在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

自分の世界に生きる

朝起きてから寝るまでの間は、自分の意識が認識できる時間である。

 

その認識できる時間で何を意識しているのか、何を想像しているのか、何を思っているのか、何をしているのか。

 

実際に行動することで、自分の世界に大きく影響する。

それ以外の意識や無意識、想像、会話なども大切になってくる。

ここでいう自分の世界とは、自己中心的な考え(俗にいうワガママ)ではない。

 

自分の世界は、誰でもなく自分が創り出している。

もちろん社会と関わっている以上、社会の影響はあるものの、その社会が自分の世界そのものになることはない。

社会という枠は、場所や人などの環境によって変わってくる。

自分もその社会の一部である。

 

前に『場』の話しをした。

自分の周りで起きている『場』のチカラが自分の世界に影響を及ぼす。

だいたいが無意識に認識していることや意識的に認識していることが『場』のチカラが影響する接点となる。

 

無意識に認識しているとは、例えば街中の大勢の人が居る中で、自分の名前が聞こえてきたときに、反応してしまう(自分の名前を言っているとわかる)など。

 

そういった接点から、『場』の作用であったり、自分が『場』の中心になったりする。

 

自分の世界と『場』との関係を知っていれば、自分の世界に必要なことを入れることができる。

 

自分の世界では、自分がどう生きていくのかという軸があり、社会との関わりも含めた世界である。

 

自分の世界に何を持ち込むのか、何と、誰とどのように関わりたいのかなどを考え、想像し、行動していくことで、世界は思った以上の世界になる。

 

 

ー 電車の中で、隣の人が化粧をしていた。

公共の場でみっともないなと思いながらも、気にしてなかったが、あまりにも丹念にするものだから、色々と想像してしまった。

これからデートなのかも知れないなどと。ー

 

だが、ふと思った。

自分にとってどうでもいいことを、なぜ想像しているのか。

そんなことを想像する間があるならば、自分がしたいことなどに使った方がいいだろう。

 

単純なことだ。

自分の世界に、必要のないことを入れる間を持たないこと。

 

やることがたくさんあるのに、色んなことに気をとられて、やることをやっていない。

集中していない。

 

本当に自分の世界を、自分の思っている以上の世界にするには、必要でないことをできるだけ少なくしていくこと。

 

その世界を作っていき、そこで生きていくことに注力していくこと。

 

何かに命をかけるという言葉があるが、かけるのは命ではなく『存在』をかける。

 

それが創造すること(クリエイト)であり、そう生きている人が芸術(アート)なんだと感じた。

幾度なく、繰り返して

自分の感覚に『はっ!』と気付かされることがある。

 

人と話していて、『こんな良いところあるのか』、『可愛いところあるな』、『しっかりしているな』など、対する相手に良いところを見つけて、感心している自分に『はっ!』となった。

 

対する相手が気分的なことやその時の状態もあり、自分の思っているようなことを

 

相手にそういうところを見つけた時に、何故いつもそうやって良いところを見るようにせず、悪いところばかり見てしまうのかと考えた。

 

考えても、わからなかったので調べてみると、『自分自身を許せていない』、『相手に見える部分は自分の投影』などが書いてあった。

 

自分自身を許せていないか…

 

許せていないというより、気持ちや時間、生活などに余裕がなかったことや自分自身の価値観や考えを他人や相手に押し付けていた。

自分の物差しで相手を測っていた。

 

そうして何があるのか?

他人は他人

自分は自分

自分の世界に他人のすることを持ち込み、それについて何か思っても、どうしようもなく、何の進展もなく、何の変化もないことなどがわかった。

 

自分がどう思おうが、どうしようが、それぞれがそれぞれの人生を歩み、存在しているということは、それが許されているということ。

自分が良し悪しを判断することではない。

 

それぞれが好きにしたらいい。

自分がしたことの結果が自分の世界に反映される。

 

自分の世界は自分で創造している(クリエイティビティ)。

何かモノ(例えば作品など)を創ることだけが創造(クリエイト)ではないことに気がついた。

 

自分の人生こそ、創り出していくことなのだと思った。

人との出会い、人との付き合い、何を選び、どんな反応をして、自分が気持ちのいい世界、なりたい自分で『今』を生きていく。

 

そうすることで創り出している。

それが意識的であろうが、無意識であろうが。

 

『他人のいいところばかり見て、付き合いあっていけば、きっと人生はいい人たちが増えていくのだろう』と、昔思っていたことを思い出した。

 

それを忘れていて、今そうしていけよと誰か(おそらく自分自身)に言われているのだろう。

 

 

少し、余裕が出た時に、そんなことをふと思い出した。

同じことを幾度となく、繰り返しているけれど、『創造すること』とはどういうことなのかを改めて考えさせられた日であった。

 

 

バブルボムゲーム

唐突だがこの世界には、『場』という見えない作用するチカラがある。

 

心理学でも、名称や捉えている角度は違えど『場の作用』について言及がある。

 

『場』というのは人の思念が、渦巻き他の人の思念を巻き込んで膨らんでいく。

その膨らみは、その人の思念(意識していることより無意識で認識していること)が形になるまで膨らみ弾ける。

 

ただ他の人の思念も集まるため、認識している以上のことが起きる。

 

人の思念の中に、自分の思念の種を植え付けるだけで、どんどんと『場』は思念を求め膨らみ、動き、吸収していく。

 

その作用を使いこなすと『引き寄せの法則』になる。

 

例えば、車を運転していて、右に曲がろうと思うと、右にハンドルを切るように、右に曲がるという想像を持った思念が、体や環境など(ハンドル)を想像に近付ける。

 

とんだ精神論だが、人は想像したことをしようとする。

 

自分にとっていい『場』ならばいいが、自分にとって不要な『場』に巻き込まれると逃れられず、被害を被るときがある。そうならないようにするには、思念を持たないこと。

 

思念、思い、言葉にするなど意識や無意識にそういったことを入れないこと。

また『場』が近付いてきたら、さらっと流すことが大切になる。

 

生きているということは、そういったゲームに参加しているという認識をした方がいい。

 

『場』という膨らむバブルボムをどう回避し、どう自分の目的のバブルボムの中心に入り込むかというゲームなのだ。

 

もちろん、ロールプレイングゲームであったり、アクションゲームであったりと、様々な形のアトラクションが用意されている。

 

ゲームのように説明書はない。

そして、完全没入形のゲームなので、ゲームに参加していることすら明示されない。

 

説明書はないがガイドはある。

操作についてや、ルールについての案内は人であったり、体験であったり、書籍、口伝、様々な形で案内される。

意図と違った案内もあるので、全てが自分に合っているとは限らない。

 

一見、難しいと感じるが、感じてしまうと無意識がそう認識する。

 

一つ一つ、噛み砕いてわかっていくことで、このゲームを楽しむことができる。

終焉ですら、自分で描くことができる。

 

できるが、できるまでやり続けることが大切。

色んなアトラクションを十分に楽しんでいこう。

ブログ開設2周年の記念書き込み

ブログを開設して、2年になると通知があった。

 

『もう2年も経つのか…』と思い返した。

 

ブログを始めたきっかけは、人にブログを勧めたことからである。

 

身元の知れるSNSでは言えないことを、吐き出すために始めた。

 

特定は出来ないとは思うが、基本的に抽象的な書き方や出来る限り日本語で書くなど決まりを設けて書いている。

 

時折、その決めごとがあるため、伝わりにくい文章になっていることもある。

このブログにアクセス解析機能が付いているので、時々確認するが見ている人は少ない。

 

人の愚痴などを見ても面白くないからだろう。

ただその中でも、スターをくれたり、見てくれている人がいるので、とても嬉しく、ありがたい。

 

最近、少しずつではあるが、色んなことが変わりだし、動き出していることを感じる今日この頃。

 

そんな今日は満月と、何かしらの縁を感じる。

(人は意味付けしたがる動物だと思う)

 

自然の動きから生じる何かに少なからず影響を受けている。

曇りの日は、気分がすぐれないし、満月や新月の日は特別な気持ちになる。

 

どこで記憶したのかわからないが、『毎日が記念日』という言葉を思い出した。

毎日、毎時間、毎分、毎秒、全てが記念日なのだろうと精神世界的なことを思ってみる。

 

少しずつではあるが、自分の世界に光が射し、霧が晴れてきているように感じる。

『世界は複雑なようで、単純明解』

その仕組みをわかれば、単純になっていく。

 

色んな人が色んな形で、そのことを伝えているのだが、実践して体験しなければ、分かり得ない。

アタマではないから。

 

何でもそうだが、使いこなすためには、そのものを何も考えずともできるようになるまで使うこと。

そのために基礎や、それ以前の仕組みなどの学びが必要。

基礎や仕組みがわからなくても、感覚でできることもあるが、わかっていた方がいい。

 

知ることの楽しさ、使えることの喜び、そして自分の知ったこと、使えることを人に提供するようになると、楽しさや喜びは違った形で返ってくる。

 

極めるということは、そういうことなのかも知れない。

ただ極めきることはないのだろう。

常に変化し続ける。

それをどう楽しむか。

 

2年を振り返るならば、2年先を見て動いていく。

 

 

所属しないという選択

人は社会の中で生きている生き物で、社会の中でしか生きれない生き物だと言い切ることもできる。

 

社会の中で生きていくための一つの方法として、仕事をして生きていくという方法がある。

(この辺りのことを話すと話しが逸れるので省く)

この仕事をして生きていく上で、会社に所属する、自分で仕事をするなどの選択肢があるが、自分で仕事をするという選択肢は、会社に所属するという事と重さが違う。

 

簡単にいうと自分で狩りをして、自分で畑を耕し、世話をして、何もかも自分でやっていくことになる。

狩りをするにしても、そこに獲物が居るのか、獲物を獲る技術、獲った物を裁く技術、何かとやることがある。

 

社会は現物支給ではないので、何かをお金という外貨に変える必要がある。

会社はそれらを分担してやっている。

だから、自分が担当している仕事以外のことは考えなくてもよい。

集団でやると大きな獲物を獲れる。

獲れた獲物を分配することができる。

また分配も獲物を獲った人たちだけでなく、他の人たちにも分けることができる。

その分ける時に、自分が必要とするものと交換することが可能だ。

 

一人だと獲れる獲物は限られている。

もちろん、大きな獲物を獲ることも可能だが、それなりの準備や技術、知識、道具などが必要になってくる。

 

もし一人で生きていくのであれば、時間もお金も使い方が変わってくる。

 

有限なものが多いので、しっかりと獲物を見てやっていかないと、獲物を獲り逃してしまう時もある。

 

所属から独立するとき、覚悟がいる。

一人でやっていく覚悟。

だが『また戻ればいいや』。それもいいが、そういう時間があればの話しである。

 

独立の仕方は、人によって様々だろうが、どれだけやるのかで違ってくる。

 

そこで、今までの話しが役立つ。

自分に与えられたすべてのことを、獲物を獲ることだけに向ける。

ただ、獲物を獲ること以外ことも訪れる。

 

だが、そこに時間をかけて獲物が獲れるのか。

そうならば、獲ることに直結しなくても有意義だろうが、獲ることとかけ離れ過ぎていることに関しては、関わること自体が無駄になってくる。

 

独立を目指すと、やることがたくさん出てくる。

頭の使い方、時間の使い方、お金の使い方、友だちとの付き合い方、色んなことが変わってくる。

変わっていく先をしっかり見て、変わった自分を今からやっていく。

 

それが出来ないのであれば、先はない。

頂くこと

しっかり会う約束、予約(アポイント)を取ることが大切だと思う。

 

どんな相手であっても、『相手から時間を頂く』のだから、その相手に対して敬意を持って予約を取ること。

 

思いつきで『今からどうですか?』なんて、本当に会いたいという気持ちが伝わらない。

それだけでなく、そういう付き合いをする人なんだと思われることもある。

 

必ず相手の予定を確認して、予約、約束すること。

そうすることによって、自分に対しても相手がそうしてくる。

そうしない人と付き合ってもろくなことはない。

『相手に時間を頂く』ことに対して、適当ということは付き合いも適当、存在に対して適当な関わりしかできない。

 

それは、お高くとまっているわけではない。

人付き合いは、簡単なようで難しい。

だからこそ、そのご縁を大切にする。

ありがとうという気持ちを込めて。

 

ちゃんとする人とは、そういう付き合いができるが、ちゃんとしない人とは、どうでもいい付き合いになっていく。

たとえ、ちゃんとした付き合いを望んでも難しいだろう。

無駄なボールは持たない

自分から行動を起こすことは、自分の人生に取って有効なことだけにしている。

 

たとえば、『また今度、誘ってください』と言われたとして、誘うのはこちらからになる。

いつ誘うのかなど考える必要があり、タスク(課題、作業など)が増える。

コンピュータはタスクが増えると、動きが遅くなるように、人も色んなことを持っていると動きが遅くなってしまったり、忘れたり、時にはパンクして動かなくなってしまったりする。

コンピュータに処理能力があるように、人にも処理能力がある。

 

その処理能力を何に、どこに使うかで変わってくる。

常に色んなボールを持っていると、いっぱいになり処理できなくなる。

だから相手からボールを投げられても、自分が持ち続けることがないようにしている。

 

できるだけ持たない方がいい。

その分、自分で投げられるボールが増える。

可能性というボールを投げることができる。

その可能性が閃く隙間も、自分がどれだけボールを持っているかで変わってくる。

 

必要最低限でいい。

無駄なことは、時期が経てば腐ってくる。

食べ物が腐るように。

 

腐ったことが、他のことを腐られていく。

基本的に溜めないことがいい。

 

いつでも新鮮な機会が訪れるように、いつでもいい機会を活かせられるように、いつでも閃きボールを投げられるように。