在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

世間一般からかけ離れていく

世間一般で起きていることに、ほとんど興味がない。

家にTVはなく、新聞も取っていない。

インターネットでニュースを見ることも、調べることもない。

 

唯一、職場でTVがあるのでそれをチラチラ見るだけ。

世間の情報なんてそれぐらいでいいと思っている。

 

世捨て人になりたいわけではないが、世間の情報によって影響を受けるのが嫌なだけ。

影響を受けないと言い切れないから。

 

もし明日、世界が滅びるというニュースがあったとしても、それを知らなければ、滅びないかもしれないなどと、またパラレルな話しにしないでおこう。

 

人生どんな道が待っているのかわからないが、自分が進みたいという方向を見たときに世間の情報が必要なかっただけ。

誰それが~どうだ、こうだと他人のことを気に病んでいる場面を見かけるが、他人のことを病む前に自分のことを病んでみてはどうだろうかとも思う。

 

心配しなくても、その気に病んでいる他人が自分の人生を左右することはほとんどない。

それはそれで夢を見ているのだとは思うが。

 

新しい道に進もうとするとき、大なり小なり障害となることが発生する。

その障害を乗り越えようとしたとき、乗り越えたとき、新たな繋がりが生まれる。

その繋がりがどうなるのかは、わからないが可能性が一つずつ現実に近づいたり、一つずつ増えたりしていく。

そんな人生を歩もうとしていれば、世間一般のことが気にならなくなっていく。

 

というより、そんなことを気にしてられなくなってくる。

新しい道が出来たとわかった瞬間から、次の越えることに向かって準備するようになる。

その道がもしかしたら次越えることに繋がっていないかもしれないことも想定しておく。

想定できること全てを想定して、やることをやっていこうとすると、見えている景色が違ってくる。

見たい景色を見るように、見たい景色以上の景色が見えるように、それまでやる。

ほかの事は見ない。

 

人の脳の処理は思っているより多くないから。

大事な情報をすぐに入れられるように、あけておく必要がある。

強烈な一発

今日は惨敗だった。

いや、もしかすると今までも負けていたのを見なかっただけなのかもしれない。

 

他者の言葉をまとい、他者の存在を借りて、今までずっとやってきたんだろうな。

 

実力なんて、小っぽけですぐに負けてしまっていたのだろう。

負けているのに気付かず、やれば何とかできるなんて思っていながら、何もせず、何かのせいにして逃げ回っていた。

 

負けたと認めることから、逃げていた。

そこに立ち向かうからこそ、次の段階に行ける。

可能性にかけると言うことは、賭けた自分にムチを打つしかない。

そんな自分にムチを打てず、逃げ回って、立ち向かおうと決めた瞬間、後追いのように助けてくれたのは他者である。

 

存在を大きくすることが目的ではない。

存在を認めてもらうことが目的ではない。

 

しっかりとやるべきことをやれば、存在は勝手に大きくなるだろうし、存在を認められることにもなる。

 

上には上がいる。

親友が言っていた。

オーバーキル(相手を致死に至らすぐらいの攻撃)ができるようになるまで…

自分の出力することに対して、そう言っていた。

 

出力することを見る相手、それを受け取る他者その出力することにチカラを込めて、存在を込めてこそ、相手に影響を及ぼす。

 

その為に、それまで、それからも、やり続けること。

 

生半可な気持ちでやり続けるのではなく、覚悟して。

新しい道を選ぶと、その広がる道の分だけ、可能性の分だけ、何かを失うかも知れない。

責任を持つ、自立するということは、そういうこと。

 

それをやり続けたくなる情熱、それをやり続けるチカラ、ただ自分だけではなく、他者が与えてくれる機会。

 

そして居場所は自分で作る。

 

今日のこの空間に、誰一人として欠けてはいけない。

だからこそ、その役割を果たすこと。

すべての人が、すべての役割があるように、その役割を認識して果たすこと。

 

やると決めたのだから、後戻りはしない。

何度も食らいたくない。

強烈な稲妻を。

逃げ回れず、受けるしかできなかった。

強烈な一撃を。

心がズタボロに壊れた。

粉々になった残がいに、キラリと光るものを見つけた。

 

それを今まで大事にしてきてなかったから、ズタボロになってしまったとわかった。

 

ズタボロになってまでキラリと光るものは、新しい道までも用意してくれたのだ。

 

やるだけ。

楽しんでやるだけ。

可能性が増えていく。

賭けた自分にムチを打っていく。

 

 

 

 

ポジティブって…

『ポジティブ(前向き)でストイック(厳しい)ですよね』と言われ

『んー、これが自然体なんだけどな…』と心の中で思う。

 

思ってみれば、確かに前向きな捉え方をしている。

すべてのことを瞬時に、そう捉えられることができるわけではない。

 

自分を取り囲むすべての事象は、ただ現れるだけ。

その事象に対して、自分が反応しているということ。

 

どんなに自分が思おうが、【その事象は変わらない】。

 

その事象に対して【どう反応するのか】

そして、それは自分が【どうかできることなのか】などを知っておけば、【前向きに捉える】ことができる。

 

ということをわかっていても、すぐにできるわけではないので、いつも【クセ】のように反応してしまう。

 

【いつものように反応してしまった】と気がつけるか?が大切である。

自分で自分の【クセ】に気づき、気づいたその時から直していく。

そうやって、意識から無意識に落としていく。

 

と、書きかけて、時間が経ち気づいたことがある。

 

【前向き】に捉えることをし続けることと合わせて、していることがある。

 

【0ではない可能性に向かっている】こと。

同じようなことではあるが、少し違うのは【起きる前のことに対して、自分で結果を決めてしまわない】こと。

それが【0ではない可能性に向かっている】ことになる。

 

起きる前から、あーだ、こーだと結果を決めて進んで、やっぱり、、、と思うのは愚の骨頂だ。

望んだ結果になった上に、やっぱりなどと嘆いたり、悔やんだりしたりしてどうする?

まだ結果は出ていない。

最大限の努力ができる。

最大限に動ける。

ある程度、予測のつく事かもしれないが、予測がつくのなら【予測を超えるようなことをしてみる】。

 

 諦めるとは、明らかに観ること。

明らかに観た上で最善、最大限のやれるべきこと、それらを超えてできることをやってみればいい。

 

その為に、前を向いている。

【事象】に対して【どう思おう】が【どう捉えよう】が構わない。

起きる前のことは、まだわからないことなのだから、いいように考えれば(捉えれば、想像すれば)いい。

某漫画であった『諦めたら試合終了』という言葉もそういうことだと思う。

 

人生の中で試合終了は、生が終わるということ。

生が終わらないのならば、楽しめばいい。

 

たった一度きりの人生。

楽しもうよ。

じゃあ、またね

今日1日その瞬間、あなた(たち)と楽しい時間を過ごせて嬉しかった。

楽しかった。

ありがとう。

 

という願いを込めて。

また会える日までを楽しみにしていると。

 

本当に心から言葉が滲み出ているから、『じゃあ、またね』の響きがいい。

 

別れ惜しく、せつなく、儚い。

詰め込まれた思い。

 

そんな関係をたくさん作ろう。

 

『お疲れ様ー』とかではなく『じゃあ、またね』

 

誰かが放ったその言葉を耳にして、そう感じたんだ。

ああ、いい響きだ。

ふかぁ〜く…

不倫についての話しから、慈愛の話しになり、どんどん深く、深くなっていった話。

(見る人によっては厨二病拗らせていると感じる方もいるかと思います。)

 

 

まず、【不倫】について。

結論、『不倫はダメ』だ。

では、何故ダメなのか?

(こういう何故?をすると深くなっていく)

 

誰かが傷つくとか、周りに迷惑をかけるからとか、そんなことではない。

それ以上なのだ。

 

結婚は儀式でも、紙を出すことでも、契約でもない。

存在に対して誓うこと。

それは結婚という形だが、結婚だけでなく、付き合おうが、何だろうが。

不倫をするということは、その誓いを破ること。

その誓いを裏切ること。

捨てること。

 

与えられたことに対する投げ捨て。

誰から与えられるのか?

それは色んな表現がある。

例えば、神であったり、仏であったり、宇宙であったりする。

その与えてくれることに対して、裏切り、冒涜している。

 

与えたことに対して、反応し、選択したことで、また与えられる。

それがどのような形であれ、与えられる。

 

与えられることを当たり前と思っているのか、有り難いと思っているのかの違いで、与えられることは変わってくる。

 

そういうことがわかるように与えてくれているのは、慈愛ということを体験するため。

 

という話から、【慈愛】について。

 

慈愛とは何か?

慈悲とも、愛とも表現できる。

この言葉は、名詞ではなく動詞である。

 

そのような存在があるではなく、動きや心の状態などを表現している。

 

慈愛を持っていれば、不倫はしない。

ダメだとわかる。

『食べるとダメ(例えば、病気になる)→食べる→病気になる』とわかっていても、欲に任せて食べる。

ちゃんと教えてくれているのに、食べてしまう。

結果は必ず…訪れる。

そういうことを昔の人たちは(体験を持って)わかってて教えてくれていたのだが、良くも悪くもそういう教育が薄れている。

 

そういう昔の言い伝えは、ゲームでいうコツであったり、攻略法の一つであったりする。

 

という話しから、【人生はゲーム】という話しに。

人生は没入型仮想世界の可能性が広がりつつある。

自分はゲームの中のキャラでしかなく、操作(傍観)している存在がいる。

では、主体は何なのだろうか?

そもそも、存在とは?

意識とは?

などから自由意志などの話しになり、もう今までの認識の範疇を越えていく。

はっきりとした答えがあるわけではない、ふわふわとした感覚に陥り、思考がついていけなくなっていた。

それでも、何とか思考をしていると思考ではない部分で考え、理解しようとしていることに気がつく。

 

結局のところ、すべては運命であり、自由であるという答えにたどり着く。

選んだことの結果は既に決まっていたこと。

どれを選んでも、何を選んでも、決まっていたことになる。

が、選ぶことができる。

この話しは、『今、この瞬間にしか存在していない』などの精神世界に繋がる話しになってくるが、それを現実でどうする(思い→行動する)のかが大切である。

などの話しになった。

 

人によれば、わけのわからない話しに聞こえる。

どうでもいい話しだと思う。

そんなことを考えずとも、思わずとも、生きていける。

何も困らない。

何も知らなくてもいい。

 

だが、占いを信じるより、確実な方法である。

 

 

 

何故なら、どう選択しても結果は既に決まっているから。

 

使い分ける

-----お断-----

このブログでは、できる限り横文字と言われる英語なのか和製英語なのか、よく意味のわからない言葉は使わないことを心がけているが、今回は、日本語に変換できない言葉などがあるため、横文字も使っている。

 

-----ここから-----

今や、世の中にはたくさんのサービスが溢れている。

特にインターネット関連のサービスはものすごい数がある。

例えば、SNSにしても様々なサービスがある。

そのSNSなどを利用するにあたって基本的に無料である。

 

どうやって運営しているのか、広告収入だけではないと思うが、そういった話しではないので割愛する。

 

人々が求めること(ニーズ)に応えきれない部分のニッチ(隙間)に対してまでサービスが行き渡り、色んなことを駆使すれば快適な生活ができる。

 

それを使い分けることで、また面白いことができる。

 

インターネット上で相手を特定する情報がなければ、その人が男性なのか女性なのか、何歳なのか、どこに住んでいて、どんな人なのか、全くわからない。

男性が女性になりきることも、大人が子どもを装うのも、逆も然り。

どこからでもインターネットに接続さえ出来れば、サービスを利用することが出来る。

 

インターネットという世界の中では、境界が薄くなる(ない場合もある)。

 

使い分けることで、ここのブログと違った人物として、存在できる。

そうすることで得られることがある。

 

今の時代、まとめることを推しているサービスもある。

ポイントカードなどのポイントも各社が提携している。

電気、ガスなどのインフラや家までまるごと電気でといったオール電化もあり、その上、ケータイ電話やインターネットもまとめて、まとめてと言うこともある。

 

だが、それぞれに特徴があり、まとめることが正義だとは思えない。

 

使い分けることで、リスク分散もできる。

使い分けるためには、サービスの良し悪しを知り、どういうことには、これを使い、これにはあれを使いということが必要になってくる。

 

そこまで深く知らなくても、自分で線引きして使い勝手のいいようにしていけば良い。

 

必要なくなれば、必要のなくなったサービスを止めるだけで、すべてやめることにならない。

 

使い分けるためには徹底していくことが大切。

ここのブログの内容と同じことを他でやっているのでは、使い分けている意味がない。

また分け過ぎると、管理できなくなるので管理できる範囲で使い勝手のいいように分けるといい。

 

色んな視点を持つことで、味わい深い人生を送れる。

自分の人生に味が、色が付くのは他者との関わりであるが、そうするのかどうかは自分が決めている。

決めることである。

使い分けて、味わい深い人生を送ると楽しさが増すかも知れない。

 

確実とは言えないが

多分、幸せと感じる日々であったり、楽しく過ごしたいと思う日々は、そう認識していくことが大切なんだと思う。

 

こうだから幸せだとか、こうだから楽しいという理屈はない。

 

そんな理屈抜きに、直感的に、直接的に感じるんやろうなー

だから条件抜きにして、どう感じているのかを自分が知ることが大切なんだ。

条件は時に変わり、苦しいと思う条件(状況)や辛いと思うこともある。

が、大したことない。

 

本人からすれば、それは大したことであることは間違いない。

なぜなら、大したことだと認識していて、どうしようもない問題として捉えているからである。

もっと客観的に見て、自分の軸を認識して、その軸を持つことで、そういったことはなくなってくる。

大した問題など、ほとんどない。問題すらもない。

 

自分の人生を自分主体(自己中心的という意味ではなく)で、動かしていける。

それは選択という術をすべての人が持っているから、そしてどう反応していて、選択をし続けているのか。

 

それが分かっていながらも、他者の問題に絡まれたり、囚われたりするのが、人でもある。

直感で感じることに対して、気持ちのいい方、心地よい方、心踊る方、そういう選択をしていけるように訓練していくことから始めてみるといいだろう。