在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

本質はどこにある

下世話な話

 

基本的にテレビ、新聞などメディアから情報を手に入れないようにしている。
それはほとんど無駄な情報でしかないから。

 

最近メディアの情報に触れる機会が多くなった。
改めて『知らなくていいな』と思うことばかりなのだが。

 

猟奇的な事件や人としてどうなのかと思うような言動が、取り上げられている。

 

猟奇的な事件に関して、何故【断つ】という選択を若者がしようとするのか。に興味がある。
まだ始まって間もない人生を【自分の意志で終わらせよう】と思う環境があることに注目しているメディアはない。

 

加害者がどんな人物で、何故このような猟奇的な事件を起こすようになったのかや、被害者たちはどんな人物で何故巻き込まれたのかなどの詳細に目を向け過ぎである。

 

もちろん、そのような目の前にあることの方が面白いのだろうが、【何故若者たちがその選択をしようとするのか】の環境を見ないと、SNSで禁止ワードを作ったとしても減りはしないだろう。禁止ワードは、あくまで場当たり的な対処でしかない。

 

根源は生きる楽しさなどを感じる場を提供できていないことではないだろうか。

 

『一緒に…』この記号(キーワード)に含まれるのは、【その選択をしたくない】けど、そうでも言わないと『わかってもらえない、人に受け入れてもらえない、存在として認識されない…』などを心底思っていて、その裏返しでしかない。

 

その気持ちを利用したのが今回の事件である。

 

SNSの禁止ワード、投稿の削除などで何が解決するのだろうか?

 

人は常に孤独を感じている。
感じていない人もいるが、それは孤独ではないという状況を作り出しているから。

 

だが実際は孤独でしかない。

 

孤独ということがよいのか、悪いのかではない。
孤独が悲しい、寂しいという話ではない。
現実的に人は一人(孤独)であるからこそ、群れをなし社会を形成し、その中で生きている。

 

だがその社会の中で孤独感が強くなればなるほど、存在していることを認識できずに、自ら…【選択】したくもなるのだろう。

 

だからその最期ぐらい誰かと分かち合いたいという思いが生じるのだろう。

 

本当に【その選択】を選ぶしかない者は人に言わず、知れずに密やかに閉じる。
まるで、猫が自分の最期を知って姿を隠すように。

 

メディアはそういうことに意識を向けさせず、非現実的なことを面白おかしく演出する。
そういう行動が模倣犯を生み出したり、それ以上の猟奇的な事件を起こしかねない場を作っていることを認識しているのだろうか?

 

今回の事件で、世間が、社会が、国が、取り組まなければならないのは、こうして若者が【選択してはいけない選択】をしている、しようとしている環境を変えることである。

 

これ以上、犠牲を出してはならない。

 

少子化の問題があるが、それに拍車を掛けてしまうと、雪だるま式に【してはいけない選択】をする者が増えていく。

ただそこに在るだけ

おそらく自分が人(世界、社会)に対する思想、言動などが自分の世界を作って行くのだろう。

 

どんな人たちが居て、どんな場所に住み、生活し、どんな空間にしたいかということは、自分の世界に対して己が働きかけていくしかない。

もちろん他の影響もあるのだが、基礎を作っているのは自分自身の思想、言動など。

 

【すべてのモノゴトは、ただそこに在るだけ】

 

自分自身を含めたそれらに意味はなく、それらにどう反応して、何を選択して、どんな意味づけをしているのかだけがある。
もちろん『感じる』という機能が備わっていることから感情がある。
それもどう感じようが、自分次第であるが、どう感じるのかを変えるのは容易ではない。

 

そういうことから感情というものは、厄介な機能だと思う。
そして、この機能(感情)が人ならではの遊びの部分であろう。

 

感情によって選択肢を変えることがあり、感情によって変えたことも多いだろう。

 

感情とは一体…という話しは機会があるときにする。

 

要は、【ただ、そこに存在しているモノ、現れるコト】に対することから、自分の反応、選択次第で【どう見えるか(物理的だけでなく)、どう感じるのか】が、自分の世界である。
そして様々な存在の中で、そういった世界が広がり絡み合っている世界が、認識している世界である。

ただその認識が事実存在しているのかどうかは誰も分からない(この話しは別の機会に)。

 

人に選択するということが、備わっていることがどういうことなのかをしっかりと認識した方がよい。

 

その認識があってこそ、より自分の想い描く世界を作っていけるのだ。

その時…

先約がある時に、目の前に現れた急な機会が現れる。
重要度や長期的に見れば、その現れた機会は大きな分岐点、節目なのかも知れない。

 

だが、先約を断る理由としては弱かった。
それが例え今後に大きく響くとしても。

 

【基本的に約束は守ることである】

 

急ではあるものの機会を与えてくれたことに対して、素直に喜び、嬉しいことを相手に伝え、その気持ちは受け取るが、やはりこちらへ事前に伺いを立てることが大切であろう。

 

また、どの立場の人が言っているのか。
与えてくれた機会であるものの、それを取りまとめる人が何も動かず、何も言わなければ、、、言ったとしても『是非』、『何がなんでも』と聞こえない場合。

それは自分を軽く見ているとしか受け取れない。

 

先約がどういう約束なのか、その関係性を断る理由はほとんどない。
絆は、時間と行動で深まっていく。

 

私としては、約束したなら守れと思っている。
やむ得ない場合を除き。
約束は信頼に大きな影響を与える。
その信頼を失う可能性と、目の前に現れた機会がどうなのかなどを考えた。

 

基本的に先約があれば断るが、先約を断り急な機会を取るのかどうかとなると難しい。

 

人生は選択し続けるゲームであろう。
小さなことから、大きなこと、選択していないと思っていても無意識に選択していること、常々選択している。

 

何のために選択をするのか。
その選択した先に進むため。
では、どのような先なのか。
そこを明確にすれば、このような事態にも対処できると思っている。

 

超えていくために

殻を突き破る
自分を超える
自分に克つ

 

言葉にするのは簡単なこと。
だが、それを実際にするとなると、何故か気乗りしなかったり、(ブレーキを掛けてしまう)、怖じ気付いてしまったりする。

 

それは何でなんだろう?
例えば、この世界中全員の人から『いい(賛同される、賛成される)』と思われることはなく、その逆も然り。
ならば全員から『いい』と思われることも、全員からそうでないと思われことも考えなくていいのではないか。

 

それでも目の前の一人の『いい』かそうでないかの判断を怖がってしまう。

 

その目の前の人にそうでないと言われるのが怖くて。

 

その結果を聞かないことには、何も判断しようがないのに、そうでないと言われると全てを否定されているような気分になる、嫌われていると勘違いしてしまい、聞くのが怖くなることもある。

 

『自信がない』
その言葉に込められた気持ちは何なのだろう。
他から認められない恐ろしさ。
出てもいない結果(やらなければ結果はない)を良くないように想像して臆す。

 

他人に認められなければ、生きていけないのだろうか?
他が望む結果を出せなかった過去があるからだろうか?

 

どのような状態であれ、誰かに認められるために、生きているわけではない。幼少期に何かがあったとしても今とは違う。

 

認められることが目的なのか?
違うと思う。
人からの評価や評判欲しさにしていることなのか?

違う。

 

やりたい、そうあることに対して、他人のどうこうは必要ない。
もちろん、全く不要とは言わないが、その地点に行くまでは気にすることではない。

 

認められていないことは、やっていない状態なら同じ。

 

ならば、いざ始め出した時に気にしなくていい。

 

気が付いた時に、認めてくれる人たち居て、その認めてくれる人たちと同じくらいに認めていない人もいる。
どちらに焦点を合わせるのか。
そういった問題だろう。

 

『先ずはやる』
殻は自分でしか突き破れない。
突き破りやすいようにお膳立てがあるかも知れないが、そうなっても殻を破るのは自分で、その殻から出て歩き出すのも自分自身でしかない。

 

歩き出せば、怪我することも、疲れることもある。
そういう自分を超えていくのも、自分でしかない。

 

そうやって、弱々しい自分からチカラをつけて、今までの自分に克っていく。

大きくても、小さくてもいい。
今の自分を超えていく日々を過ごすことしかないのだ。

 

【継続はチカラなり】

今はまだ…

住んでいる世界が違うと言うか、次元が違うんだろう。
そんな人たちとの繋がりが出来たということは、そこに住めるし、その次元に行くのだろう。

雇われている人と自分の何かで生計を立てている人との違いがある。
その違いは記述しないが、今の自分に足りないことをまざまざと感じた。また自分自身が気がついていない事を指摘してくれた。

人に指摘されて、自分がどんな感情を抱くのは構わないが、感情で受け取るのではなく『事実』にしっかりと目を向ければ、決して言い訳はない。
言い訳があったとしても、そこで言ったらどうなるかを考えると言えなくなり、その言い訳は意味のないことだと気がつく。

事実という結果は変わらない。
結果を変えるには、それ以前の過程を変えるしかない。
次回、同じような機会があれば、同じ結果にならない選択をするだけだ。

その他にも色んなことを感じたが、今回から誰かにさらけ出すことをやめることにした。


何故ならば、まだ過渡期だから。
ちゃんと蓄積して結果が出たときに、知りたい人へ伝えることにした。
中途半端なことは伝えられないのだ。
また、さらけ出すことで完了してしまったと勘違いすることもあるから。

経験のない机上の空論

若いということは、それだけ機会も時間もたくさんあるのだ。

 

歳を取れば、取るほど実感していく。
『もう少し(もっと)若ければー』なんて、たらればなどは一切思わないが、自分より年下の人が話してくると、その無限の可能性の高さを感じる。

 

もちろん、自分自身にも若い頃があった。

 

過去を振り返り、悔いたところで何も変わらない。
そんなことをするより今見えている景色の先の景色を見て、その自分に一歩でも早く近付こうと、【いま、この瞬間】を本気で生きていく。

 

そういうことを見ると、他人の人生と自分の人生を比較するのも、無意味でしかないことに気がつく。

 

他人の人生のすべてを見ることも、体験することもできない。
それはドラマや映画など、創作された作品を見ているように、一部分だけ見ているからだ。
作品に登場する人物の事細かな生活まで、限られた時間の中で表現することは物理的に難しいから、良いように切り取られ、場合によっては脚色されていることもある。

そんなことを思い浮かべる時間より自分の望んでいる生活を明確に思い浮かべ、【いま、足りないこと】が何なのかを見てみる。
(ないもの探しをしているのではなく、明確な望みとの差異を見ること)
機会は訪れることもあるが、創り出していくことやその機会に気がつくことが大切だ。

 

そうやって機会や時機などを拾える感覚(アンテナを張る)を養っていくが、たまに不要なこと(ノイズ)が混じる。
このノイズが混じらないようにするには、集中することが大切。

 

世の中には情報が沢山あふれている。
その情報の中に、自分の人生設計に役立つものはあれど、自分が人生において何を望んでいるかの答えはない。

 

何故なら、情熱とは情報の中にある訳ではなく、自分の中(内側、魂など)から生まれてくることだから。

 

若者に可能性がたくさんあるのは、選択肢も時間もあるから。
だが、情熱を感じることがなければ、選択肢も時間も情熱を得るために使っていることが多い。

 

興味はあるが、先を考えてしまい動けないということもある。

 

はっきり言おう。
『いつかと言う日はない』
どういう選択をしようとも、その結果失敗だとしても、失敗でなくとも全て決められたこと。
若ければ、それだけ修正をかけることができる。
選んで、行い、見て、触れて、感じて、起きたこと全ては経験となる。

 

経験のない机上の空論で、二の足を踏むならば、思いっきり挑んで、打ちのめされた方が、よっぽど経験値が得られる。

 

さあ、挑んで行こう!

相手のことを考えてみよう

一般的な社会人であれば、休みの日がある。

休日であれば、基本的に会社などから拘束されない時間である。

休日も会社関係の人から連絡がある人も居るだろうが、自分の都合や家族、家庭などの都合を休日にあてていることが多い。

 

私もイチ社会人であるが、休日は自分の人生のために時間を費やしており、どちらかというと仕事より、自分の人生のために使う時間を大切にしている。

 

仕事に対して手を抜いているわけではないが、エネルギーを使わない形でできるようにしている。

 

だが、休みの時に上司から『取引先から私に対して要望があり、朝早く出勤して伝えたい』との連絡がきた。

そんなメールを休みの日に送ってくるなと思った上に、何のことか心当たりがなかったため、気になり上司に電話した。

 

どうやら、休みの日に何か問題があったそうで、それに心当たりがないかとのことであった。

 

以前の上司も、この上司も、本当に人の上に立てない人だと心底思った。

人の上に立てない上に、人を使うことが下手なのだ。

 

昔、『お前は人をむかつかせるのだけは天下一やな』と言われていたが、今はほとんどそのようなことはない。

何が人をむかつかせるのだろうかなど、散々考え、自分を変えることを今もずっと実践している。

 

人から好意的に思われるか、嫌われるかどちらがいいかと言えば、大多数が好意的に思われるほうを選ぶだろう。

もちろん、嫌われることを恐れて媚びろというわけではない。

自ら敵を作り出して何か得になるかと言えば、ならないことが多いため、気を付けている。

 

だからかも知れないし、気にしすぎなのかも知れないが、上司と電話で話した時に、『この上司は何故、要望というのだ?別の言い方が思い浮かばないのか?』と思った。

私であれば『一ヶ月経って、どんな状況か聞きたいから朝時間くれるかな?』ぐらいに留めておく。

 

要望があったとしても、まず【確認】することから入る。

誰だっていきなり否定されるようなことを言われて、すんなり『はい、そうですか。おっしゃる通りなので、以後気を付けます』とならないだろう。

まず、お互いの状況を確認した上で、話しを進めることで建設的な話しができる。

 

ましてや自分の部下であろうものなら、部下を守っているということをそれとなく伝えることをする。

それによって、愛社精神や会社に対する貢献度が上がったりするわけではないだろうか?

もちろん、単刀直入に言うことが必要な場合もある。

 

だが、私に対しては何度かこのようなことで言い合っているのにも関わらず、同じことをしてくる。

 

上司として認めたくない。

部下が上司の面倒を見ることをフォローアップとか言うと昔に聞いたが、フォローアップなんてしてられない。

 

上司として上に立っているのであれば、自分で考えてしてくれ。

できないとか、間違っているのであれば、思いっきりぶつけていく。

 

その分の対価はいただいているだろう。

しっかり働けよと思う。

 

役職という役割があるのだから、全うするために人一倍努力する必要がある。

人を使うという点においても、それは同じこと。

 

もっと上手にすれば、気持ちよく働けるのだ。

最近では、顧客満足以外に、従業員(社員)満足度なるものがある。

どちらの満足もわざわざ掲げなければできないことになってしまっている。

 

どこかの社長さんが言っていた。

【社員は家族】と。

家族だからといって、馴れ合えという意味ではない。

家族と思って接することが大切であると。

 

今となれば、社員や従業員は会社の駒ぐらいにしか思っていないのだ。

もちろん、お客様に関しても、同じ程度にしか思っていないような気がしなくもない。

 

お客様は神様ではないが、自分が提供するもの(こと)に対して対価を払う人が居るからこそ、社会は回っている。

提供する側であり、提供される側である。

ならば、提供される側の時の心情を、提供する側になった時に持てばいい。

逆も然り。

 

何か、足りていないことばかりの会社に属しているのだが大丈夫だろうか。