人生の天気図
生きることについて、様々な表現をしている。
役割演技(ロールプレイングゲーム)や泡爆弾(バブルボムゲーム)だけではないが、どれも完全没入型(フルダイブゲーム)となっている。
要は気づきにくい(もしくは気付かない、気付けない)ことがほとんどである。
生きるというゲームの一番難しいところは、目的が明示されていないということ。
もし目的がわかったとして実際、その目的が正しいのかという判断を何を基準にするのかなどで変わってくるなど。
だからこそ、存分に愉しめるゲームである。
目的は自分で決める(それが正しいのか、間違いなのかは、自分自身がよく知っている)。
目的に向かうにあたり、様々な催しが用意される。
そして、目的に向かって進むにあたり、手段も色々と用意されていて、どの手段を使い、どのように進むのかも自分で決める。
全て自分次第なのだ。
ただ助言であったり、啓示、預言などはたくさんある。
それも気付くかどうかである。
生きることが航海ならば、船に関わること全てが自分自身である。
船には船長を始め、船員たちがいる。
船長一人で航海をするには、船員たちの役割を一人で担う必要がある。
目的地にたどり着くためには、地図を見なければいけない。
自分がどこに居て、目的地までどの道がいいのかなどを考える必要がある。
ただ闇雲に進めばいいというものではない。
また、航海(以外にもあるが)には天気が大きく関わってくる。
その天候で波の状態が違っていたり、風向きが違っていたり、チカラを入れるところ、チカラを抜くところ(楽をするのではなく、蓄えるためとか休むためとか)が必要になってくる。
その天候は色んな啓示から読み取れる。
一番、身近なのは占いだろう。
特に星占いと言われる星読みの占いに関しては、当たるとかどうとかではなく、今の星の位置からどのようなことがあるのかを予測している。
天気予報のようなものだ。
天気予報と言っているが、天気情報に過ぎない。
明日は雲が通過するから、雨が降りますよ(降ることが予測できます)ということなどを数値化しているのが天気予報。
星読みは、星の位置からこのようなことが起きやすいですよと言っている。
ただ数値化はしていない。
それ以外にも、たくさん使える啓示はある。
タロットカードやおみくじなど、ある程度、自分が指針を立てるのに使いやすい啓示を使えばいい。
自然で言えば、月の満ち欠けも使える啓示である。
自分自身の予感も啓示の一つと見受けられることができる。
これらの啓示は、自分が目的地に向かうために張っている(気にしている)情報で、それ以外の情報は基本的に入ってこない。
ただ、油断していると不要な情報を入れてしまう。
情報社会と言われるほど、インターネットが普及して情報が溢れかえっているからである。
取捨選択だけでなく、不要な情報を入れないようにすることも大切である。
多くの情報を手に入れることで、多角的に判断できるのだが、その情報を見極めるチカラが必要になってくる。
情報を読むチカラ、見極めるチカラ、そこから導く航路、様々なチカラが必要になる。
これらのチカラは、即身につくものではない。
情報を読み、見極め、航路を決め、進み、違っていることも多々ある。
そういった間違いが、『これだ!』という答えにたどり着く勘が働くようになってくる。
目的地にたどり着くために、船を漕ぐことをしながら、天気を読み、航路を立て、海図を読み、少しずつ進んでいく。
大航海時代の船長のように、あの大陸にたどり着くことを夢見て
ノルカソルカ
おそらく、このブログに書いてある記事のほとんどは同じようなことなのだろうが、それは同じことを思い続けているからか、その繰り返しを手離せていないのかも知れない。
ただ言えるのは自分自身が体験していないことや見えていないこと、感じられていないことなど憶測でしかないことを言葉にしたくないから実体験に基づいたことが多くなる。
という前置きをしておく内容。
人と話していて、気の持ちようが違うとか波長が合わないとか、相手との間に何か感じるモヤモヤしたこと。
それはお互いの世界(舞台)が違っているから。
言語は同じでも、相手の言っていることが伝わったとしても、その微妙ではあるが感じる違和感は、世界が違うことから起こる。
海の魚が、川で生きられないように、同じ魚だとしても生きられないのだ。
つまり、合わないとなる。
ただ、そういう時こそ、好機であることは間違いないと言えよう。
もちろん、先見の目を持って危険予知をすることは大切ではあるが、目の前に来ることのほとんどが自分の選んだことで、次に選ぶことで、自分の進みたいところへ行けるのか、また同じところに戻ってくるのか。
分岐点である。
『ノルカソルカ』
のっても、のらなくても、全て自己責任である。
だが、日々同じような選択をしているクセがあるので、それを選んだとしても必ず別の道に行くわけでもなく、もう戻れないわけでもない。
もちろん、もう戻れないこともあるし、急な切り替えになることもある。
だが、どちらにしても必要なことしか起きないので、その選択を間違えると繰り返すことになる。
選んだことのない選択肢を選ぶ機会というのは、冒険のようなものなのだ。
知らぬ道を通るので、迷ってしまうかも知れない。
予想以上の何かが襲ってくるかも知れない。
また慣れないことなので、心身共に負荷がかかることは間違いない。
だが『ノルカソルカ』なのだ。
ノれば、思っているところへ行くかはわからぬ。
しかし、その不安以上に思っているところに近づく大きな一歩になる。
ソれば、いつもの通りに何もなく安心できる。
しかし、その安心は幻想なのかも知れない。
『人生は博打』だと思う。
博打と言われるものに、どっぷりハマったこともなければ、全くしたことがないわけではない。
どのような勝負事も、ただ単に賭けているわけではない。
結果は勝ち負けとなるが、負けるためにする勝負はない。
勝つためにどうするのか、色んな情報を仕入れたり、法則を見つけたり、場を読んだり、自分は常に冷静であることであったりする。
とてつもないチカラがその勝負事に寄せられている。
人生も同じようなことである。
ただ、勝負事の相手は他人でもなく、機械でもなく、己自身。
己に賭け、己が動き、己にとりまく環境、流れなどを変えていく。
『ノルカソルカ』はそのようなことなのだ。
ノる人が偉いわけでも、ソる人が偉いわけでもない。
どちらにしろ何かを思った時点で、賽は振られているのだから。
過去記事を振り返って
はてな運営さんから1年前に書いた記事を振り返りませんか?
とあったので『情報とは』という記事を読み返してみた。
ここ最近、書いたバブルボムゲームに繋がっている記事であった。
情報を流すことに関して、人から得た情報は流すなということと、その『情報源(ソース)』は開示するものではないということを書いた。
某掲示板で、『情報源(ソース)は?』ということを聞いているのを見たりするが、その情報が信用するに値するのかを見定めるために情報源の開示は必要になる。
だが、そのようなことではなく、その情報を得たことによって不利益を被ることがあったり、得をすることがあったりしたりする場合、情報源を明かすことで、情報源に被害が発生することもあるため、情報源は不明にしておくべきだと思っている。
情報源の立場であれば『そこは言うなよ』となり情報を振りまく人には『あなたには情報を提供しない』となる。
バブルボムゲームの時は、情報源であったため自分のところで爆発してしまったという話しであるが、その話しの件も情報源を明かしていなければ、爆弾は膨らみまくり、いい形で爆発していたと推測する。
情報源を明かされたお陰で、爆発して被害を被ったけど、自分にとってどうでもいいことに関して火を付けないことがいいと体験した。
情報とは何かの答えを書いてなかったが、情報とはエネルギーだと思う。
武器だとも思う。
情報が人という形を作っているのかもとも思う。
情報社会と言われる世界、ところ狭しと情報が溢れているからこそ、情報の取捨選択、情報の見極めなどの能力は重要で、不必要な情報は持たないことが大切である。
忙しさ
かつてないぐらいの忙しさ。
好機という列車を待っていると、前回書いたのだが、どうやら乗っているらしい。
乗った確証はないのだが、間違いなく乗っている。
しかも各駅停車の列車ではなく、急行か特急。
その流れの速さに自らを合わせていく。
成りたい自分、成るべき自分を明確に想像でき、その成った自分なら今をどう過ごすのかを考えると、全て通過点でしかない。
一度通過したはずの道。
なので、全て対応できる。
成った自分なら、対応した事ばかり。
こういった視点を持つことで、客観的に見ることや俯瞰的に見ることができる。
主観である楽しさだけでなく、客観的や俯瞰的に楽しめる。
客観的に見ても、俯瞰的に見ても、未だ来ていないことは新鮮である。
未来の自分であれば起こる出来事は全て体験済みなので、慌てることはない。
忙しいのにもやがて慣れたり、過ぎ去ったりする。
目の前のことはこなすこと、その先にはこなしている自分がいる。
焦点を現在に合わせるのではなく、成っている自分を想像して、そこに合わせること。
その忙しさも愉しめる。
忙しいことで、大切なことを失ってはいけない。
忙しさを愉しめるが、常に学びの精神を持っておくこと。
ただ単に列車に乗っていれば目的地に着くというわけではない。
列車に乗っている間に、目的地に着いた時にする準備をしておくこと。
そうでないと、目的地にたどり着けないこともある。
列車に乗ったまま、どこに行くのやらわからなくなり、結局振り出しに戻ることもある。
目的地に着いたが降り方がわからないこともある。
降り立った目的地で、やるべきことが、やりたいことが何だったのか、どうやってやればいいのかわからなくなることもある。
一歩でいい、1つでいい、少しでいいから、成った自分に近づくことをしていく。
コツコツとやるしかないのだ。
飛躍するのは、そうやってコツコツしてきたことが積み重なり、化学変化により爆発が起きた時だろう。
そこは他力による。
自力でその境地にはいけないのだ。
他力があるからこそ、自分という存在が生かされる。
他力とは、他人の力ではない。
ご縁のチカラ。
忙しい中であろうが、この他力は常に作用する。
忙しくなって心に余裕がなくなってしまい、列車に乗っていること、学びの精神、他力によるご縁などを忘れてしまわないように気をつけたい。
生み(作り)出すということ
アーティスト、クリエイターと呼ばれる人たちは、他と比べてどうなのかということよりも、自分の内面と向き合い、客観的に見つめ、そこから抽出される一滴、一滴の精製された自分の魂を加工しているのだと感じた。
言い換えればアートやクリエイトするということは、自分の中にある『思い』であったり、自分自身の『魂』なるもの、自分自身を見つめ、それを何かで表現することである。
例えば絵描きが居て、目の前に広がる風景をキャンパスに描いたとしよう。
それを正確に描くことが大切なのではない。
絵として、どうこうという決まりはあるかもしれないが、それは他者が決めた決まり。
だから、その決まりに則ることはない。
ただ作品として決めるのは自分ではなく、他者であることを忘れてはいけない。
その作品として描いた絵に、他者は何を見ているのだろうか?
正確に描かれていることだろうか?
他者が何を感じるのだろうか。
言語化しにくいところではあるが、その言語化しにくいことを言語化して、自分を知ることで、その描いた絵から読み取ることができる何かをしっかり見ることができる。
描いた絵から読み取れるのは、美しい風景ではなく、その風景を見て、描いた人が何を思って、その風景を描いたのかということだろう。
ただ単に美しいと思い描いただけの絵であれば、他者はその絵に惹かれることはないだろう。
他者が惹かれるのは、描いた絵を媒介として、描いた人から伝わる何かである。
その何かがしっかりと描く自分自身が知っておくこと。
上手い下手という技術的なことよりも、伝わる何かをその作り出すものに込められているのか、そしてそれが作り出すものから溢れ出ているのか。
自分自身を知らなければ、伝えたい何かをそれに込められない。
だから自分自身を嫌というほど見ることになる。
自分自身と向き合うと、かなり精神力、体力を費やす。
時間も、お金も、全てをつぎ込んで、自分というものを作り出すから。
生みの苦しみとは、そのようなことからの言葉なのかもしれない。
0から1を生み出すともいうが、それは何も『ない』ところから、『ある』を作り出すからではなく、その『ない』と思っていたことや認識から少し『ある』を引きずりだす感覚。
何も『ない』のではなく、『ある』けれど『ない』ように感じていることを、しっかり『ある』状態=表現すること。
表現、どちらも『あらわす』と読む通りに、『目に見え(視覚化)、それを相手(の心)に伝えることができる』状態なのだろう。
その表現することは、自分の魂であり、世界観であったり、何であれ自分そのもの、自分の中にある魂を相手に伝える。
技術的なことはもちろん、それに必要な道具や費用は必要であるが、どんな技術が最高であろうとも、素晴らしい道具を持っていようが、かけられる費用があろうが、その生み出すものに対して、魂を込められるかが重要である。
魂を宿らせることができるのであれば、技術、道具、費用などは、そこまで重要ではないと言える。
『これっ!』って言える確固たる信念を見出すことから。
もちろん、表現するにあたり、対象がどうなのか。その技術や道具で表現できるのかという課題はあるものの、それは魂を込めることができるようになってから。
技術があろうとも、道具が揃おうとも、魂を込めることはできないのだ。
生み出すこととはそういうことなんだということが、よくわかった。
自分の魂を表現するのに、正解も限りもない。
果てしも無い自分という宇宙空間に、表現したい何かを見つけ、それを作り出すことに埋め込むのではなく、練り込んでいく。
そのものが自分ですといえるように、練り込んでいく。
そうやって生み出された(作り出された)ものが、他者から作品と呼ばれるものになるのであろう。
仕事から生き方、在り方に
職場の研修にて、ロープレについて話しがあった。
この研修の講師と一度ゆっくり話してみたいと思う。
ロープレとは、ロールプレイングの略で、ロールプレイングとは『役割を演じること』である。
そう、仕事とは役割を演じているのだ。
仕事に従事するからには、その役を演じることが必須であると。
役割を演じている自分と、演じていない(仕事ではない時の)自分とは違う存在だと認識することで、いつもの自分に役を演じている時のことを持ってこないようにできる。
と言う話しをしていた。
そうだよなーと同感していた。
また、人に対して何かをする時、意外と気を使っているということを言っていた。
特に目を合わせて話すことは、気を使うそうだ。
特に初対面の人に対して。
それはお互いに情報がなく、過去の経験則からお互いを図ってしまうことが多いから。
それを改善するには、情報開示や相手にどう認識してもらう(させる)か。
相手がどう思うのかは、自分が相手の立場ならどう感じるのか?
相手の立場になって考えることが正しいわけではないが、あながち間違ったことは導かれない。
そういう時に心理学を知っていると人間の特性から、こうすればこう感じるという普遍的な行動を取ることも出来る。
心理学はそう言った小手先の技術のためにあるわけではないが、技術として使えることが多い。
心理学の本質は、人を知ることで、臨床心理学はそう言った心理学で得たことを実践するなどなど…
人は関わり合う中で生きているため、その特性というものが法則としてある。
但し、必ず適応するとは限らない。
自分が相手に対する言葉や態度で、相手が自分をどう見るのか、受け取るのかがわかっていれば、対処のしようがある。
確かにそうだと思う。
だが、本質は違うと思った。
役を演じていることも、認識のことに関しても、相手のことを考えてすれば、自ずと答えが出てくることだと思う。
自分がどう在りたいかを考えること。
自分を傷つけるものは、自分以外いないということを知らないからだ。
と言われても、わからないから演じていることを思ったり、相手との関係性をどう作っていくか手段から入るわけだ。
自分がどう在るのか、在りたいのかを考えることすれば、人生は楽しく生きることができる。
また、楽しいと愉しいの違いを簡単に言っていた。
たかが、漢字の違いだけだろうと言えばそれまで。
だが、何故違う漢字なのだろうか?
こういった疑問を持つことが大切である。
その講師が説明したのは、『楽しい』とは与えられたことを楽しむことで『愉しい』とは自分で何かをして愉しむことと言っていた。
受動的か能動的かの違いである。
たのしむことは、どちらもすればいいと思う。
だが、楽しくないと感じることに対して、愉しむのは能動的なことである。
何とも…
話しの要点を噛み砕いて話してくれていることには感心する。
利己ではなく、利他であることなどの話しも少しあった。
他者のほとんどは、存在を認められたいのだ。
承認欲求というやつにしてもだ。
人は人との関わり合いの中でしか生きていけないと言っても過言ではない。
そういう風に、人は変化してきたのだ。
森の中で弱い存在であった人が、生きていく方法として、社会という枠組みを作り上げてきた。
その社会の中で、人はそれぞれの役を演じ、人は他者のために、社会のために生きている。
その生き方がいいのか悪いのかは別として、この世に存在しているということは、存在していいから存在している。
そのことに対して、他者に存在を否定されることはない。
自分の人生は自分しか生きれないのだ。
代わりなど居ないのだ。
そして、他者と関わり、色んな選択をして、今最善の状態、状況で常に存在している。
いつでも真理というのか、基礎、基本などは、至って単純かつ明快である。
難しくしているのは、社会でも、他者でもなく、自分なのだ。
どう在りたいか、一度きりの人生、愉しんでいこうと改めて感じた。
かけ離れても、離さない現実
もう感覚が変わってしまうと、元の、いや馴れ親しんだ感覚には戻れない
戻れないのもあるが、戻るという選択肢を選ばないようにしている。
「選ばないようにしている」
意識して選んでいない。
完全に馴れ親しんだ感覚から離れているわけではないから。
まだ片足は、馴れ親しんだ感覚に足を突っ込んでいるのは間違いない。
だからこそ、馴れ親しんだ感覚(俗世の感覚)の人たちに『別れの準備をしている』。と自分の行動を見ている。
ただ別れられない、別れにくい繋がりに対して、新たな付き合いをしていこうともしている。
特に血縁関係。
その血縁関係の繋がりは、唯一馴れ親しんだ感覚と新しい感覚を持ち合わせることのできる繋がりにしている。
そこは繋がっておこうと決めている。
父、母が居て、その両親にも両親が居て、自分がこの世に誕生するまでに様々なご縁があり、『今ここ』に存在している。
また幼少期から共に生活をした兄弟は、他者が知りえない自分を知っている。
年を毎に、その縁が大切に思えるようになった。
大きな愛を与え続けてくれている親の存在は、非常に大きい。
いつまでも親でありながら、確実に老いている。
そして兄弟の環境も変わり、話す内容も変わっている。
年老いた親の面倒をどうするのかということが現実味を帯びてきたこともあるだろう。
祖父母のことを世話する親を見て、いつかそれが自分の番になり、いつか自分が世話される立場になることを思うと居た堪れなくなり、親がまだ元気な状態にできるだけ関係値を再構築すると共に、将来の話しをしている自分がいる。
親のことを考えると兄弟の存在があり難くなる。
一人だと全て一人で抱えなければいけない。
伴侶がいようが、いまいがそれは関係ない。
核家族化が進んでいるため、親を兄弟で看るということが少なくなり、自分が生活をすることでいっぱいになり、親を施設に入れるようになることが多い。
もし自分なら施設に入りたいだろうか?
迷惑を掛けたくないと思うと、施設に入り、お金を払って世話をしてもらうことになる。
子どもには迷惑を掛けたくないが、施設の人ならいいのかなど、横道にそれる思考が走ってしまうが…そこはお金という対価が解決してくれるのだろう。
何とも複雑な枠組み(システム)だと感じる。
合理的ではないと感じる。
家族みんなで看る方がいいのだろう。
昔はそうだったのだ。
家で生まれ、家で死んでいく。
家族、親族、友人、近所の人たちに囲まれ、そういった集団(コミュニティ)の中に存在していた。
その弊害もあるだろう。
それがあるからではないが核家族化が進行した要因の一つだと思う。
そんなことを考えながら、兄弟と話す時間を増やしている。
結束すべきとまでは思わないが、もう俗世と離れていっているので、そういうところは感覚を合わせておこうとしている。
それは自分がこの世に誕生し、『今ここ』に存在していることをあり難く思うからこそである。