在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

人間の関わりも互いに素

人は社会の中で生きている。

社会が人を人らしくさせていると言っても過言ではない。
その社会とは、人と人が関わり合うということから結合することを意味する言葉で成り立っており、共同体という形で社会という言葉が成り立ってきた。
ただ今、社会といえば様々な使われ方をしているので、共同体という意味から離れていることもある。

社会を作り出しているのは、会社や組織ではなく、人と人という個々が結合、関わり合い作り出している。

その作り出している人と人との合う合わないがある。
類は友を呼ぶと言われるように、似たもの同士が集まったり、似たもの同士だけが仲良くなっていくことがある。

それは似ているからだけなのだろうか?
では何が似ているのだろうか?
そんなことを考えていた。

友だちから聞いた話ではあるが、なるほど!となった話しがある。
人はそれぞれが歯車で、大小があり、歯数も違えば、回転速度やその向きが違っていたりする。

歯車は動力を伝達する装置で、その組み合わせにより、回転数を上げたり、力を増幅させたり、伝わる動力の向きを変えたりしている。

人との関わりもそれと同じで、仕事などの目標、目的に対して複数人が関わり合うなどの場は特に歯車の組み合わせに置き換えやすい。

歯車の装置は、歯車同士が同じところに当たらないように互いに素という形でほぼ組まれている。
それは毎回、同じところに当たることによって、摩耗しやすくなる、当たりがついて伝達に損失が出るなどが弊害が出るので、それを無くす形で組まれている。

またそれぞれの速さであったり、伝わる動力の加減なども考えられている。

関わり合う人の当たりが同じであればあるほど、毎回同じことでぶつかり合う。

類は友を呼ぶはお互いに似ているが、歯車の組み合わせとしては互いに素の関係であるとうまく回っていくのだろう。

自分だけでなく、相手も互いに合わせあえる関係で、その合わせることにストレスを感じない(無理のない)状態が一番いい。

無理をしなければいけない場に、留まることはないこと。
人は面白いもので、知らないうちに自分自身に魔法をかけている。
社会というルール(法律など)はあるが、それ以外に自分自身に対して決めていることがたくさんある。
また、自分がいつの間にか、守っていることもある。

付き合うことがしんどい人間関係は、歯車が互いに素ではないのかもしれない。
その歯車の中で生きていく必要があるのかを客観できないほど、何かに追われていることも多い。

人間関係について、学ぶ機会は実践しかない。
実践以外の学ぶ場があったとしても、学んだことは実践にて検証できる。
人間関係に、これが正しいという答えはない。
また、間違いという答えもない。
あるのは、その人間関係において自分がどうなのか?ということだけではないだろうか。

関係を作っていくのは互いであり、複数の集まりである。
共同体の言葉の通り。

付き合う相手を変えることは、してはいけないことではない。
付き合う人が自分の人生に少なからず影響を与えるのであれば、十分に考えるのではないだろうか?