在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

うずうずすること

台風がまだ日本に、この地に上陸していない時から、嵐に見舞われた。

それをつれづれと書いていたのだが。

如何せん。この怒りが治まらない。

 

師事として仰ぐ友人に相談してみると、『耐性がない』と言う指摘と、『突き放してやればいい』と教えてくれた。

 

事実、耐性がないため、こうなっているのだが…

もちろん、一旦は突き放していくが…

 

冷静になるために、自分に非がないかを探す。

自分に非があれば、そこが要因の一つになり打開できるのではと考えるから。

もちろん、因果論で物事が成り立っていないので、非を踏まえた上で行動しなければ、同じことの繰り返しになり、いつまでも平行線なのだ。

 

相手のせいにしてしまうのは簡単だが、物事を進めるには相手を知り、相手が求めることや、相手に伝わる形でやっていかないと、お互いにしんどい。

 

わかってほしいではいけない。わかってもらうためにどうするのか。

私の対象が『やんごとなき人』たちなので、わかってもらえるように、していく必要がある。

 

そのためにアタマを使う。

 

それを初めからしておけばいいのだが、予定外のことだった。

 

このように、冷静に物事を見ていくと、怒り狂った自分自身はまるで駄々をこねている子どものように感じる。

怒りを持ってしても何も始まらないことがよく分かる。

 

自己責任とかいうことばが、少し前に流行っていたが、自己責任というのはすべての事柄に対して自分が選択して、対応していくことなのかも知れない。

自分が選択したことなのに、それに対して怒り、無駄な時間や労力を使っているのも自分である。

 

ぐるぐる巡って初めに戻る。

 

その初めがよくないことにも気が付くとなると、やんごとなき人たちのことが有り難く思う。(ポジティブシンキングでもなんでもない)