在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

『すっきりする』

はてなブログさんから適度に振り返ってみませんか?と言われる。

昨年の今頃、書いた記事の題名は『近況』http://tomo-arugamama.hatenablog.com/entry/2016/09/26/224818
誰に近況報告しているのかわからないが、近況が綴ってあった。

 

あー、さっき近況報告的な記事書いてしまったので、どうしようかと考える。

昨年の近況を読むと大変そうな感じであった。
しかも、今よりもっと大変だったことを思い出した。
主な話はスピ系がーっていうのと、人生はロープレみたいなもんという話し。
いつも大して変わらない話しを記事にしているのだと恥ずかしくなる。

 

さて、近況ではないのだが、以前にバブルボムゲームという話しを書いた。

『場の作用』について軽く触れた記事。
(以下、抜粋→)
自分にとっていい『場』ならばいいが、自分にとって不要な『場』に巻き込まれると逃れられず、被害を被るときがある。そうならないようにするには、思念を持たないこと。(←ここまで)

 

職場を異動することになった一つの要因に、この『場の作用』、バブルボムゲームがある。
その時に学んだことは、自分が悪いことがないとしても、きっかけを作ってしまったならば、即座に対応した方がいい。

 

その対応というのが謝るということ。
相手がどう出るかを見てから行動するのもいいが、とにかく先手必勝で謝ってみると、『いや、大丈夫です』となる。

 

そうすることでバブルボムは流れていくのだ。
それを体験した。
【謝ることではないかも知れないのだが謝っておこう】
そう思って、『すみませんでした』と言うと気持ちもすっきりする。

 

この『すっきりする』感覚が大切だ。
すっきりすると言うのは、問題として手に持っていない状態。
要は空間がある状態。
すっきりしないとなると、問題が心に居座って、風が通らない状態。

『すっきりする』と何か新しいことに着目したり、訪れたりする。
こうして、自分の周りの空気、空間、流れを操作することは可能なのだ。

 

また事実を問題として見てしまうのかという心の持ちようというのもあるが問題として扱い、解決してすっきりさせておかずに、放っておくとそれ以上の問題がやってくることが多い。
すぐにやって来るとは限らないため、構えていられない。

 

ごめんと言って何か減るわけではない。
ありがとうと言って何か減るわけではない。
減ることはないが、変化する。

その何気ない一言が自分の人生を作っている。

 

職場の人と話していたが、クレームになりそうな人からは逃げるんですという話しを聞いた。
私はクレームになりそうな人に、まず出会わない。
もし出会ったとしても、クレームになるような対応はしない。
相手がクレーマーなのかも知れないが、それを引き出しているのは自分である。

 

接客業なので、どんな風に話しているのかを聞こうと思って聞いている訳ではないが、だいたい馴れ馴れしく話している。
それではお客様もナメるだろうし、時には不快に感じる。

 

敬語(尊敬語や謙譲語など)というのは、相手を尊重する言葉としてあるのだが、相手と一定の距離を置くという意味もある。

馴れ馴れしくすることによって、引き出してしまうことがあるというのは、距離が近いから言いたいことを言ってくる。
一定の距離感があれば、相手も言葉や行動を考える。

 

だいたい話せば、その人がどういう人でどんな風な人生なのかがわかるのは、言葉の端々や態度からわかる。

また自分がちゃんと敬意を示して、対応すれば相手が敬意を示して来なくても、悪い部分を引き出すことはないことは体験している。

 

『場』に作用されるのか、『場』に対して作用させるのか、これも自分次第なのだ。

変化、大きく変わるということ

職場が異動するに当たって、今住んでいるところから引越すことにした。

今住んでいるところの方が職場に近いのだが、階下の人から文句を何度か言われたこともあり、その言いようが恐ろしく気を使って住むには問題ありと感じていた。
また立地も良くないなど、契約更新の際に引越しを考えていたが、この機会に前倒しして引越すことにした。

職場の異動に伴う変化にまだ慣れていない内に、住環境も変えるということが、どれほど負担なのかが引越しの荷造りをしていく上で感じた。

今まで意識しなかったことを意識すること、新しい場所(住まい)に対する不安など負担が、心身に降りかかってくる。
それがどのような形で現れるかは、人それぞれだが、私の場合はイライラしてしまう。
環境に左右されていることが分かっているものの、どうしようもない自分がいる。

ただ単に荷物を詰め、引越し業者に運んでもらい、荷物を出す。
たったそれだけのことなのだが、心身は頭より敏感であったようだ。

引越しという機会は、整理する機会になる。
断捨離だ。物を捨てていくと、その分部屋が広くなるだけではなく、気持ちも軽くなる。
これがいわゆる断捨離の効果の一つなのだが、新しくできた空間に、空気が通り、清々しくなる。
それでもまだたくさんの荷物があるので、自分の生活を振り返ってみた。

一年ほど前に、今のところへ移動してきた。
そして、今また移動している。
自分の生活や活動も変わってきた。
ほぼ落ち着いていないため、仕方ないことなのだろう。
そう思うと、今回の引越しは収束に向かっている。

一年前までの生活から、こちらに来てやりたいことの発見、やりたいことをやり易くするために必要なこと、ものの整理整頓が今回の引越しに当たる。

大変とは『大きく変わることなんだよ』と昔言っていたが、大きく変わっていっている。
大きく変わっていっていないかもしれないけど、ならば大きく変えていくだけ。

言葉も、行動も、思いも、すべて通じている。
これからの出来事に繋がっている。

可能性というのは常に0ではないが、その可能性の確立をあげていくためには、今行動することだけ。

今では有名人になった塾講師の言葉は流行りでも何でもなく、本質である。

誰も自分の人生を代わりに歩んでくれない。
今できることを、先々にして変わるわけはない。

ストレスに感じることも、喉元過ぎれば何とやらと同じで、流れに乗るまでのこと。

今のすべては、これからのすべてのために。

それはエゴと言うんですよ

後述する件について前から違和感があったこと。


【あくまで、私の所感に過ぎず、それに対する意見など一切お断り致します】

 

他人に助言や自分の考え、価値観などを話すときに、何故、その話す相手の言っていることや考え、価値観などを否定した後に話すのだろうか?

 

自分が言われる側であれば、どう話せばいいかというのが見えてくるのではないだろうか。
自分の考えや価値観などを否定された後に、言われても全くもって内容は入ってこないのではないだろうか。

 

まず相手に話すことが、相手にとって本当に自分の考えや価値観などが、良いことかもわからないのではないか。
特に人の考えや価値観というのは、その人が生きてきた年数分だけ作り込まれている。
その作り込まれたことに対して、意見を言うことがどういうことかを認識しているのか。
ただ、良かれと思ってなどと軽はずみな思いであれば、言うのをやめた方がいい。

 

相手にとって、その話し自体がどういう部分なのか把握していない場合、必ずと言っていいほど事故を起こす。
手術や診断に例えると、間違った部分を手術しようとしたり、誤った薬を出したりすることと同じだ。

 

手術であれば、ここを切っていいのか、切る前にしておくことはないかなど、確認しておく必要がある。

 

そう言ったことを考えた上で、相手が求めていないにも関わらず話しをする場合は、相手が受け取りやすいように話すことが大切である。
【受け取りやすいように話す】ということは、甘えているなどと言う人がいるが、その関係性にもよる。


だが、受け取れないもしくは拒否になるのであれば、無駄なことになる。

 

相手にとって受け取りにくい(言われて嫌なことや腹が立つことなど)かも知れないと感じるときは、包んでいったり、遠回りに言うか、受け入れる態勢を作ること。
それが話す側の相手に対する思いやりだろう。

 

また受け取りにくい話しをしたならば、最後まで付き合わないといけない。
ただ、闇雲に言って『はい、終わり』では、そういう話しをする意味がない。

だから、大人になると色々と言わなくなるのだろう。


人に言われて受け取りにくい話しというのは、本来ならば自分で気がつき、変えていくなり、何なりしたりする必要があることが多い。

そういうことをわかった上で、相手に対して『あーだ、こーだ』言えばいい。

それ以外は、自分の欲求を満たすためのエゴでしかない。

 

甘えているかも知れないが、伝わらないことや無意味なことをして、それをした本人は気持ちがいいかも知れないが、その相手とはいい関係は築けないだろう。

 

それが愛というもんだ。

価値を決める

誰にも雇われず、自分で仕事をするとなると、ただ単に『請け負います』だけでは仕事はできない。

相手が仕事を依頼しやすいように、どのような内容や案件などであれば、いくらで請け負うかを提示しておくことが必要になる。
それは自分で決めなければいけない。

【安かろう悪かろう】ということわざがあるように、自信がないから安くするというのは、自分の価値を下げていることになることや値上げが難しい。
とはいえ、高く言って、断られることがあるかも知れない。
では、どこが妥協点なのか。
初めて一歩を踏み出すときは、相場を知らないと判断できない。
実際に自分で自分に価値を付ける、自分自身の価値を決めることになると悩む。

時には、いくらでやってくれないか?
と言われることもあるが、それが割りに合うのかというと、割りに合わないことが多い。

依頼主となる相手が自分を判断する料金設定が必要となる。
そのためには、自分のやること(請け負い、納品するまで、もしくは納品後のメンテナンスなど)を、一つ一つ見ていく。

相手が求めるレベルがどれ位なのか。
高い金額を設定すると、その高い金額に見合うものを提供する必要がある。
また、道具などを揃える必要があると、その道具代も考えて設定しないと、道具のほとんどが消耗品になる場合がほとんど(保守や修理などが必要であることが多い)。

自分を売るということを真剣に考えた時に、雇われるということがどれだけ楽なのか。

そして自分が商品だとすると、その商品管理も自分でする。営業もする。
全てを自分でしていくことになる。
だから、身なりや話し方、全てにおいて気をつけておきたい。

想像してみるとよく分かるのだが、自分が買うとなれば、その売る相手を見ることが大きい。
もちろん、インターネット上のやり取りだけで済むこともあるが、それでも文面や内容などから判断される。

もちろん、それに当てはまらないこともあるが、それでも清潔で、誠実な感じがいいだろう。

これは、仕事を請け負う、請け負わない以前から始まっている。

また少し視点を変えると分かる話しなのだが、例えば化粧品のCMを見てみると、モデルであったり、可愛い、綺麗な人が起用されている。
それは化粧品を使っている人がどんな人なのかで、その化粧品や企業の顔となるから。

であれば、個人でやっていくとすると、土台は変えられなくとも、装いを変えることはできる。
キチンとするということは、キチンとした仕事がやってくるということ。
だらしない、不潔であれば、仕事がやってこないか、やってきたとしても、だいたいそのような仕事になり、場合によっては、支払われないなどもある。

価値を決めることは、その価値に見合った立ち居振る舞いがまず第一。
そして、技術であったり、品物であったり、提供するものの価値を決める。

安請け負いは、自分を苦しめるだけなのだ。
相手が料金を決めるということは、仕事において責任を果たしていない。
自分自身を見て、料金設定をしていくことが重要になる。

安さだけがすべてではない。
薄利多売をすると、自分が苦しむだけ。

自分にしっかりとした価値を持って臨んでいくこと。

夢を実現させる心づもり

自分も、周りから見ても、夢諦められんとか、そういう後ろ向きな感じではなくてさ

もうここまで夢追いかけてきてんから、夢叶うまで走り続けようって
夢追いかけてるんやなくて、夢は現実になっていくもんやから、ちゃんと現実に生きようって

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歳を取れば取るほど、周りの目は冷たくなっていく。
例えば、服装などの身だしなみや言葉遣いなどから、趣味嗜好、考え方など色んなことに対して。
若かれし頃は、他人から言われることもあったが、もう他人から言われることはなくなっていくものの、冷ややかな目線が飛んでくる。

夢を追い続けていると、周りの人が『応援している』と言っても、心の中で馬鹿にしていたり、『いい年して…』と思われていたりする。

それを間に受けることはない。
自分で判断すればいい。
他人がとやかく言おうが、その責任を取るのは自分自身だから。
もちろん、他人に迷惑を掛けてまですることではないので、その判断はしっかりした方がよい。

周りに『いい年して…夢を追い続けて…』などを言われようが、思われようが、
『ここまで、今まで追いかけて来たのだから、必ず実現させる』と覚悟して、実現するように動き続ければいい。

『夢は追いかけるものではなく、創り出す、現実にしていくこと』と自分自身が、わかっているのか。

知っているのではなく、わかっているのか。
わかるということは、知識として持っているわけではなく、経験として体験していること。

ここで、夢なので体験していないと矛盾が生じるが、ここが大切なところ。
未だ、体験していない、経験していないが、夢が叶った自分は体験している。
夢が叶った体験をしている自分と、今の自分はどう違うのだろうか?
今の自分は夢が叶ったとなるのは、いつだろうか?

自分は今ここにしか存在しない。
未来にも、過去にも自分は居らず、今ここにしか居ない。
体験している自分であればを想像することで、創造していくことができる。

何故かが大切なのではなく、そうしてみることが大切なのだ。
そう想像して、今からの出来事や繋がりに対してどう反応したら、どう選択したらいいのかが、自ずと見えてくるからだ。
体験しているので、こなすだけのことになるが、こなした記憶はないのだ。

それが面白いところである。
脱線してしまったが、創り出すことを決めてしまえば、決まっているのであれば、それをやっていくだけになる。
初めての体験なので、知らないことも、迷うことも、悩むこともあるだろうが、こなした自分で考えて行動すればいいだけ。

それが、人生を楽しむコツの一つ。

新しい環境

仕事の往復時間にブログを書くことが多かったが、異動になり職場が家と近くなったことと職場の環境が変わったので、書く間を見つけられずにいる。

 

異動前の職場では人間不信に陥りかけた(一度、陥った)が、そこから離れれば縁の無い人たちだったということがよく分かった。

『飯を食いに行きましょう』と言っていた人たちすら、何の連絡もない。

『まあ、こんなものだろう』と予測していた通りで驚きもしない。

 

さて、新しい職場で目立って感じるのが【お山の大将】的な人たち。

いい年して『ありがとう』の一言も言えず、コミュ症的な感じなのに、えらそうにする。

『俺がここで一番偉いんだ』と言わんばかりの態度。

 

この業界では、どこに行っても同じような感じで、それが酷いか軽いかぐらいで殆どがお山の大将である。

私は媚を売るのが大嫌いなので、媚ずに上手に付きあう技術が必要。

 

ふと『朱に交われば赤となる』の言葉が思い浮かんだ。

コミニュティの中に入るということは、『郷に入れば、郷に従え』ということが暗黙の了解としてある。

郷に従わなければ、疎外感だけではなく仕事をする上でも支障が出てくることもある。

 

だが、そこに染まらないようにしておきたい。

 

コミニュティが形成された後、悪いコミニュティは入り口が狭い。

新しく入ってくる人たちと仲良くせず、そのコミニュティに共通することを話題とし、他を寄せ付けない(わざとではなく、自然とそうなることが多い)ようにしている。

日本が島国だからそういう文化なのだろうか?

 

そのコミニュティに入っていくためには、朱に交われば…とならなければいけないのか…

 

入りたくないコミニュティとどうコミュニケーションを取っていくのか。

しかもお山の大将ばかりのところに…

 

仕事でなければ、まず関わらない世界だと思う。

そこで仮面(ペルソナ)が出てくる。

演じること。

本当の自分に影響が及ばないように、鉄の仮面を付けて、コミュニケーションを取る。

鉄の仮面といえば、硬く冷たい感じがするがそうではなく、今までの仮面より自分を守るための強い壁というか、染まらないようにする。

 

全員がそうでないので、個人の良いところと付き合うというのもやっていくことが大切だ。

 

新しい環境というのは、何かと慣れるまでに時間がかかる。

それは色んなことを変えていくために、意識することが増えるから。

 

ただ新しいところには何かがある。

その何かを楽しみにして、『朱に交わろうとも、我を忘れず』でやっていけばいい。

 

痛い目にあえばいい。

声を大にして言いたいことがある。

 

『共有する』ってことは、人と関わる上で大切なこと。

 

何故、言わない。

何故、伝えない。

 

共有がないと困るのは、お互い様である。

共有されていなかったため、その場の対応で色んな問題を発生してしまう。

共有していなかったため、その人が知らなかったことで恥をかく。

 

共有っていうのは思いやりの一つだと思う。

政治や公的な場では事前に伝えることで、ことがスルスルと進むが、事前に共有がないとその場で言われても、答えられないということがある。

これを根回しという。

 

根回しについて昔、記事にしたことがあるが、大きな木を切るために根っこを切っておく。

根回しというと、いい印象をもっていない人が多いかも知れないが、そうではない。

ビジネスにおいても、何においても根回しは大切なこと。

 

根回しも共有も似たようなこと。

 

会社では『報・連・相』が大事と教えられ、報告する、連絡する、相談することを口すっぱく言うが、これは共有するということを分けて言っているだけだ。 

そうすることで会社に守ってもらうことがある。

上司が助けてくれることもある。

 

だが、それは会社だけのことなのだろうか?

否。

 

社会の上でも大切なことである。

これは相手に伝えておいたほうが、いいと思う『思いやり』なのだ。

 

自分自身、いい加減なところがあり、共有し忘れることもある。

抜けていることや、だらしないところもある。

そうやって自分のダメなところをしっかりと把握しているからこそ、そうならないようにはどうすればいいのかを考え、対策することができる。

 

だが、周りに本当に共有しない人が多すぎる。

できるだけ、合わせるようにしているが、合わせることの負担は少なくない。

 

あまりにも酷い場合は合わせずして、共有していないことを指摘すべきか。

いつか共有しなかったことで、痛い目にあえばいい。

そうでないと人は、人に言われてもわからないのだろうから。