新しい環境
仕事の往復時間にブログを書くことが多かったが、異動になり職場が家と近くなったことと職場の環境が変わったので、書く間を見つけられずにいる。
異動前の職場では人間不信に陥りかけた(一度、陥った)が、そこから離れれば縁の無い人たちだったということがよく分かった。
『飯を食いに行きましょう』と言っていた人たちすら、何の連絡もない。
『まあ、こんなものだろう』と予測していた通りで驚きもしない。
さて、新しい職場で目立って感じるのが【お山の大将】的な人たち。
いい年して『ありがとう』の一言も言えず、コミュ症的な感じなのに、えらそうにする。
『俺がここで一番偉いんだ』と言わんばかりの態度。
この業界では、どこに行っても同じような感じで、それが酷いか軽いかぐらいで殆どがお山の大将である。
私は媚を売るのが大嫌いなので、媚ずに上手に付きあう技術が必要。
ふと『朱に交われば赤となる』の言葉が思い浮かんだ。
コミニュティの中に入るということは、『郷に入れば、郷に従え』ということが暗黙の了解としてある。
郷に従わなければ、疎外感だけではなく仕事をする上でも支障が出てくることもある。
だが、そこに染まらないようにしておきたい。
コミニュティが形成された後、悪いコミニュティは入り口が狭い。
新しく入ってくる人たちと仲良くせず、そのコミニュティに共通することを話題とし、他を寄せ付けない(わざとではなく、自然とそうなることが多い)ようにしている。
日本が島国だからそういう文化なのだろうか?
そのコミニュティに入っていくためには、朱に交われば…とならなければいけないのか…
入りたくないコミニュティとどうコミュニケーションを取っていくのか。
しかもお山の大将ばかりのところに…
仕事でなければ、まず関わらない世界だと思う。
そこで仮面(ペルソナ)が出てくる。
演じること。
本当の自分に影響が及ばないように、鉄の仮面を付けて、コミュニケーションを取る。
鉄の仮面といえば、硬く冷たい感じがするがそうではなく、今までの仮面より自分を守るための強い壁というか、染まらないようにする。
全員がそうでないので、個人の良いところと付き合うというのもやっていくことが大切だ。
新しい環境というのは、何かと慣れるまでに時間がかかる。
それは色んなことを変えていくために、意識することが増えるから。
ただ新しいところには何かがある。
その何かを楽しみにして、『朱に交わろうとも、我を忘れず』でやっていけばいい。
痛い目にあえばいい。
声を大にして言いたいことがある。
『共有する』ってことは、人と関わる上で大切なこと。
何故、言わない。
何故、伝えない。
共有がないと困るのは、お互い様である。
共有されていなかったため、その場の対応で色んな問題を発生してしまう。
共有していなかったため、その人が知らなかったことで恥をかく。
共有っていうのは思いやりの一つだと思う。
政治や公的な場では事前に伝えることで、ことがスルスルと進むが、事前に共有がないとその場で言われても、答えられないということがある。
これを根回しという。
根回しについて昔、記事にしたことがあるが、大きな木を切るために根っこを切っておく。
根回しというと、いい印象をもっていない人が多いかも知れないが、そうではない。
ビジネスにおいても、何においても根回しは大切なこと。
根回しも共有も似たようなこと。
会社では『報・連・相』が大事と教えられ、報告する、連絡する、相談することを口すっぱく言うが、これは共有するということを分けて言っているだけだ。
そうすることで会社に守ってもらうことがある。
上司が助けてくれることもある。
だが、それは会社だけのことなのだろうか?
否。
社会の上でも大切なことである。
これは相手に伝えておいたほうが、いいと思う『思いやり』なのだ。
自分自身、いい加減なところがあり、共有し忘れることもある。
抜けていることや、だらしないところもある。
そうやって自分のダメなところをしっかりと把握しているからこそ、そうならないようにはどうすればいいのかを考え、対策することができる。
だが、周りに本当に共有しない人が多すぎる。
できるだけ、合わせるようにしているが、合わせることの負担は少なくない。
あまりにも酷い場合は合わせずして、共有していないことを指摘すべきか。
いつか共有しなかったことで、痛い目にあえばいい。
そうでないと人は、人に言われてもわからないのだろうから。
最高の最期のために
9月から新しい場所で勤務することになった。
昨年の12月から8月いっぱいまで、9ヶ月間お世話になった。
思い返せば、昨年9月からお店で勤務して、11月いっぱいで異動してから、ずっとやってきた。
勤務するには遠く、アクセスの悪い場所であったが11月いっぱい居たお店のスタッフが、自分とは合わないからと言うことで色んな難癖付けられ結果、出禁となった。
この仕事、この関連の仕事を昔からしているが、人生初めての出禁であった。
出禁となるまで、普通に話していたのに…
衝撃だった。
人間不信に陥った。
そんな最中、次のお店では前の店で出禁になった理由に対して気をつけてきた。
ただ気をつけていた以上に、そのお店のスタッフと距離が近くなり、自分のやりたいことのために、シフトを調整した結果、次のお店から人を変えてくれとお達しがあった。
それを聞いたのは8月頭。
異動とわかっていたからこそ、今まで以上の成績を残す努力をした。
飛ぶ鳥後を濁さず。
次にこの店で働く人が働きやすいように。
そこの会社と自分の会社の契約に傷を付けないように。
自分が気をつければ、たくさんのことが上手く回る。
無理をしているのではない。
いつからか上手に力を抜き、愉しめるようになっていた。
異動を願ったのは、店長だった。
最後の最後まで異動を知っている気配を一つも見せずに居たため、店長が異動になるのか確認を自分の上司にしていたことを後で聞いて、笑えるなと思った。
店長が最後に『お疲れ様です。またいつか…』なんて言ってたが、自分の内心で『こういう人になってはいけない』と確信した。
新しい勤務地では勝手が違うため、気疲れしたものの出足好調であった。
会社組織や雇われで働いていることに対して『本当にどうでもいい』と感じている自分を見つけた。
それは何を求めても、返ってこないことを知ったから。
だから求められても、自分のやりたいことに響かない範囲でしか返さない。
それがいいのか、悪いのかはわからない。
ただ、この会社組織で骨を埋めることはないと確信している。
骨を埋められるような会社ではない。
上司を見ても、働いている人を見ても、その答えしか出ない。
だからと言って、辞めるという選択肢はない。
何だろう、達観していると言えばそうなのかも知れない。
興味がないと言えば、そうなのかも知れない。
今までとは何かが違う。
完全に違っている。
既に変化してしまっている感覚がある。
瞑想状態に近い。
それでも仕事の目標があり、それを追い求めていく。
住む世界の違う友だちとは違い、仕事は全力でする。
合間は自分の生き方について想像や妄想、いい刺激になるようなことがないか、面白い人が居ないか、面白い人と仲良くなれないか、いい出会いはないか、そうやって自分の生きることに役立つことを考え、探している。
休む間はない(いらない)。
生きるということを精一杯、一生懸命、全力で愉しむ。
そのために時間はあるのだ。
自分という映画の幕が閉じるとき、残せたモノコトは何なのか、悔いなき人生と言って笑顔で幕を閉じたい。閉じる。
そのために全力で生きる。
最高の最期を迎えるために。
違いを認める
『もうこちらから連絡しない』と決めた相手に連絡をするか、しないのかという選択する出来事があった。
【連絡をしなければ】
連絡をしなかったことで、この先、お互いに面倒なことになるのだろう。
また相手から連絡があるのを待つことになる。
【連絡をすれば】
連絡をしないと決めたことに対する清算が待っている(和解になるのか、再び決裂するのか不明)。
清算の先のことまで考えられない。
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待つということは自分の流れではなくなるので、連絡をすることを選んだ。
一度、言いたいことを言う機会と思えば、そういうきっかけにすぎないと思うことにした。
連絡をし会って話した結果、どうでもなかった。
ただ、住む世界、舞台などが違うことがわかった。
彼には守るべき世界があり、それは一人の世界ではない。
その部分は、はっきりと違いを感じた。
もう定期的に会って、遊ぶことも、言葉を交わすことも少なくなるのだろうな。
そんな気がした。
別に彼が悪いわけではない。
彼の世界観が見えないというか、世界観を知りたいとは思わなかった。
魅力がないのだ。
それはお互いの違いからくるものだろう。
大勢の人は安定を求める。
だが、安定とは何なのだろうか?(一般的な解釈は求めていない)
自分自身は不安定な世界で生きていると認識しているので、ありとあらゆる発想や予測、予想をして、今の言動を変えていく。
安定とは、そういう変えていくことではなく、考えずにただ繰り返していくだけなのかも知れない。
その合間、合間に楽しいと思うことがあり、それらに全てを注ぐのだろう。
そういう世界でも生きてきた。
だが自分に合わなかった。
そういう意味で負けた。
一見、安定している方が楽に感じるが、それはそこが合う人だ。
未来は不安定(不安)であり、希望に満ちていると感じる。
今から未来を創り出せるから、希望に満ちている。
未来に保証はないから、不安定(不安)に感じる。
明日、日が昇らないこともある。
未来に確証はないのだ。
それをどう捉えるか、どう見て、どう行動するか。
一生涯、それを続けていく。
年老いて、もう今のように身体も頭も動かない日がやってくるがその時が引き際である。
彼らはそう考えていないのかも知れない。
今の仕事から導き出される未来を見て、色々と考えているのだろう。
雇われるということは、その仕事が出来なくなったら終わりなのだ。
彼は言っていた。
テンション(気分)が高まらないと仕事ができない。
適当に(聞いた話ではほとんどの時間)手を抜いて、仕事をしている。
仕事の合間に、自分の生き方ややりたいことなどについて、常にアタマを動かし、仕事はチカラを抜いているが全力で取り組む。
彼らを否定はしない。
その生活を選んだのは彼らであり、それを納得して生きているのだろうから。
もし少しでも不満があるならば、少しでもいいから創り出すことについて、アタマを使ってみて欲しい。
人との関わりや、人と話す話しを変えてみたり、書物を読んだりして、自分の人生に少しずつ色、花を添えていって欲しい。
誰かの歌であったが、自分がやったことが、人に伝わり回り回って自分に返ってくるというような歌が…(これも解釈の違いがあるかも知れない)。
まず簡単なこととしては、見方を変えてみること。
これ、幸いなこと
今まで自己紹介をしていないし、できる限り特定出来ないようにしてきたが、多少なり公開しておかないと、文章が書きにくいので、公開したいと思う。
しかし、どこまで公開しようかと迷うところである。
どうでもいいかも知れないが、見てくれている人の中には気になる人もいるかも知れないので。
私は関西圏に生息する、アラフォーの男性である。
仕事は一般的にいう会社員(サラリーマン)で業種は販売業になる。
仕事や生活の上で役立てたいと心理学の勉強をしている。
ちょうど、東日本大震災の時期からスピリチュアルブームが訪れ、ずっとハマって、陰謀論などにもハマりつつあったが脱出した。
元々、哲学や心理学に興味があったため、生きることについて考えたり、自分自身の体験から見えること、感じることが多い。
それをブログに書き留めている。
男性、女性は性別が違うように、感じることも思うことも違いがある。
ブログではできる限り普遍的な話しを心がけている。
仕事だけでなく人と関わることが多いため、いっぱい悩んできた。
今でも悩むことはあるが、それは自分にとっていい機会だと認識している。
最近では、こうしようと心がけることを仕事で実践することが多く、その反応から自分がどういう言動だったのか、相手にどう与えたのかなども見るようになった。
使えるモノゴトは全て使い、成長の糧にしている。
使うという表現が良くないだけで、生きるということは、常に本番であり、常に実践できる場である。
よく『トライ&エラー』というが、やらなければ(トライしなければ)、失敗など(エラー)はない。
だが、生きるということにおいて、間違いや失敗はない。
望んだ結果にならなかったという事実があるだけで、その事実から別の方法などを試せる。
もちろん、やってはいけない失敗もあるが、死を自ら選ばない限りは、何度も挑戦できる。
もし失敗、間違いというのがあるのであれば、死を自ら選ぶということだろう。
また、死を自ら選びたくなった場合は、死んだと思いやってみることも大切だ。
生きている上での問題や何かしらのほとんどが自分で何とでもできることばかりで、その自分で何とでもできることを他のせいにしていることが多い。
他責にして何かが変わるのであればいいのだが、他責にしたところで、同じことは繰り返される。
その他責にしたいことなどから、逃げたり、それを投げたり、諦めたりすると、気がつくように姿、形を変え、わかりやすくするために厳しくなっていく。
その機会をサンダーボルト(落雷)と呼んでいる。
人生を振り返ることは少ないが、今思い出せば若かれし頃に色んな年長者が、こう言ったことを言っていたことを思い出す。
私のブログを読んで何かを感じて、試してみて変化があれば幸いだと思う。
脳を使う(考えるということ)
思考(脳)の省エネ化という話しを友だちとしていた。
思考(脳)だけでなく、人間(動物も?)は楽することに対して、エネルギーを使ってきたと言っても過言ではない。
便利=楽という形で、様々なモノやコトを生み出してきた。
全てにおいて、面倒なことをしないように、変化してきたが快楽(欲求)はずっと求め続けている。
考えるというこは、脳が膨大なエネルギーを使うことになり、そこにエネルギーを使わないでおこうと考えることをしようとしない人が増えてきたように見受けられる。
また、人(動物も)は変化を嫌う性質がある。
何故なら、今までと勝手が違ってくるからだ。
今まで意識したり、気にしないでよかったことに対して、意識するということにエネルギーを使うから。
だが考えることをやめてしまうと、考えられなくなり、愉しめなくなる。
与えられたことに対して楽しむことはできても、生み出すことに対して愉しんでやることが面倒になる。
生みの苦しみとは、そういうことを言っていないのだろうが、生むことの苦しみとも言えよう。
何にしろ、生み出すというのは、先日の自分と向き合うで書いたことも含まれる。
だから苦しいこともあるがそればかりではない。
自分が生み出したことで、周りに何かしらの影響を自分や周りに与えること、周りから認められること、周りとの関係性などが変わってくるなど様々な変化がある。
生み出すに対して自分の意図とすることを、他者にわかってもらえるというのは、喜びや自信に繋がっている。
喜びや自信は一種の快楽(欲求)だろう。
与えられることに対してエネルギーを消費して快楽を得る(欲求を満たす)のか、エネルギーを使って生み出したことで快楽を得る(欲求を満たす)のかの違いではないだろうか。
アーティストやクリエイターと呼ばれる人たちは、エネルギーを使い生み出し続けている人だろう。
別に与えられることに対してエネルギーを消費することが悪ではない。
そういう人たちが居るからこそ、アーティストやクリエイターは存在している。
ただ自分の人生に対して、惰性(周りの影響)によってエネルギーを消費して快楽を得る(欲求を満たす)のは、何かあった時の対処や対応ができなくなる可能性が高い。
また他者に影響を与えなくとも、自分の人生を創っていくことをせず、不平不満などをいい、他者を尊重しないどころか、蔑み、自己を保とうとするのは違う。
よく『面倒臭い』という人がいるが、面倒臭いことをしていたり、面倒と感じているのは自分で、物事は面倒な存在ではない。
それを言い換えると思考することが面倒臭いと言っているのだ。
だが、その面倒臭いことの中に、機会や時期がたくさんある。
変えていくことを繰り返ししていれば、変わっていくことに面倒臭いなどという抵抗は少なくなってくる。
別の話ではあるが、ちゃんと人の話しは聞いた方がいい。
自分に取って必要かどうかは熟考した方がいい。
面倒臭いの一言が、今までのあなたを創り出し、これからのあなたの人生は惰性なことが続いていく。
思考することにエネルギーを使う練習をすることで、色んなことが見えてきて、面倒なことはそんなに続かないことを知るだろう。
生み出すことに苦しみを感じることがあったとしても、その生み出したことから受ける恩恵は苦しみを超えたかけがえのないこととなる。
そして、苦しみすら愉しめるようになる。
それは負荷が掛かることに対して、快楽(欲求)が満たされるということではなく、それだけ色んな視点が、視野が、思考が発達するということ。
発達することで、可能性が広がる、選択肢が増える。
是非、少しずつでもいいので、色んな視点でモノゴトを見てみると気がつくことがあると思う。
自分と向き合う
さて、『やる』ということが、しっかりと浮き彫りになった時に、『やらない』を選択する自分と向き合うことになる。
【どうもこういう精神的な話しは胡散臭く聞こえるので嫌なのだが…】
はっきり言うと、(胡散臭い)精神的な話しは現実から離れていきやすい。
何故なら、この話しの重要なこととして【想像する】ということがある。
想像はアタマの中でどんどん進むのだが、それから実際に行動しないと、どんどん現実から離れていくため、訳のわからない世界に入り込んで、神やら仏やら何やらのせいにしたり、自分自身が自分自身に暗示をかけたり、、、どうしようもなくなる。
そうなりたい人は、お帰りください。
現実に何か(自分自身)と戦い(向き合い)、勝ち続けたい(克ち続けたい)人に対しての話し。
前回の記事のことは、わかったけど…
でもと二の足を踏むことがある。
特にその『やる』ことが苦手であったり、嫌いであったり、『やりたくない』という気持ちが強い時、二の足を踏む。
この『やる』ということだけになった時『やらない』という選択をすることを【メンタルブロック】や【固定概念(少し違うけど)】と一般的に呼んでいる。
『やらない』と選択してしまうことを『やる』となると怖じ気付いてしまい、全然気分が高まらない、乗らないとなる。
そりゃそうだ。
そうなる理由の多くは、小さな頃や今までに刻まれた(自分で刻んだ)傷が深く、古傷のようにその時に嫌な記憶として甦り、『やめておこう』→『やらない』となる。
それをどうやって『やる』、『やろう』と変えていくか。
ここからが大切なことだ。
【但し、全員が同じとは言えないため、自己責任でお願いする。】
幾つかの方法があるものの基本的には 、
・自分が何に怖がり、やらないのかを自分と【分かち合うこと】
・怖がる自分、やらない自分を【受け入れること】
・怖がる自分、やらない自分を【許すこと】
まず今、在る自分をしっかりと見ること。
その自分に評価をしてはいけない。
ただただ、在る自分を見る。
そして、自分自身が自分自身の全てを受け入れ、許すこと。
例えば、小さな子どもが挑んだ(やった)時に転んで傷を負っているが、転んだこと、上手くできなかったことを見るのではなく、それに挑んだこと(やった)ことを見てあげること。
その一歩進んだ自分を、やった自分を【認めること】
できるというのは、やるってことを続けた結果、『やり続ける』ことになる。
話しは変わるが、アルコール依存症とかアルコール中毒の人が、アルコールを断つために何をするのか。
それはアルコールをやめること。
『今日一日、アルコールを摂取しなかったな』と毎日、摂取しなかったなことを反芻するだけ。
と何かで言っていた。
事実か定かではないが、そうやって一つできること、できたことを認めることが大切。
自分自身に自分が『やったなー、今日はここまでできるようになった』と軌跡を見ること、『やる』と行動したことを認めることで、『やりたくない』から『やれば、できる』に変えていく。
まだ『やらない』と選択してしまう自分を否定してはいけない。それも自分であるから。
とは言え、否定はしないが『やる』ように【ともに歩むこと】が大切だ。
今まで、放置してきたり、目を背けてきたりしてきた自分としっかり手を取り、一人ではない(自分には自分がついている)ことを認識する。
何事も、自分に最後の最後までついてきてくれるのも、ともに居るのは自分自身だ。
この手の話しは、色んな自己啓発やコミュニケーションの書籍に書いてある。
正直、昔から自己啓発やコミュニケーションの書籍以前に宗教の教えとかにもある。
色んなところに生きるための助言が隠されている。
この話しが真理とは言わないが、真理というものがあるのであれば、至って単純明解な話で様々なことに応用できることであろう。
そして、わからない人にはわからないのだろう。