先を見て
ー近況-
労働から離れて、2ヶ月くらい経つ。
自分で選んだのではなく、それは一つの間違いから始まった。
新しい場所で労働する予定であったものが頓挫した。
その責任は誰にあるのか?
それを問うたところで、答えは返ってこないばかりか、全ては自分の責任と返してくる。
それからが、また大事件なことである。
言うことは立派なくせに、何も出来ないのである。
それらを全て自分で被らなければいけない。
これが現実だ。と言わんばかりに、目の前に突きつけられた。
それでも、、、と思っていた。
だが、そう思っても同じことになるかも知れない。
なので、もう見切りを方向へ舵を切った。
(めちゃくちゃ抽象な文になってしまった。)
人は、自分の周りで起きていることに対して、主観で見て、経験から判断する。
主観で見ているため、感情的にもなりやすい。
どう見るのかの選択肢があっても気が付きにくい。
いや、気が付かない。
それを伝えてくれている映画が、Life Is Beautiful
ほんと、素晴らしい。
例えば、自分自身が誰かをいじめているいじめっ子だったとしよう。
そのいじめている相手が、いじめと感じなければ、いじめようがいじめられたと思わない。
(これはこれで面白いことであるが、その話しは省略)
では、自分の状況に置き換えて見てみると…が簡単に出来れば、悩みもしないのだろう。
だが、置き換えようとしてみることだ。
状況に対して、感情が働いてしまうことや主観で見てしまうのは、そういう風にしてきたからである。
だから、一旦置いて見てみるのがよい。
『誰かが同じような状況なら』と仮定してみて、その状況から誰かが導いた選択肢以外の選択肢を探してみるとよい。
見えない角度から見てみる練習は必要である。
その練習をすればするほど、いつの間にか感情ではなく、主観だけでなく、物事を見ることができ、選択肢を増やすことができる。
その選択の先から導いてみるとどうなるのだろうか?
そんな風に見た時に、何しても上手くいかないことがある。
その上手くいかないことは拘るべきことなのだろうか?
もしそれ以外の方法があるのであれば、それを選択することでどうなるのだろうか?
そうやって物事の先を見て、拡げて見るとよい。
ここで重要なのが【物事の先を見て】ということだ。
先見の明という
『事が起こる前にそれを見抜く見識』とあるが、結果から選択肢を導き出す力は誰にでもつくと思う。
物事の先を見るということは、物事の先を決めるということ。
そして、決めるからこそ、今の立ち位置がわかり、どう選択するのが一番良いのかが見える。
何も不思議なことではない。
普段から私たちはやっている。
人生にも同じことが言えるだけ。