絶対に認識してはいけないこと
少なからず、そうだと気が付いていたことに対して、確証を持つということはそれを受け入れ、認めることになる。
その事実に対して何かしらの反応をし、何らかの選択をする状況に迫られる。
それでもその事実に対して、気にしないという無視することもできるのだが、できないこともある。
何のことなのかを言っていないので、このまま読み進めても確証することはない。
だが、それが事実であることは違いない。
人の脳というのは大変、優れた機能だと思う。
気が付いてしまい、認識することによって心身に支障をきたすことであれば、それを回避しようとする。
例えば、あまりにも強いショックを受けてしまったがために、そのショックをどうにかしようとして、多重人格であったり、うつ病などの精神的な病に陥ることがある。
また体も変化することがあるだろう。
だから、何が事実なのかは伏せておく。
さて、生きている上で一度も不平不満を思わず、言わず、生きているだろうか?
答えは『否』となるだろう。
日々、生まれてきた(この地に生を授かったこと)を有り難く思い、何事もなく過ごせたことを有り難く思い、寝床につくなんて、どこぞの宗教の信者だけではないかと思うだろう。
ただ、そう思える生活をしていないのは、誰のせいでもなく自分が選択してきたことだということを忘れてはいけないし、それははっきりと認識しておいたほうがよい。
あと不平不満に思わなくていいことに関して、思っている場合もあるので、自分の人生に関係(自分に選択権)のないことは、放っておくこと。
ということを全てにおいて当てはめたときに、不平不満をいうということは、自分に対して唾を吐いているようなもの。
自分に唾を吐いて、かかった唾に対して文句を言っているのは、どこからどう見ても笑えないことではないだろうか?
世の中はそういう仕組みになっている。
生まれてから誰も『ああしなさい』、『こうしなさい』なんて言っていない。
『親が~』、『周りが~』、『国が~』なんて言うかも知れない。
だが、そうしなければいけない理由はどこにもない。
ただ、社会という大きな枠組みで生きていく上で、それを選択するしかない場合はある。
それが義務であったりするが、その義務を果たしたくないのであれば、義務のない生活、環境などを選択することはできる。
それらをせずに言われるがまま、そうだと思い選択してきたのは自分自身以外の何者でもない。
なぜなら、自分自身の人生を生きているのは、自分自身以外居ない。
楽と愉しいは違うのだ。
考え方や捉え方を変えることも一つの手段といえよう。
新興宗教の信者とかに対して、偏見を持つことがあるだろうが、その人たちにとって、その宗教の教えや考え方、捉え方などがしっくり来て、納得しているから信じているのだ。
そういうことはわかるのに、なぜ自分自身のことがわからないのだろうか。
それは周りの目を気にしているから。
もちろん、日本という国はその周りの目を気にしてきた国であるから、それが文化であろう。
だが、それすら諸外国で暮らしている人からすれば、偏見の目で見て取れる。
よく仏教でいう中道に立ったとき、そういうことがわかるのだ。
自分自身の人生を生きていく上で、不平不満に思うことがあるのであれば、不平不満がないように改善することができる。
その選択肢を選択せずして、不平不満に思うことがあるのであれば、すぐさま選択肢を探し、取り掛かったほうがいい。
生きることは、楽ではない。
生きていることは、愉しいこと。
それを自分が選択し続けていることを忘れず、不平不満に思うこと、感じることは全て選択しなおしていく。
人は生まれながらにして自由である。
だが自由であるということは、あまりにも漠然としすぎていて、どうしていいのかわからない。
何故なら、どう生きていいのかを学校では教えてくれない。
親ですら教えてくれない。
自分の人生なのだから、失敗して色んな体験をして、少しずつどうなっているのかを知るしかない。
そういうゲームなのだから。
豊かになりたいと強く思う
至極、有意義な時間を過ごしたので、書き留めておく。
時間が大切だという認識を以前したのだが、『時は金なり』という言葉がある。
この『金』というのは、貨幣であるお金という解釈がほとんどだが、そうではなく鉱物の『金』であると思う。
貴重であり、希少であり、人を魅了するあの『金』だ。
こういう概念を見直すことが大切と言う話しを友人(それ以上の存在)としていたのだが、人生は時間でできていると言っても過言ではない。
その時間をどう過ごすのか?
それについて、深く考えたことがあるだろうか?
これを読むあなたはどのような生活をしているのだろうか?
朝目覚めて、仕事をする準備をし、職場まで行きそこで与えられた仕事をこなす。
そして仕事から帰ってきて、何をするのだろうか?
仕事が休みはどのような過ごし方をしているのだろうか?
仕事をしていない時間は出来る限り多くの人と関わっていたいと思った。
自分が活動(生活ではない)していることで、多くの人と関わるようになり、その多くの人たちに何かを与えたいと強く思う。
だが、与えるには時間が必要で、時にはお金も必要になる。
お金を得る方法として仕事があるのだが、時間をお金に換える方法しか知らないので、そういった方法を取る。
もし、そういう方法でない方法があるならば、それを選択するとどうなるのだろうか。
仕事をしなくていいとなれば、多くの人たちに割く時間ができる。
そして、その多くの人たちに何かを与えることができるのであれば、なおよい。
必要としていることやものを提供できる人でありたいと思う。
関わる人が、関わってよかったと思う存在であるためには、時間もお金も必要になってくる。
宝くじを買って当たればみたいな話しをしているわけではない。
お金を得る手段を話したいのではなく、お金という足かせがなくなったときにどうありたいのかを想像すること。
やりたいことを最高の形でやっていこう。
自分が愉しいと感じることかつ、それをすることによって誰かのためになることをやっていくと考える。
もしかすると、このブログを読んで刺激を受け、変わったのであれば、非常に嬉しい。
人に何かを与えることが出来る喜びこそ、より幸せな状態だろう。
幸せを感じることに条件は要らない。
生きているだけで幸せなのだ。
生きていることで、様々な体験ができ、その体験に対して喜怒哀楽という感情を感じることが出来る。
それだけで幸せなのだ。
これが土台にあるかが重要だ。
その上でより幸せ、より豊かであるには、人に何かを与え、人から有り難い存在と思われることだろう。
友人はそれを『その人の人生まで生きる』、『自分の分身がたくさんある』と表現した。
人生を生きるのはその本人でしかないのだが、その人生の登場人物かつ重要人物になるということは、もう自分の人生の一部になる。
様々な人と出会い、そうした人生の一部となっていくような関わりを多く持つと色んな人生を味わうことになる。
共に生きているのだ。
そのために時間を費やすことは、無駄ではない。
人はいつか死を迎える。
死んだあとは、まだ生きている人たちが、死んだ自分を弔う。
死んだときに、悲しんで欲しくない。
笑っていてほしい。
今までありがとうとたくさんの人に言われたい。
そして、笑顔で送り出して、ずっと忘れないで居て欲しい。
この『忘れない』ということが大切なのだ。
お墓を立て、故人を偲ぶのは『忘れない』ためだろう。
話しは逸れるが、先祖のことを代々受け継ぐということをしているところはどれほどあるだろうか?
今であれば、親や子どもを、親や子どもが殺めることがある。
理解できない。
どれだけ憎んだとしても、その親、その親の親、ずーっと受け継いできてくれたからこそ、今の自分という存在があり、そしてそれを受け継いでくれる存在がある。
そういったことをもっと考えたほうがいい。
さて、話しを戻すとそういう血の繋がりではない存在が忘れないで居てくれることは有り難いことだ。
お金を渡して『忘れないで居てくれ』と言ったとしても、人は忘れてしまうだろう。
人が忘れないようにするには、その人の人生に深く存在すること。
深く存在する人たちがたくさんいるということは、それだけ人生が豊かだと言うことだ。
人生を豊かにする方法は、人のために時間を費やすということに繋がるのではないだろうか。
周りに自分が関わり豊かと感じる人たちがたくさん居ることは、自分の人生が豊かであると言うこと。
あなたが豊かと感じる人生を歩むために、何かを提供し続ける。
共に豊かであろう。
思うところ…
私的なことといえば、年末年始のツケがたまっていて、それが身体へ顕著に出だしている。
例えどれだけ気持ちが若かろうが、老いは着実にやってきていて、それに抵抗するのかしないのかで老いの速度が変わってくるだけ。
当たり前だが、老いる現象を老化という。
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時間という概念は、社会で生きていく上において重要な区切りになっている。
私は時間という概念がなければいいのにと思う。また自由に行き来できれば…ゲームなどである『強くてコンテニュー』的なことができれば…とできないことを夢見てみる。
もしそうなったら人生なんて面白くもないのかも知れない。
時間の概念が24時間に区切られているのだが、それでいうと32〜36時間という区切りが欲しい。
ところで生きてきた時間を無駄だとか、後悔しているわけではないが、その過ぎた時間を有効に活用できていないと感じる(実際はできているのかもしれない)こともあり、『もっと若ければ…』と言いたくなる。
そう思ってやまないのならば、『今この瞬間から』そう思い過ごせば、今からの時間は、過ぎた後に同じように思うことはないのだろう。
◾︎
他人と話すときにどのような情報を交換(相互もしくは片方から、提供もしくは享受)するのかが、人生に取って重要なことだと私は見ている。
その時に使う言葉や言い回し方、そう言ったことも含めて、他者との情報交換が人生を豊かにしたり、しなかったりする。
常に私たちは自分の世界を【想像】して【創造】している。
想像は現実(事実として)に起こるまで、存在していないが、想像することで存在することになる【可能性】が出てくるため、想像=現実ではないと言い切れない部分はあるものの、現実として目の前に現れる(体験するなど)ことで【創造】したと認識できる(認識しないという選択肢もある)。
【想像】の材料の一つに情報がある。
そして情報というのは様々な情報があり、そこに意味はない。
意味付けするのは情報を得た人がするため、必ずしも情報提供した人の意図や意味と同じにはならない。
話しは逸れるが、情報を得た人が意味付けをするので、意図や意味を伝えたければ、それを伝えることが重要だ。
どうすれば情報を得る人が、こちらの意図と意味までも受け取るのか?
それは相手のことを考えて、相手が受け取りやすい言葉や言い回しで伝えることが重要と言えよう。
この情報交換も含めて、自分の世界にどのような【情報】であり、どのような【交換の仕方など】や他者とどのような【関わり】をしたいのかを想像して、創造していく。
こんな関わりがしたいと思っているのであれば、そんな関わりをしたいようにしていくことが大切で、その想像している関わり方と違う関わり方をしなければいけない状況や他者を減らしていくことに着目し、着手することで創造できる。
そういうことをやっていく上で、何よりも大切なのが時間。
時間に限りがあることを認識しておくこと。
その限りがいつやってくるのか不明であること。
限りがあることを認識していけば、本当に無駄なことをやっているなと気がつくのではないだらうか?
ただ、そうなるとかなりストイック(禁欲的に厳しく)にやることになっていく。
それでも足りないぐらいなのだが、そのような環境に心身がついていかない。
以前にも記載したかと思うが、意識することでエネルギーを使い、想像すること、それらを創造していくことにもエネルギーを使う。
合わせて時間も使う。
時間、エネルギーを掛けずにするためには、要領を得ること。
要領を得るには、やり続けるしかない。
新年のご挨拶
ここを見ている人がどれだけ居て、どれ位興味があったり、何かしら思いを持っているのか知らないけど、新年のご挨拶と題打って投稿。
さて、新年に何を思うのか?と言えば、区切りのないことに区切りを見出して、何があるのかなどと捻くれた考えを持っている。
特別なことといえば、普段会わない人と会うことや、挨拶が変わるぐらいなのかと。
しかし、そう言ったことができるのも、年末年始と区切りを付けているからだろう。
区切りという認識をしているのは人だけ。
認識と存在は違うなと感じた。
存在は事実とニアイコール(近しい)だろう。
認識は事実ではなく、それに対する主観があるのだろう。
などと考えていた。
常々、こうであるという存在を未来に見出した時、現実との差異を見る。
その差異を埋めるには、見出した自分になっていくだけ。
そうなっている自分をしかと見た上で、現実を見る。
夢や未来などまだ存在していない状態になるなは、そう在るように振る舞えばいい。
となると、未来の自分になるために現実的に考え、想像した自分であればよい。
単純明快すぎて難易度が高い。
何故なら、なったことのない自分を、未だなっていない自分がやるのだから。
だから時間がかかってしまう。
お金がいくらあろうとも、時間が全くないようではなれないのだ。
それとは関係ないかもしれないことなのだが、今自分が思うことや感じることを自分が気持ちのいいと思う現実にしていくことだけにチカラを注ぐことなのだと思った。
1秒という区切りを使うと、1秒も無駄にはできないのだ。
石の上にも三年、、、
座り続ければ暖まるのだろうが、熱くなることはない。
暖まるような人生を、暖かい人生を送りたければ、座り続ければいい。
では、熱くなるような人生を、熱い人生を送りたければ?
どうすればよいのだろうか?
そんな風に人生を捉えて生きている人は少ないのではないだろうか?
暖かい方が好きなのか、熱い方が好きなのかの違いだけで、どちらがいいという話ではない。
ただ、熱い方が好きなら共感できるのではないかと思う私の意見。
例えば『こうだったらいいのにな』と思うことと『こうだったらいいから、そうしてみる』はちがう。
『こうだったらいいのにな』は頭の中で想像している状態。
『こうだったらいいから、そうしてみる』はそれを現実に起こそうと動いた状態。
こういう違いがわかり、認識していくと、ただそこにある存在を変えることができる。
変わるか、変わらないかの結果は、変わっている状態になるまでやるからこそあるのだ。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
居場所を失う
『居場所を失う』と題して、何を書き留めようかと。
居場所を失う瞬間であったり、居場所を失う可能性があったり、失ってしまった後であるかも知れない。
居場所って何なのか?
それは自分の存在が許されていて、その場で存在していると感じられるときであろう。
他の中に自分の存在を見出した時に、外国人は『joyful』と言うらしい。
『joyful』は日本語の中にない。
全体の中で自分という存在を確認した時に感じる感覚である。
とことん突き詰めて行くと、全体の一部であり、個という孤独でしかない自分。
それでも他者は自分の存在を認識したり、しなかったりして、他者の中に存在したりする。
それを居場所と思うのだろう。
その居場所を失うことがある。
否、居場所と思っていた場所が違っている場合もある。
そうやって自分の存在を認めてくれる場所を人は探しているのではないだろうか。
桃拾ってきたー
『むかし、むかし、あるところにお爺さんとお婆さんが…』
こう始まる昔話の代表と言えよう【桃太郎】
桃太郎の話しは何を伝えたかったのか?
何てことはあまり深く考えられずに、桃太郎が鬼退治に行くことになり、その道中で三匹(三種類)の動物と一緒に退治したという勧善懲悪物語と受け取めている。
先日、友人と話していて、そういうことを伝えているという発想が面白かった。
【桃太郎】の中で、一番の偉業、功績を上げているのは、桃太郎ではなく『お婆さん』である。
それはなぜか、、、
まず、川で流れてきた桃を拾うという行動。
どんな大きさかなどは明示されていないものの、『桃の中から生まれて』くるので、それなりの大きさがあるのではないかと推測できる。
そんな大きな桃を、洗濯物を放り出して取りに行くこと、またそんな大きな桃は異様な存在であろうにもかかわらず、怖がらずに持って帰るという選択をした。
そして、桃から出てきた子どもを育てようと考え、育てたこと。
さらっと序文に書かれていることが、どれだけ凄いことなのか?
友人は『お婆さんのテンションが高い』と言った。
【桃太郎】という物語の中では、桃太郎が主人公になるが、その桃太郎が主人公には『桃を拾う』という行動が今の私たちに出来るだろうか?
この【桃太郎】の話し以前に、『情報を集めること』、『その情報の中から自分にあった情報のみを取得すること』などの話しをしていた。
【自分にあった情報を取得すること】は、まず自分のところへ情報を集めることが大切になり、その集まった情報から合った(必要、重要)情報を取得することになる。
たくさんの情報が川のように流れてきて、その中で自分に合った(必要、重要)情報=桃を拾うことになる。
だが、桃以外の様々なものが流れている中で桃だけを拾うのは容易ではない。
お婆さんは、容易ではないことを容易にやってのけたのだろうか?
そうは思わなかった。
情報を選別することなく、桃という情報のみを拾える状態、状況であれば良い。
では、どうするのか?
桃だけが流れてくるようにすればいい。
むしろ、拾った情報が桃であればいい。
桃はお婆さんに取って未知なるものに違いなかっただろう。
異様なまでに大きな桃だけに気がつけばいい。
情報を収集することも、選別することも、エネルギー(時間であったり、場所であったり)を使う。
そんなエネルギーを使える程、エネルギーは余っているのだろうか?
効率は非効率である。
具体的に言うと情報は基本的に収集しない。
情報を収集しないと取得できないのではないのではない。
必要な情報のみを取得するようにする。
自分が行動しておけば、色んな人たちが自分に対して、色んなことを伝えてくれる。
その中で、ワクワクすることに挑めばいい。
世間的な情報(話し)はどうでもいい。
もし知らなくても、合わせればいいし、教えてもらえばいい。
知らないことに恥じる必要はない。
自分がワクワクすることに対して、自ら情報を集めに行くことをしておけば、必要な情報だけが引っかかるようになっていく。
一度も、そう言ったことをしたことがなければ、直ぐにそうなるとは言わないが、それをやり続けていけば、できるようになる。
また自分がワクワクすることや、過去に学ばず新しい情報を手に入れるのは、人と会うこと。
この【人と会うこと】も、自分がいいと思う人だけでなく、様々な人と関わってみれば、今まで自分が選んできた道とは違う道に進む可能性が高くなる。
人が持ってくる情報は、自分に合った情報であることが多い。
川に洗濯物をしに行くというルーチンワーク(繰り返し作業)から、桃という新しいものに触れたお婆さんは、【桃太郎】という物語の中で、桃太郎を作り出すことになった。
仕事と気の知れた友人たちだけの日々から、新しい人たちと触れることで【あなた】という物語の中で、桃太郎を作り出す可能性が生まれるのだ。
良き場での良き出会い
◾︎男と女
異種社交酒場(私が行っているのはinternational bar)において、人の行動を観察するのが非常に面白い。
何故、人はこのような社交の場、交流の場に集まるのか…
その答えは人それぞれであろう。
そう言ったお店がたくさんあれば、地域的に少ない(ない場合も)がある。
それぞれお店によって客層や求めるものが違ってBARという場は、他者との交流目的が多いだろう。
男の交流目的の一つに女性との交流を目的としている人がいる。
その目的がほとんどだと言っても過言ではない。
女性も多いだろうが、男性とは違う交流目的であろう。
男性から女性に掛け合うことが多いように見受けられるが、女性も相手の良し悪しに対する態度や男性が女性を誘うように仕向ける態度をしている。
それがわかるときがある。
それは同性でも同じようなことなのだろう。
その空間にいる人々たちとは全て出会いなのだが、合う・合わないなどもあるが、そう言った出会いの中で繋がっていく人たちがご縁ということなのだろう。
そういう時、初めて出会う相手なので何も知らないから、何かの共通点であったり、ノリであったり、様々なことから相手と合うかどうかなどを探していることが多いのではないだろうか。
相手のことを認識するために、必要な符号(レッテル)の一つに名前がある。
住んでいるところ、年齢、職業など。
相手を特定させると共に、共通点を探しているのだろう。
それも人によって色んな符号を使っている。
符号以前の雰囲気(オーラ)や人柄などがある。
それによって、人はまず判断するのだろう。
よく言う第一印象とは、身なりもさることながら、伝わる雰囲気が優先されるのは、昼間のような明るい場所ではないからだろう。
そういう第一印象の雰囲気は作っていける。
もちろん、付け焼き刃であれば直ぐに剥がれてしまうものの、こういう場ではお酒のチカラというものも使える道具の一つである。
目的がどこなのか、何を目的としているのか?
で変わってくる。
特に目的を持たずに、接することが多い私からすると周りの人たちの動きなどが面白いように目につく。
『いつも異性に声を掛けているな』とか、『ようやくこの同性と繋がったのか』など、よく顔を見る人に対してわかるし、初めて見る顔でも『異性を物色しているな』などと見えてくる。
人は人と知り合うことで広がる何かがあるのだろう。
その先がどうなるのかはわからないが、結果が良かったとなるのであれば、【良き出会い】なのであろう。
何組かのカップルがこの場で誕生していることがそれを物語っているように感じる。
健全といえば、何が?となるが、いつも、そういった【良縁】に恵まれる場であることを願っている。