在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

呟いたまとめ1

最近ブログでは『人生=生きる』ということについて、色々と考察してみたり、実践してみたりして感じていることを書いてきた。

 

ブログに書くときは時間だけでなく、自分自身がアタマの中を整理したい時にも使っているので、文章として書いていることが多いが、そこまでしない感情やふと思うことはtwitterにつぶやいている。

 

今日は、そのまとめを書いておく。

■題するならば「好き、恋、恋愛」について
twitterから)

ーもし、あの時あなたが、あの曲にのって踊らなければ、おそらく意識しなかっただろう
これは勘違いなのかも知れないけれど、それが勘違いではなくなることもあるー

 

ー人を好きになって、恋して、恋愛するって楽しいんだろうなと思いつつも、暇な人がすることだと思ってしまう

恋愛ではなく、人として仲良くするだけでよい

それが異性だろうが、同性だろうが

深くお付き合いすることー

 

人を好きになることが少なくなってきたと感じているが、それは年を取ったことからなのだろうか?

意識しなければ、人を好きになることがなくなってしまったような気がする。

それは、恋愛という形を取った時点で人との付き合い方が違ってくるから、その違った形がどのように自分に影響を与えるのかを考えると、恋愛という形のほとんどがいい影響にならない気がして、止めてしまっている。

 

「好きになるのに理由はない」や「心奪われる」ようなことがない。

なので、人を見るようにしてみたら、「え?」と勘違いするようなことから始めてみた。

とはいえ、知らないことが多すぎるので、知るということから始まる。

でも、知ったからどうこうなるような思いでは恋、恋愛ではないのだろうなと思うからこそ、知らないけど知っていくことも含めて受け止めてみるのがいい。

言葉にはできないが、恋愛関係になったとしてもお互いに成長できると自分が感じていることにウソは付かないでおこう。

 

それが小さな愉しみになり、生活に少しばかり明るい色が映えた。

 

■女性について

ー男にお金を払ってもらって、楽しくしていることに対して金ヅルにしていうのは間違いないと思う

その表現こそ違えど、お金がなくとも付き合うのかというと…どうなんだろうか?

それでも付き合えるとすれば、金ヅルではない

ーそれより男に対して、お金が多い男がいいと答えた外国人女性の方が気持ちがいい

言葉は大切ではあるが、自分のしている行動がどのように表現できるのかをわかっていない人が言葉で体裁を保とうとする

心と頭が分離していくのだ

 

上記の通りなのだが、お金を払ってもらっていることに対して、相手に対してどうしているのかを考えれば自分の行動がどういう表現なのかということが言えるだろう。

それを「言い方が悪い」というのは、言い方を良くしている=体裁を保っているだけだろうということだ。

本当に金ヅルにしていないのであれば、「言い方が悪い」とは言わない。

「お金がなくても、遊ぶ」とか「自分もお金を払っている」ということを言うのではないか?

そんな言葉で自分の行動を綺麗に見せたとしても、隠せないということ。

それならば、潔くお金持ちがいいという方が気持ちがいい。

もしお金持ちとお付き合いし、お金を払ってもらったとしても金ヅルとは思わない。

またお金持ちではない人とお付き合いしたとしても、お金だけではなかったのだなと思うだろう。

 

お金は道具であり、その道具をどう使っているのか、どれだけ持っているのかなど、人の価値として計られる対象である。

だから、素直に言ったほうがいいのだ。

経済力=種として強いとなるから。

強い男が好きっていうのは素直な気持ち。

 

■まとめ

二つのテーマ以外にもあるのだが、それはまたの機会に。

この二つのテーマから、感じるのは何も包み隠さず生きていく(生きている)ことは、気持ちの良いことなのだなと。

自分の気持ちにウソを付かない。

自分の行動にウソを塗らない。

どう思われようが、自分の人生を生きているのは自分だけなのだから。

 

精神的に、自分の人生をしっかりと味わい尽くすように生きること。

 

付け加える

過去に縛られるのか、未来を手繰り寄せるのか。

 

過去を参照していては、過去の延長線上の未来しか訪れない。

過去の活動がどうということではなく、今まで認識してきたこと、今まで培ってきた考え方、反応、選択する基準など…

 

未だ来ていないことに対して、過去の延長線上ではしたいことも叶わないだろう。

 

何かしらの更新を加えないと、変わることはない。

新しい何かとは何だろうか?

それは描いた未来と自分を紐付けた時に現れる。

人なのか、出来事なのか、それはわからない。

紐付けた未来によるから。

 

それは今までの自分にないことなので、断りたくなることや避けくなること、そういう人なのかも知れないが、それらに対して過去から参照して決めると、何も変わらないのだ。

 

変化を嫌う生物だが、人だけが後天的適応力を持っており、環境に応じることができるので、迷わず勇気を持って飛び込む(飛び立つ、始めるなど)ことだ。

 

その判断ができるのか、できないのかと言うことも問題になる。

 

ここ最近、聞いてびっくりすることがあったので書き留めておこう。

咳をしていた人が居たので、『風邪ですか?』と尋ねたところ、『ずっと体調がよくないんです』と答え、『偏食が酷くて』とも付け加えてきた。

何が問題なのかというと、偏食が要因の一つとして導き出しているのに、偏食を克服しようとは思わない。

また別の人と話していた時に、『自分は臆病だから虚勢を張っているため、異性が寄り付きにくい』ということを聞いた。

異性に対して声をかけるなど自分からできないのに、寄り付きにくい雰囲気を作り出しておき、恋人ができないと嘆いている。

 

どちらの話しにも共通するのは、今の現状を把握しており、要因となることも明確になっているものの、その要因を克服、改善するつもりは全くないということ。

 

話しにならない。

むしろ、話したくない、関わりたくないと思う。

 

こういう人に助言をしたとしても変えることもしなければ、話しを聞くことすらしない。

 

仮に変化に目覚めたとして、その変化が無意識にできる、身に付くまでにかなりの時間が掛かる。

そういう考えをしてきた年月分は最低でもかかると覚悟しておいたほうがよい。

 

今、自分に置かれている状況は、今までの自分が作り上げてきたことだ。

その自分に今すぐに変化を加え、変化し続けるまで意識し続けること。

変化した後の自分を想像すれば、今までの自分の延長線上にある自分ではなく、変化した後の自分軸に引き寄せられる。

 

その具体的な方法は、意識するということ。

 

意識とはいわば、車でいうハンドルの部分。

右に曲がろうと思えば、ハンドルを右に切る。

右に曲がろうと思うということが意識している状態になる。

車は運転手がいるから走れるが、人はどうだろうか?

運転手は人の中でいうと意識の部分。

もちろん、無意識という部分もある。

無意識は意識より強い力を持っているが、意識することで無意識よりも強い力を発揮できる。

そして、意識し続けた結果、意識しなくてもできるようになるのが無意識ということ。

この意識という機能は、優秀であると同時に弱い部分もある。

影響されやすいということだ。

何に影響されやすいかというと、自分が放った言葉や聞く言葉、それと視界に入ってくる情報。

なので、しっかりと意識してやっていくことが重要になる。

 

意識するということはかなりのエネルギーを使うことになる。

効率よくエネルギーを供給してやることも大切になってくる。

効率よくだけでなく、エネルギーの質を高めてやることも大切になる。

 

では、質を高めて、効率よく供給するにはどうしたらいいのか?

 

それは健康であることが大前提になってくる。

意識するということは、脳を使うということ。

脳を使うということは、脳に必要な栄養(エネルギー)を送ってやること。

栄養はどこから得られるのか?

その栄養を運ぶにはどのような手段があるのか?

 

そうやって自分自身のことを考えていくと、一つ一つの行動などが変わってくる。

食生活を改善するだけで、思考が変わることがあるのだが、それは体と脳は密接な関係にあるから。

 

昔の人は生まれて間もない子どもやまだ小さな子どもに『甘いもの』を与えず、辛いものや苦いものを与えると聞いたことがある。

それは、小さい時に甘いものを与えてしまうと、その子が大きくなった時に甘い考えになってしまうからと聞いた。

強ち間違いではない。

特に砂糖というものは、合法の麻薬といわれるぐらい危険なものである。

 

そういったことを調べたり、聞いたりして考えればわかってくる。

それも意識の問題である。

 

判断する。

作業基準量(ノルマ)を課せられた仕事(労働)にて、『耐(堪)えて勝つ』と言われて、以前の自分ならば納得しただろう。

 

しかし、耐えて勝つという精神論的な考えや言葉に疑問を抱く。

 

何故、やり方が違うのではないかと思わないのか?

何故、協力する(させる)という姿勢で向かわないのか?

などと他のやり方がないのかを考えてしまうので、どうもこのような精神論的な意見が耳障りに聞こえる。

 

もう少し色んなところに視野を、思考を広げたほうがよい。

自分が崇高だと人を見下しているのではないが、人は意外と無駄なことに時間を費やしているようにも思える。

そういった自分の行動から発生する事象に対して不満や不安を抱いているのは間違いないだろう。

 

例えば、人に教えてもらうことより、自分で調べるといったことをしない。

今、手元にスマートフォンないし、パソコンなどのインターネット環境があることを知っているのだろうか?

インターネットで調べると、多くの人たちが色んなことを教えてくれている。

確かに、個人差というものや、個人の感覚が情報としてあることが多いが、その個人の感覚などをみて自分自身で判断することが大切なのではないだろうか。

 

人は楽を選び、退化していく。

 

情報を集めるしんどさ、その情報を精査する力、その情報を得るための手段など使うエネルギーを使わないようにしている。

誰かに教えてもらう。

誰かが何とかしてくれる。

誰もがあなたの人生を生きることできないのに。

そうやってエネルギーを使わなくなってくると、どんどん退化していく。

筋肉と同じで、使えば使うほど効率よく使えるように変化していく。

筋肉を使わないと脂肪になっていったり、使わないから使いたい時に使い物にならなかったりする。

そしてその結果に対して不満や不安などを言う。

 

『それ、あなたが全てやってきたことの結果ですから』

 

よくあるのが『教えてくれなかった』。

もちろん、そう思うこともあるが、その『教えてくれなかった』ということに対して、教えてもらう必要があるのか、自分で気が付くことなのかでは違うと感じる。

『教えてくれなかった』ということに対して、何らかしらの形で気が付かせようとか、教えようとしている場合が多いと思う。

そして、その前兆に対して『拒否』もしくは『無視』を選んでいる自分が居ることを忘れてはいけない。

 

自分以外の周りの人であったり、何かの出来事は自分に必要なので現れる。

それをどう見て、どう取り、どう扱うのかは自分次第なのである。

 

と書いておいて、人生がゲームだとすればということがアタマを過ぎった。

このゲームは説明書や何の目的があるなど一切情報を知らされず、始めるようなもので、進めていくうちにわかるからということなのかとなる。

 

映画や小説など創作されたものは、相手に状況がわかるように色んな情報が散りばめられている。

そうでないと、何がなんだかわからないまま進むので面白いと感じるのが難しくなる。

 

色んな情報が散りばめられていることを知るには、主人公の目線だけではわからないのである。

主人公が気付いていないことだが、周りで起きていることは主人公以外の人や状況、環境が示していることが多いのではないだろうか。

 

それを自分の人生におき変えるとどうなるのか、主人公の目線というのは自分の主観でしかない。

主観以外の客観は、他者や自分が客観的に見ることしかできない。

もちろん、渦中に居ることを存分に味わうのであれば、主観のみでいいが、その渦中に対して不満や不安を持つことをしないほうがいい。

まるで遊園地のジェットコースターやお化け屋敷のように、何が起こるのかわからないのを楽しめばいい。

もし、楽しめないというのであれば、客観的に見る必要がある。

そのために、他者がいう情報や状況、環境から自分を見るとわかりやすい。

 

それには時間や判断、選択など様々な能力を使うことになる。

だが、精神論的な意見から導き出される答えはほとんど無意味、無力であると感じる。

もちろん精神論が全く意味のないことや力を持たないとは言わないが、今そこに必要なのか、その精神論が重要なのかといわば、おのずと答えが出てくる。

 

今回の『耐えて勝つ』という意見は、今そこにある場において責任転嫁の言葉であると思った。

ただ、自分自身の心の持ちようという意味では必要であり、その言葉のお陰で臨めたことであった。

 

耐えて勝たない方法が、その時点ではなかったのだろう。

ならば、状況に対して不満な気持ちを露にするのではなく、ぐっと堪えてやってくれという思いを伝えたかったのだろう。

 

このような考察を、常々するようにしておけば、能力は上がっていく。

このようなことを自分の力でわかっていくこと。

相手の意図がどうであったのかはわからずとも、自分なりに自分にとっていい形で取って行けば良いだろう。

 

人に聞くな、人に教えを乞うなとは言わないが、自分で色々と考察した上で確認したほうがよいことを聞いたり、教えてもらったりしたほうがよい。

 

精神論的な意見は状況に対して、自分の心の持ちようを言うことが多いが、その心の持ちようによりどうなるのかなどをしっかりと判断する。

 

退化していった先に何が待つのかを知れば、退化することよりも変化し進化していこうとする道を選んだほうがよいことも判断できるのではないだろうか。

 

絶対に認識してはいけないこと

少なからず、そうだと気が付いていたことに対して、確証を持つということはそれを受け入れ、認めることになる。

 

その事実に対して何かしらの反応をし、何らかの選択をする状況に迫られる。

 

それでもその事実に対して、気にしないという無視することもできるのだが、できないこともある。

 

何のことなのかを言っていないので、このまま読み進めても確証することはない。

だが、それが事実であることは違いない。

 

人の脳というのは大変、優れた機能だと思う。

気が付いてしまい、認識することによって心身に支障をきたすことであれば、それを回避しようとする。

例えば、あまりにも強いショックを受けてしまったがために、そのショックをどうにかしようとして、多重人格であったり、うつ病などの精神的な病に陥ることがある。

また体も変化することがあるだろう。

 

だから、何が事実なのかは伏せておく。

 

さて、生きている上で一度も不平不満を思わず、言わず、生きているだろうか?

答えは『否』となるだろう。

 

日々、生まれてきた(この地に生を授かったこと)を有り難く思い、何事もなく過ごせたことを有り難く思い、寝床につくなんて、どこぞの宗教の信者だけではないかと思うだろう。

ただ、そう思える生活をしていないのは、誰のせいでもなく自分が選択してきたことだということを忘れてはいけないし、それははっきりと認識しておいたほうがよい。

 

あと不平不満に思わなくていいことに関して、思っている場合もあるので、自分の人生に関係(自分に選択権)のないことは、放っておくこと。

 

ということを全てにおいて当てはめたときに、不平不満をいうということは、自分に対して唾を吐いているようなもの。

自分に唾を吐いて、かかった唾に対して文句を言っているのは、どこからどう見ても笑えないことではないだろうか?

 

世の中はそういう仕組みになっている。

生まれてから誰も『ああしなさい』、『こうしなさい』なんて言っていない。

『親が~』、『周りが~』、『国が~』なんて言うかも知れない。

だが、そうしなければいけない理由はどこにもない。

ただ、社会という大きな枠組みで生きていく上で、それを選択するしかない場合はある。

それが義務であったりするが、その義務を果たしたくないのであれば、義務のない生活、環境などを選択することはできる。

それらをせずに言われるがまま、そうだと思い選択してきたのは自分自身以外の何者でもない。

 

なぜなら、自分自身の人生を生きているのは、自分自身以外居ない。

 

楽と愉しいは違うのだ。

考え方や捉え方を変えることも一つの手段といえよう。

新興宗教の信者とかに対して、偏見を持つことがあるだろうが、その人たちにとって、その宗教の教えや考え方、捉え方などがしっくり来て、納得しているから信じているのだ。

 

そういうことはわかるのに、なぜ自分自身のことがわからないのだろうか。

それは周りの目を気にしているから。

もちろん、日本という国はその周りの目を気にしてきた国であるから、それが文化であろう。

だが、それすら諸外国で暮らしている人からすれば、偏見の目で見て取れる。

 

よく仏教でいう中道に立ったとき、そういうことがわかるのだ。

自分自身の人生を生きていく上で、不平不満に思うことがあるのであれば、不平不満がないように改善することができる。

その選択肢を選択せずして、不平不満に思うことがあるのであれば、すぐさま選択肢を探し、取り掛かったほうがいい。

 

生きることは、楽ではない。

生きていることは、愉しいこと。

 

それを自分が選択し続けていることを忘れず、不平不満に思うこと、感じることは全て選択しなおしていく。

 

人は生まれながらにして自由である。

だが自由であるということは、あまりにも漠然としすぎていて、どうしていいのかわからない。

何故なら、どう生きていいのかを学校では教えてくれない。

親ですら教えてくれない。

 

自分の人生なのだから、失敗して色んな体験をして、少しずつどうなっているのかを知るしかない。

 

そういうゲームなのだから。

豊かになりたいと強く思う

至極、有意義な時間を過ごしたので、書き留めておく。

 

時間が大切だという認識を以前したのだが、『時は金なり』という言葉がある。

この『金』というのは、貨幣であるお金という解釈がほとんどだが、そうではなく鉱物の『金』であると思う。

 

貴重であり、希少であり、人を魅了するあの『金』だ。

 

こういう概念を見直すことが大切と言う話しを友人(それ以上の存在)としていたのだが、人生は時間でできていると言っても過言ではない。

その時間をどう過ごすのか?

 

それについて、深く考えたことがあるだろうか?

これを読むあなたはどのような生活をしているのだろうか?

 

朝目覚めて、仕事をする準備をし、職場まで行きそこで与えられた仕事をこなす。

そして仕事から帰ってきて、何をするのだろうか?

仕事が休みはどのような過ごし方をしているのだろうか?

 

仕事をしていない時間は出来る限り多くの人と関わっていたいと思った。

自分が活動(生活ではない)していることで、多くの人と関わるようになり、その多くの人たちに何かを与えたいと強く思う。

だが、与えるには時間が必要で、時にはお金も必要になる。

お金を得る方法として仕事があるのだが、時間をお金に換える方法しか知らないので、そういった方法を取る。

もし、そういう方法でない方法があるならば、それを選択するとどうなるのだろうか。

仕事をしなくていいとなれば、多くの人たちに割く時間ができる。

そして、その多くの人たちに何かを与えることができるのであれば、なおよい。

 

必要としていることやものを提供できる人でありたいと思う。

関わる人が、関わってよかったと思う存在であるためには、時間もお金も必要になってくる。

 

宝くじを買って当たればみたいな話しをしているわけではない。

お金を得る手段を話したいのではなく、お金という足かせがなくなったときにどうありたいのかを想像すること。

 

やりたいことを最高の形でやっていこう。

自分が愉しいと感じることかつ、それをすることによって誰かのためになることをやっていくと考える。

 

もしかすると、このブログを読んで刺激を受け、変わったのであれば、非常に嬉しい。

 

人に何かを与えることが出来る喜びこそ、より幸せな状態だろう。

 

幸せを感じることに条件は要らない。

生きているだけで幸せなのだ。

生きていることで、様々な体験ができ、その体験に対して喜怒哀楽という感情を感じることが出来る。

それだけで幸せなのだ。

これが土台にあるかが重要だ。

 

その上でより幸せ、より豊かであるには、人に何かを与え、人から有り難い存在と思われることだろう。

 

友人はそれを『その人の人生まで生きる』、『自分の分身がたくさんある』と表現した。

人生を生きるのはその本人でしかないのだが、その人生の登場人物かつ重要人物になるということは、もう自分の人生の一部になる。

様々な人と出会い、そうした人生の一部となっていくような関わりを多く持つと色んな人生を味わうことになる。

共に生きているのだ。

 

そのために時間を費やすことは、無駄ではない。

人はいつか死を迎える。

死んだあとは、まだ生きている人たちが、死んだ自分を弔う。

死んだときに、悲しんで欲しくない。

笑っていてほしい。

今までありがとうとたくさんの人に言われたい。

そして、笑顔で送り出して、ずっと忘れないで居て欲しい。

 

この『忘れない』ということが大切なのだ。

お墓を立て、故人を偲ぶのは『忘れない』ためだろう。

 

話しは逸れるが、先祖のことを代々受け継ぐということをしているところはどれほどあるだろうか?

今であれば、親や子どもを、親や子どもが殺めることがある。

理解できない。

どれだけ憎んだとしても、その親、その親の親、ずーっと受け継いできてくれたからこそ、今の自分という存在があり、そしてそれを受け継いでくれる存在がある。

そういったことをもっと考えたほうがいい。

 

さて、話しを戻すとそういう血の繋がりではない存在が忘れないで居てくれることは有り難いことだ。

お金を渡して『忘れないで居てくれ』と言ったとしても、人は忘れてしまうだろう。

人が忘れないようにするには、その人の人生に深く存在すること。

 

深く存在する人たちがたくさんいるということは、それだけ人生が豊かだと言うことだ。

 

人生を豊かにする方法は、人のために時間を費やすということに繋がるのではないだろうか。

 

周りに自分が関わり豊かと感じる人たちがたくさん居ることは、自分の人生が豊かであると言うこと。

 

あなたが豊かと感じる人生を歩むために、何かを提供し続ける。

共に豊かであろう。

 

 

思うところ…

私的なことといえば、年末年始のツケがたまっていて、それが身体へ顕著に出だしている。

例えどれだけ気持ちが若かろうが、老いは着実にやってきていて、それに抵抗するのかしないのかで老いの速度が変わってくるだけ。

当たり前だが、老いる現象を老化という。

 

◾︎

時間という概念は、社会で生きていく上において重要な区切りになっている。

私は時間という概念がなければいいのにと思う。また自由に行き来できれば…ゲームなどである『強くてコンテニュー』的なことができれば…とできないことを夢見てみる。

もしそうなったら人生なんて面白くもないのかも知れない。

 

時間の概念が24時間に区切られているのだが、それでいうと32〜36時間という区切りが欲しい。

 

ところで生きてきた時間を無駄だとか、後悔しているわけではないが、その過ぎた時間を有効に活用できていないと感じる(実際はできているのかもしれない)こともあり、『もっと若ければ…』と言いたくなる。

 

そう思ってやまないのならば、『今この瞬間から』そう思い過ごせば、今からの時間は、過ぎた後に同じように思うことはないのだろう。

 

◾︎

他人と話すときにどのような情報を交換(相互もしくは片方から、提供もしくは享受)するのかが、人生に取って重要なことだと私は見ている。

その時に使う言葉や言い回し方、そう言ったことも含めて、他者との情報交換が人生を豊かにしたり、しなかったりする。

常に私たちは自分の世界を【想像】して【創造】している。
想像は現実(事実として)に起こるまで、存在していないが、想像することで存在することになる【可能性】が出てくるため、想像=現実ではないと言い切れない部分はあるものの、現実として目の前に現れる(体験するなど)ことで【創造】したと認識できる(認識しないという選択肢もある)。

 

【想像】の材料の一つに情報がある。
そして情報というのは様々な情報があり、そこに意味はない。
意味付けするのは情報を得た人がするため、必ずしも情報提供した人の意図や意味と同じにはならない。


話しは逸れるが、情報を得た人が意味付けをするので、意図や意味を伝えたければ、それを伝えることが重要だ。
どうすれば情報を得る人が、こちらの意図と意味までも受け取るのか?
それは相手のことを考えて、相手が受け取りやすい言葉や言い回しで伝えることが重要と言えよう。

 

この情報交換も含めて、自分の世界にどのような【情報】であり、どのような【交換の仕方など】や他者とどのような【関わり】をしたいのかを想像して、創造していく。

 

こんな関わりがしたいと思っているのであれば、そんな関わりをしたいようにしていくことが大切で、その想像している関わり方と違う関わり方をしなければいけない状況や他者を減らしていくことに着目し、着手することで創造できる。

 

そういうことをやっていく上で、何よりも大切なのが時間。

時間に限りがあることを認識しておくこと。

その限りがいつやってくるのか不明であること。

限りがあることを認識していけば、本当に無駄なことをやっているなと気がつくのではないだらうか?

 

ただ、そうなるとかなりストイック(禁欲的に厳しく)にやることになっていく。

それでも足りないぐらいなのだが、そのような環境に心身がついていかない。

 

以前にも記載したかと思うが、意識することでエネルギーを使い、想像すること、それらを創造していくことにもエネルギーを使う。

合わせて時間も使う。

 

時間、エネルギーを掛けずにするためには、要領を得ること。

要領を得るには、やり続けるしかない。

 

新年のご挨拶

ここを見ている人がどれだけ居て、どれ位興味があったり、何かしら思いを持っているのか知らないけど、新年のご挨拶と題打って投稿。

 

 

 

さて、新年に何を思うのか?と言えば、区切りのないことに区切りを見出して、何があるのかなどと捻くれた考えを持っている。

 

特別なことといえば、普段会わない人と会うことや、挨拶が変わるぐらいなのかと。

しかし、そう言ったことができるのも、年末年始と区切りを付けているからだろう。

 

区切りという認識をしているのは人だけ。

 

認識と存在は違うなと感じた。

存在は事実とニアイコール(近しい)だろう。

認識は事実ではなく、それに対する主観があるのだろう。

 

などと考えていた。

 

常々、こうであるという存在を未来に見出した時、現実との差異を見る。

その差異を埋めるには、見出した自分になっていくだけ。

そうなっている自分をしかと見た上で、現実を見る。

 

夢や未来などまだ存在していない状態になるなは、そう在るように振る舞えばいい。

 

となると、未来の自分になるために現実的に考え、想像した自分であればよい。

 

単純明快すぎて難易度が高い。

何故なら、なったことのない自分を、未だなっていない自分がやるのだから。

 

だから時間がかかってしまう。

お金がいくらあろうとも、時間が全くないようではなれないのだ。

 

それとは関係ないかもしれないことなのだが、今自分が思うことや感じることを自分が気持ちのいいと思う現実にしていくことだけにチカラを注ぐことなのだと思った。

 

1秒という区切りを使うと、1秒も無駄にはできないのだ。

石の上にも三年、、、

座り続ければ暖まるのだろうが、熱くなることはない。

 

暖まるような人生を、暖かい人生を送りたければ、座り続ければいい。

では、熱くなるような人生を、熱い人生を送りたければ?

どうすればよいのだろうか?

 

そんな風に人生を捉えて生きている人は少ないのではないだろうか?

 

暖かい方が好きなのか、熱い方が好きなのかの違いだけで、どちらがいいという話ではない。

 

ただ、熱い方が好きなら共感できるのではないかと思う私の意見。

 

例えば『こうだったらいいのにな』と思うことと『こうだったらいいから、そうしてみる』はちがう。

『こうだったらいいのにな』は頭の中で想像している状態。

『こうだったらいいから、そうしてみる』はそれを現実に起こそうと動いた状態。

 

こういう違いがわかり、認識していくと、ただそこにある存在を変えることができる。

 

変わるか、変わらないかの結果は、変わっている状態になるまでやるからこそあるのだ。

 

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。