育てること
その物事に意味はあるのか、なぜそうなのか、そうするのかなど「なぜ?」ということは知識だけでなく、その知識を得るための体験も得ることが出来る。
多くの体験や知識は、その人の栄養素となり様々なことを与える。
ただ知識だけよりも、しっくりくる。腑に落ちるというところまで納得して初めて栄養素となる。
仕事をしていて、最近の企業は人を育てないのだなと感じている。
育てようとしているが、育てる側の人と育てられる側の人との考え方や捉え方の違いが大きすぎて、育てる側がどうしていいのかわからないのかも知れない。
育てるということは大変、重要なことでなぜ育てる必要があるのかを考えたらよくわかるが、あまりそういうことに関わる機会が少ないと、考えることもしないのかもしれない。
人は生まれて、自然と育っていくのではない。
様々な過程の中で、学ぶように環境が作られている。
面白い話が、人は社会によって人となるということ。
社会が人を作り、また人が社会を作っていく。
この相互関係の中に居るからこそ、人として生きていける。
不幸にも、その学ぶ期間に社会の外に居た場合、人は人として生きていけないのである。
この育てるということを教育ともいい、教育は親から始まり、学校があり、社会組織(例えば会社)などがあり、ずっと学び続ける環境である。
また、子どもを授かったときは、親として教育をする立場になる。
それが繰り返されて、今の社会が出来てる。
だから、この教育が非常に大切になってくる。
もちろん、教える側と教えられる側という一方通行だけでなく、自ら学ぶこともしている。
それは生きるために自ら意識的に学ぼうと、得ようとして身に付くこともある。
関わる人や置かれた環境など様々な影響を受け常に更新している。
更新をしない場合は、その環境や関わる人との関わりはいずれ絶えるだろう。
こんな教育のことを知ったのは、教育とは何かということを意図せず学んだからである。
教育者(国家資格を持つ人)は、教育とは何かをしっかりと学んだ上で教えているのだろうと想像する。
教育の本質を十分に理解したとしても、学校組織には国の要望があり、それに基づいて教育課程などを作るので、教育の本質を発揮できないこともあるだろう。
教育はいつか自分もその立場になるため、何かを伝達しているということになる。
伝達する際に、今までと違ったことを伝達することもある。
それは社会が常に変化しているから、時代にあった形で伝達していく。
だが、それは先を見越したことを伝達しておかないと、大変なことになる。
今がその時のように感じられる。
新しい試みであったが、その代償は大きい。
それ以前からもあったのかもしれない。
徐々に、徐々に現れていたことではあったが、新しい試みにて顕になった。
国の責任ではあるが、どうしようもない。
あとは自分で選び、学ぶこと。
教育の本質を少し知って、『ああ、教育する立場の人は、重要な立ち位置にいるのだ』と認識した。
先生と呼ばれ、浮かれている場合ではない。
この『センセイ』という言葉は重みがある。
だから、国家資格になっていることも理解できる。
国家資格とは、国が基準を設けてその基準を満たした人が、社会貢献に役立てるようにとしている部分が大きいと思う。
育てるということは社会に大きく貢献する立場であることを知った。
そして、改めて難しいことなんだと思った。