強烈な一撃を。

心がズタボロに壊れた。

粉々になった残がいに、キラリと光るものを見つけた。

 

それを今まで大事にしてきてなかったから、ズタボロになってしまったとわかった。

 

ズタボロになってまでキラリと光るものは、新しい道までも用意してくれたのだ。

 

やるだけ。

楽しんでやるだけ。

可能性が増えていく。

賭けた自分にムチを打っていく。

 

 

 

 

ポジティブって…

『ポジティブ(前向き)でストイック(厳しい)ですよね』と言われ

『んー、これが自然体なんだけどな…』と心の中で思う。

 

思ってみれば、確かに前向きな捉え方をしている。

すべてのことを瞬時に、そう捉えられることができるわけではない。

 

自分を取り囲むすべての事象は、ただ現れるだけ。

その事象に対して、自分が反応しているということ。

 

どんなに自分が思おうが、【その事象は変わらない】。

 

その事象に対して【どう反応するのか】

そして、それは自分が【どうかできることなのか】などを知っておけば、【前向きに捉える】ことができる。

 

ということをわかっていても、すぐにできるわけではないので、いつも【クセ】のように反応してしまう。

 

【いつものように反応してしまった】と気がつけるか?が大切である。

自分で自分の【クセ】に気づき、気づいたその時から直していく。

そうやって、意識から無意識に落としていく。

 

と、書きかけて、時間が経ち気づいたことがある。

 

【前向き】に捉えることをし続けることと合わせて、していることがある。

 

【0ではない可能性に向かっている】こと。

同じようなことではあるが、少し違うのは【起きる前のことに対して、自分で結果を決めてしまわない】こと。

それが【0ではない可能性に向かっている】ことになる。

 

起きる前から、あーだ、こーだと結果を決めて進んで、やっぱり、、、と思うのは愚の骨頂だ。

望んだ結果になった上に、やっぱりなどと嘆いたり、悔やんだりしたりしてどうする?

まだ結果は出ていない。

最大限の努力ができる。

最大限に動ける。

ある程度、予測のつく事かもしれないが、予測がつくのなら【予測を超えるようなことをしてみる】。

 

 諦めるとは、明らかに観ること。

明らかに観た上で最善、最大限のやれるべきこと、それらを超えてできることをやってみればいい。

 

その為に、前を向いている。

【事象】に対して【どう思おう】が【どう捉えよう】が構わない。

起きる前のことは、まだわからないことなのだから、いいように考えれば(捉えれば、想像すれば)いい。

某漫画であった『諦めたら試合終了』という言葉もそういうことだと思う。

 

人生の中で試合終了は、生が終わるということ。

生が終わらないのならば、楽しめばいい。

 

たった一度きりの人生。

楽しもうよ。

じゃあ、またね

今日1日その瞬間、あなた(たち)と楽しい時間を過ごせて嬉しかった。

楽しかった。

ありがとう。

 

という願いを込めて。

また会える日までを楽しみにしていると。

 

本当に心から言葉が滲み出ているから、『じゃあ、またね』の響きがいい。

 

別れ惜しく、せつなく、儚い。

詰め込まれた思い。

 

そんな関係をたくさん作ろう。

 

『お疲れ様ー』とかではなく『じゃあ、またね』

 

誰かが放ったその言葉を耳にして、そう感じたんだ。

ああ、いい響きだ。