在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

ブログ開設2周年の記念書き込み

ブログを開設して、2年になると通知があった。

 

『もう2年も経つのか…』と思い返した。

 

ブログを始めたきっかけは、人にブログを勧めたことからである。

 

身元の知れるSNSでは言えないことを、吐き出すために始めた。

 

特定は出来ないとは思うが、基本的に抽象的な書き方や出来る限り日本語で書くなど決まりを設けて書いている。

 

時折、その決めごとがあるため、伝わりにくい文章になっていることもある。

このブログにアクセス解析機能が付いているので、時々確認するが見ている人は少ない。

 

人の愚痴などを見ても面白くないからだろう。

ただその中でも、スターをくれたり、見てくれている人がいるので、とても嬉しく、ありがたい。

 

最近、少しずつではあるが、色んなことが変わりだし、動き出していることを感じる今日この頃。

 

そんな今日は満月と、何かしらの縁を感じる。

(人は意味付けしたがる動物だと思う)

 

自然の動きから生じる何かに少なからず影響を受けている。

曇りの日は、気分がすぐれないし、満月や新月の日は特別な気持ちになる。

 

どこで記憶したのかわからないが、『毎日が記念日』という言葉を思い出した。

毎日、毎時間、毎分、毎秒、全てが記念日なのだろうと精神世界的なことを思ってみる。

 

少しずつではあるが、自分の世界に光が射し、霧が晴れてきているように感じる。

『世界は複雑なようで、単純明解』

その仕組みをわかれば、単純になっていく。

 

色んな人が色んな形で、そのことを伝えているのだが、実践して体験しなければ、分かり得ない。

アタマではないから。

 

何でもそうだが、使いこなすためには、そのものを何も考えずともできるようになるまで使うこと。

そのために基礎や、それ以前の仕組みなどの学びが必要。

基礎や仕組みがわからなくても、感覚でできることもあるが、わかっていた方がいい。

 

知ることの楽しさ、使えることの喜び、そして自分の知ったこと、使えることを人に提供するようになると、楽しさや喜びは違った形で返ってくる。

 

極めるということは、そういうことなのかも知れない。

ただ極めきることはないのだろう。

常に変化し続ける。

それをどう楽しむか。

 

2年を振り返るならば、2年先を見て動いていく。

 

 

所属しないという選択

人は社会の中で生きている生き物で、社会の中でしか生きれない生き物だと言い切ることもできる。

 

社会の中で生きていくための一つの方法として、仕事をして生きていくという方法がある。

(この辺りのことを話すと話しが逸れるので省く)

この仕事をして生きていく上で、会社に所属する、自分で仕事をするなどの選択肢があるが、自分で仕事をするという選択肢は、会社に所属するという事と重さが違う。

 

簡単にいうと自分で狩りをして、自分で畑を耕し、世話をして、何もかも自分でやっていくことになる。

狩りをするにしても、そこに獲物が居るのか、獲物を獲る技術、獲った物を裁く技術、何かとやることがある。

 

社会は現物支給ではないので、何かをお金という外貨に変える必要がある。

会社はそれらを分担してやっている。

だから、自分が担当している仕事以外のことは考えなくてもよい。

集団でやると大きな獲物を獲れる。

獲れた獲物を分配することができる。

また分配も獲物を獲った人たちだけでなく、他の人たちにも分けることができる。

その分ける時に、自分が必要とするものと交換することが可能だ。

 

一人だと獲れる獲物は限られている。

もちろん、大きな獲物を獲ることも可能だが、それなりの準備や技術、知識、道具などが必要になってくる。

 

もし一人で生きていくのであれば、時間もお金も使い方が変わってくる。

 

有限なものが多いので、しっかりと獲物を見てやっていかないと、獲物を獲り逃してしまう時もある。

 

所属から独立するとき、覚悟がいる。

一人でやっていく覚悟。

だが『また戻ればいいや』。それもいいが、そういう時間があればの話しである。

 

独立の仕方は、人によって様々だろうが、どれだけやるのかで違ってくる。

 

そこで、今までの話しが役立つ。

自分に与えられたすべてのことを、獲物を獲ることだけに向ける。

ただ、獲物を獲ること以外ことも訪れる。

 

だが、そこに時間をかけて獲物が獲れるのか。

そうならば、獲ることに直結しなくても有意義だろうが、獲ることとかけ離れ過ぎていることに関しては、関わること自体が無駄になってくる。

 

独立を目指すと、やることがたくさん出てくる。

頭の使い方、時間の使い方、お金の使い方、友だちとの付き合い方、色んなことが変わってくる。

変わっていく先をしっかり見て、変わった自分を今からやっていく。

 

それが出来ないのであれば、先はない。

頂くこと

しっかり会う約束、予約(アポイント)を取ることが大切だと思う。

 

どんな相手であっても、『相手から時間を頂く』のだから、その相手に対して敬意を持って予約を取ること。

 

思いつきで『今からどうですか?』なんて、本当に会いたいという気持ちが伝わらない。

それだけでなく、そういう付き合いをする人なんだと思われることもある。

 

必ず相手の予定を確認して、予約、約束すること。

そうすることによって、自分に対しても相手がそうしてくる。

そうしない人と付き合ってもろくなことはない。

『相手に時間を頂く』ことに対して、適当ということは付き合いも適当、存在に対して適当な関わりしかできない。

 

それは、お高くとまっているわけではない。

人付き合いは、簡単なようで難しい。

だからこそ、そのご縁を大切にする。

ありがとうという気持ちを込めて。

 

ちゃんとする人とは、そういう付き合いができるが、ちゃんとしない人とは、どうでもいい付き合いになっていく。

たとえ、ちゃんとした付き合いを望んでも難しいだろう。

無駄なボールは持たない

自分から行動を起こすことは、自分の人生に取って有効なことだけにしている。

 

たとえば、『また今度、誘ってください』と言われたとして、誘うのはこちらからになる。

いつ誘うのかなど考える必要があり、タスク(課題、作業など)が増える。

コンピュータはタスクが増えると、動きが遅くなるように、人も色んなことを持っていると動きが遅くなってしまったり、忘れたり、時にはパンクして動かなくなってしまったりする。

コンピュータに処理能力があるように、人にも処理能力がある。

 

その処理能力を何に、どこに使うかで変わってくる。

常に色んなボールを持っていると、いっぱいになり処理できなくなる。

だから相手からボールを投げられても、自分が持ち続けることがないようにしている。

 

できるだけ持たない方がいい。

その分、自分で投げられるボールが増える。

可能性というボールを投げることができる。

その可能性が閃く隙間も、自分がどれだけボールを持っているかで変わってくる。

 

必要最低限でいい。

無駄なことは、時期が経てば腐ってくる。

食べ物が腐るように。

 

腐ったことが、他のことを腐られていく。

基本的に溜めないことがいい。

 

いつでも新鮮な機会が訪れるように、いつでもいい機会を活かせられるように、いつでも閃きボールを投げられるように。

 

 

列車に乗る

駅構内に着き、列車が出発しようとしていた。

躊躇したため乗り遅れた。

 

僕はその列車以外の列車があることや行き先がたくさんあることを知らなかった。

行き先を決めていないと、どの列車に乗っていいのかわからないことに気がついた。

 

とにかく列車に乗ればいいとだけ思っていたから。

 

僕は地図を広げて、目的地の確認をする。

 

その間も列車は絶え間なく構内に入ってきて、人を乗せ走っていく。

 

目的地の確認をしたが、僕がどこに居るのかを知らないことにも気がついた。

どこに居るのかがわからないと、どこから出発するのかわからない。

 

僕は、しっかり地図を見てその位置を確認した。

 

僕は行きたい目的地に居る僕を想像してみた。

その目的地におり立ち、初めて見る景色がどんな風に見えるのか。

そこから僕がどんなことをしていくのか。

 

そんなことを想像するとワクワクする。

 

その地に行ったことのある僕ならば、今どのようなことをするのだろうかも考えてみた。

 

常にその地にいる感覚で、列車に乗るまでの時間を過ごしてみる。

単なるワクワクではなく、少し重みを感じるワクワク。

これから、その目的地に行けることに確信を持つ。

 

構内を行き交う人々の中には、知った顔もいた。

時折、話しはするが、どうやら行き先は違うみたいだ。

 

僕が行きたい目的地と同じ列車に乗る人は、この構内には居ないようだった。

友人はとっくに列車の中。

追いつけるかわからないが後を追ってみようと思った。目的地が一緒だから。

 

旅支度が完璧に整っているわけではないが、目的地にたどり着く列車が来たら乗り込む。

 

もしかするとその列車が目的地に着く最後の列車かも知れない。

何度も間違えて、今の構内にようやくたどり着いた。

もう間違えたくない。

 

焦らず、慌てず、早く。

 

次の列車がやってくるアナウンスが構内に響いた。

感覚を変えていく

アーティストは一般的な感覚と違う。

 

そういや、友だちが特異点の話しをしていたが、特異点になるということは、元は同じでも機能や役割が違っている。

その友だちは、自分が特異点になりつつあると言っていた。

 

例えば、人で言えば臓器。

細胞の材料は同じだが、役割が違う。

人にとって、臓器は重要な役割だ。

もちろん、その他のところも大切であるが。

 

人という個体ではなく、人と人の繋がりの中で、特異点的な存在が出てくる。

それがアーティストであったり、クリエイターであったりする。

その特異点は、感覚が一般的ではない。

 

何にお金を掛け、何に時間を掛け、周りからすれば夢を見てるのか?と言われるような生活をしていたりする。

が、その夢を見ている生活が、現実として成り立つ生活に変わってくる。

 

それが特異点になるということだろう。

まだまだではあると思うが、その機会を与えられた。

 

機会を与えられること自体が、特異点の始まりなのだ。

その機会を使い、変化していき変態になっていく。

 

そんな時は、感覚を変えることに躊躇していけない。

例えば、サーフィンをしていて乗れるか、乗れないかわからない大きな波が来たときに、迷いなく乗る。

もしかしたら、怪我をするかも知れない。

死ぬかも知れない。

だが、その波が来たこと、そこに乗ろうとしたことで、次も波が来る。

 

そういう機会に挑戦していくことで、波に乗れるようになるだろう。

さて、人生のサーフィンを楽しみますか。

WINな関係

『自分と関わる人、自分が出力していることに関わる人たち、みんながWINになるといいと思っている』と言う言葉を人に掛けられる人と出会い、そこから何かが始まろうとしている。

 

生活の中で仕事が大半の時間を占めている。

仕事場の空気が悪い。

今日も、そのことに対して話しをしていた。

 

そんな大半の時間の環境で何かが変わるようなことは、まず難しい。

それは所詮、雇われた人たちの集まりだから。

 

だが、仕事以外で創り出している(出そうとしている)人たちとの付き合いは、自分の本気度、持っている空気感、生命力、精神力でつながり合う。

 

もちろん出力することの良し悪しなどはあるが、それを本気でやっている(やっていく)ならば、それを出力している人間(自分自身)を見られる。

 

裸の自分だ。

 

そんな裸の人たちが集まると、相乗的に高め合おうとする。

それは自分の出力することが、他者の出力することと絡み合い、加ではなく積となり、とてつもないことが起きることを感じているから。

 

可能性の話しを、この前したが可能性が可能性を呼び、予想していること以上のことが起こる。

 

ゼロではない可能性、可能性があるということ。

その『ある』を見えるようにするのも、見えないようにするのも、とてつもないものにするのも、自分次第だ。

 

すでに『ある』のだから。

 

出力している人は、それがわかっているから楽しくて、楽しいならみんなで楽しもうよ!となる。

 

これを言えるのは、本当に楽しんでいる人だから。

仕事では言わない。

『我さえ良ければ…』

特にノルマがあるところでは顕著に出る。

自分さえ良ければいいのだ。

 

楽しんで仕事をやっている人は居ないとは言わないが少ない。

なぜ、出力するのか?

なぜ、仕事をするのか?

この二つには大きな違いがある。

 

仕事は生活をするため。

出力は楽しいから、好きだから、やりたいからなど…

創ることに楽しさがあり、その楽しさに賛同したり、楽しみを感じたりする人たちがいる。

結局、自分の楽しさに対して、色んな人が関わっていく。

どんな形であれ。

 

出力に対して、反応してくれる人たちがいることを知っているからこそ、『みんなで』となる。

 

自分のことなのに、人が関わっているからこそ、成り立つことに気づくか、気付かないか。

 

仕事もそうなんだけど。

そこに気が付きにくい。

需要と供給、発信と受信、人との関わり合いの中で生きているのだが。

 

これからその体験していく、そしてその濃度が濃くなっていくかも知れないと、仄かに香る空気が緊張させる。

何かが始まろうとしている。

何が始まろうとも、やりつづけること、覚悟して臨まないと、その世界は楽しい世界から厳しい世界に変わる。

それがわかるから。

 

でも、もう後戻りはしない。