引き際を弁える
仕事上、少子高齢化や過疎問題について考えているが、深堀りしていくと「ああ、これは太刀打ちできないな」というところまで行き着くことになる。
人口減少はやむ得ないとしても、過疎化に対して何か策を講じているかを探る。
こういった問題の深層にある部分は取扱いに注意しなければいけない。
かと言って、見過ごしていては今と何も変わらず、増してひどくなる一方だということ。
どこに原因や要因があるのかを特定することが大切ではなく、考えられる要因からどのようにしていくことがいいのかを導くことが重要で、そこに感情論は必要ないと思う。
感情ですべてが解決できるならば、、、以前書いた「同情するなら金をくれ」と言わないでいいだろう。
この世の中がどのような仕組みでなりたっているかということを知れば、感情論では動けなくなってくる。
だが、人の原動たるものは、情動であることを忘れてはいけない。
と、まあ小難しい話しは、さておき。
少子高齢化の問題を解決するには、子どもを増やすことではないかと思う。
ならば、子どもをたくさん作ることを助長するような施策を打ち出すことが単純に考えられる。
だが、それを大々的にやらない。
何故だろうか?
子どもを産み、育てるためにどれだけチカラを掛けなければいけないのか。
子どもを産める世代に、出産・育児をしていくだけの補助があるのだろうか?
否。
どうしてそれが国として、自治体としてできないのだろうか。
できないのではなく、しないのだ。
このあたりの話しは省く。
生命のリレーなのに、新しい命にバトンを渡さずに、ずーっとバトンを握りしめている人たちが、握り続けるためにはどうしたらいいかを優先している。
極端な話になるが、生まれてくるということは、死ぬことは避けられない。
医療が発達することが悪いことではない。
ただ、闇雲に延命をすべきではない。
このような話になると道徳だとか、倫理観だとかが絡み合い複雑になるが、誰もが平等に与えられているのは生きることと死ぬこと。
その時間の長さや、中身の問題ではない。
医療が発達した今だからこそ、自分の意識がはっきりしているうちに引き際を弁え、次の世代にバトンを渡すことが重要ではないかと思う。
次の世代がしっかり走れるように教育をしていくことも生きているうちにすることではあるが。
意識朦朧(自己、自我を保てない状態)としている中、バトンを渡せなということが問題ではないかと思う。